岡 村 昭 彦

1929年1月 東京生まれ、1946年 東京医学専門学校 (現・東京医科大学) を中退。
1962年 PANA 通信社の契約特派員として、南ベトナム戦争に従軍。のち、タイ・ラオス・カンボジア・韓国・沖縄や、アメリカ合衆国、中南米、西アフリカを取材。1967年暮れより、アイルランド・英国に渡り、アイルランド系アメリカ人を取材。
フリーランスの『ライフ』特約フォトグラファー/ジャーナリスト。バイオエシックスを日本に定着させるためのキャンペーンとして、日本各地を講演して回った。1985年3月24日永眠。

主な著書・写真集:
『これがベトナムだ』, 毎日新聞社, 1965 (絶版)
『南ベトナム戦争従軍記』, 岩波新書, 1965
『続 南ベトナム戦争従軍記』, 岩波新書, 1966
『1968年 - 歩み出すための素材』(共著), 三省堂選書, 1968 (絶版)
『弱虫・泣虫・甘ったれ - ある在日朝鮮人の生い立ち』(編), 三省堂選書, 1968 (絶版)
『兄貴として伝えたいこと』, PHP研究所, 1975 (絶版)
「シャッターはただでは押せない」(『わたしの知的生産の技術』, 講談社, 1978所収)
『ホスピス末期ガン患者への宣告』(監訳), 家の光協会, 1981
「S.F.は誰のためのものか - ヴェトナム戦争からDNAまで」,『国民文化』(国民文化会機関誌), 252号
「バイオエシックスとは何か - 12年目を迎えたアメリカのBIOETHICS」(共著),『国民文化』, 258号
「子供を語る - 子供達の世話」(訳),『国民文化』, 264号
その他、多数の著書・写真集を発表。

患者不在の "人権宣言"
岡村 昭彦


 1984年12月9日のことである。私は東京のお茶の水にある「池之坊学園会館」の一室で、しきりと戒能先生のことを考えていた。壇上では、第一弁護士会所属の若い全共闘世代の弁護士達により、彼らが去る10月14日に名古屋の "患者の権利宣言全国起草委員会" でつくったドラフト (案) を採決するための演出が行われていた。
 それは、あの世代の大学生達が、看板屋のように、たくみに立看板を書くことに習熟していったように、手慣れた方法で進められていった。聴衆にドラフトに対する意見を書く紙は渡されたが、"質問用紙" ではなかった。それは明らかに「案」は参加者の賛成多数によって、拍手で可決されるように仕組まれていた。
 最後に、詩人なる女性がドラフトを読み上げた時、何回も読み間違え、弁明し、陳謝したのが面白かった。なぜなら、大切な "患者の権利宣言 (案)" を、患者の代表が読まずに、詩人?が代読したことが、この会合の性格をよく示していたからである。
 この日本式・患者の権利宣言 (案) については、私は、日本式・ホスピスと同様に、その底の浅さと、取り組みの狭さが気になっていた。歴史はある日、突然に始まることはない。諸外国で既に行われている運動を日本に紹介し、日本独自のものとして根付かせるには、私たちは、少なくとも数百年前からの人間の歴史から学ばなければならない。ところが、思想を日本に移入し、移入業者として一番乗りを宣言することが、日本で、その道の第一人者となる早道だと考えている人々が多い。事実、この若い弁護士達は、ひろく医事訴訟に携わっている弁護士達に呼びかけて、このドラフトをつくったのではなかった。
 このような案をつくろうとしているのだ、というコミュニケーションも皆無であった。
 私は慎重に、日本の患者による権利の草案を、公開で練り上げることを事前に彼らに忠告したが、「案」は拍手とともに採決されていった。
 患者の権利は、人間としての権利でもある。もし、戒能先生が生きておられたら、例の恐ろしい早口で、「--- 一番最初に患者の権利について述べたのは、フランス革命の委員さ。あの当時、1人のベッドに8人もの患者が寝かされていたのを、1人にするように警告したんだ。日本の権利宣言を書くのなら、水平社宣言を書いた人の厳しさがなければだめだ・・・」と、言われたことだろう。
 先生のお顔が目に浮かぶ。

(都政懇談会情報第1号 1985. 3. 27 より)


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