■『国際Bioethics Network』, No. 32, 早稲田大学人間総合研究センター, 2001, pp. 6-7.

患者中心の医療をめぐる
バイオエシックス・アドボカシーの可能性



 近年、医療に関する社会的関心の一層の高まりとともに「患者中心の医療 (patient-centred health care)」を主題とした市民活動が各方面で積極的に展開されている。これは同時に、医薬品の安全性や医療サービスの質の評価をも含めた、総合的な医療情報へのアクセス権や選択権の訴求力の増進を意味するものである。その中で特に重視されるべきは、患者 - 医療者間の対等な関係での相互の信頼と敬意に根ざしたコミュニケーションとパートナーシップの社会的な広がりであろう。
 欧米のみならず、我が国の医療をめぐる動向においても、昨今、医療供給者主導で形成されてきた「いのち」をめぐる意思決定の過程が見直されつつある。あくまでも医療消費者たる患者の主体的意思が中心に据えられ、医療をも包含する公共の福利形成に向けたダイナミクスが生まれ続けているのである。この時、「アドボカシー (Advocacy)」という発想と、それを的確に遂行するための相互信頼に根ざしたネットワーク作り、それを活かすための情報共有の必要性が改めて見直されつつある。
 2001年6月4日、筆者は、渋谷のセルリアンタワー東急ホテルで開催された「患者中心の医療を考える国際シンポジウム」 (主催・日本製薬工業協会、後援・厚生労働省, (社) 日本医師会, (社) 日本薬剤師会) に参加した。
 同シンポジウムでは、米国医師会 (American Medical Association : AMA) コーポレート・リレーションズ担当部長のThomas G. Toftey氏が、患者 - 医療者関係における相互の敬意に根ざした信頼関係構築の重要性を訴え、これまでAMAが取り組んできた様々な公衆衛生に関する公共のプログラムやキャンペーンの事例を紹介した。さらに、同氏はインターネットを介した医療情報の流通と、患者への処方薬の直接広告の出現が、医療消費者である患者を啓発し、患者 - 医療者の関係に劇的な影響を与えることを強調した。しかし、その狭間で浮上する米国市民全般のヘルス・リテラシー (医療に関する患者の理解力) の低下についても併せて言及したことが印象深い。米国ではメディカル・スクールのカリキュラムの中でコミュニケーション・スキルやコンサルテーションの模擬訓練が実施されているが、その一方で、今後は患者の側からも積極的に自らの医療の問題に参画していく社会態度が一層期待されるところであろう。
 これは、同シンポジウムで続けて行われた、全米乳がん団体連合 (National Alliance of Breast Cancer Organizations : NABCO) 事務局長のAmy S. Langer氏の講演で取り上げられた「医療をめぐるパートナーシップ」の在り方にも通じる問題である。同氏は、マネイジド・ケアのもとに患者 - 医療者間のコミュニケーションの時間的制約が生じている医療現場の問題点を指摘した。さらに、その制約を最大限に活用し得る、患者 - 医療者双方への十分な情報提供体制の確立を訴え、患者が自らの治療に関して自己決定を下すのに十分な知識が得られるように制度化されたNABCOの情報支援サービスを紹介した。同氏は、患者を医療受給者ではなく、あくまでも「医療参加者」として捉えた上で、そのポジション獲得の為に、患者団体、医療従事者、政府機関、民間企業、メディア等との緊密なパートナーシップ活動の必要性を強調した。
 続けて行われたトークセッションでも、国際患者団体連合 (International Alliance of Patients' Organization : IAPO) 会長のAngela Hayes氏が、患者中心の医療とは「患者の意見が聞き入れられ、医療サービスが形成されること」として、患者と医師との間にパートナーシップの関係成立のために、医療情報へのアクセス権や治療法の選択権を確保することの重要性を述べた。とりわけ同氏は、国際的なアドボカシーの重要性を強調していたが、この「アドボカシー」の考え方こそ、今回の国際シンポジウムに集合した諸活動全体の要諦とも捉えられるものではないだろうか。患者中心の医療を唱道するアドボカシーは、まさに社会的な正義を目指す権利意識の集合体であり、情動のみによらず理性に根ざした個々人の自律性の発露とも捉えられるものだからである。
 同氏は、今日の医療の重要課題が、産業的、技術的、政策的にも国境や疾病を超えていることを指摘し、重要な影響力をもって医療に関与する人々(ちなみに、同氏はこれをstakeholderと表現した)が国際的に団結し、政策決定等に影響を及ぼしはじめている現状を強調した。
 私の考えでは、アドボカシーという用語は、自己の権利とそれに基づく福利についてのニーズを主体的に表明することが困難な個人・集団を支援し、その権利を擁護して広く社会に訴える活動を意味するものである。特に、有権者の支援を得て公共政策の意思決定過程に重大な影響を与えるという点に特色があり、時に、政策提言、社会提言活動と訳されることがある。アドボカシーは、近年、患者、障害者の権利擁護 (ひいては、その権利の獲得) はもちろんのこと、社会的な正義を目指す諸処の草の根運動においても、重要な意義をもって用いられてきた。
 例えば、自然保護活動に携わる我が国のNGOや市民団体の間でも、環境影響評価法など、国内法の制定をめぐり、この考え方が注目されている。また、当該の問題状況の当事者であり非専門家でもある市民のアドボカシー・スキル習得のためのタスクフォース(市民参加部会)も形成され、公共レベルでの意思決定過程に市民が参画するための法的、あるいは、それ以外の手段の策定、加えて、市民関与の可能性と解決に向けて制限要因となっている事象の調査分析等のトレーニングやワークショップも各地で行われている。この手法は、NGOや市民団体の関心事についての情報収集と関係者間のネットワーク作り、及び、コミュニケーションの改善をも期すものである。
 このようなアドボカシーの取り組みは、一般市民の政策決定過程への参画をめぐって、当事者の人権意識を理論と運動双方の側面から公共政策上の意思決定にまで昇華させるという点で、バイオエシックスの発想にも相通じる重要な可能性を秘めているのではないだろうか。Angela Hayes氏の講演中に強調されていた「人が制度を変えるのであって、制度が人を変えることがあってはならない」という言葉が未だに忘れられない。
 なお、上述のシンポジウム中、我が国の乳がん患者団体「あけぼの会」会長のワット 隆子 (Takako Watt) 氏が、一般市民の患者にあっては、一人一人が依然として十分な情報を持てる環境にないこと、特に、インターネット等を十分に活用できる人が限られている現状を指摘していたことも特記すべきであろう。また、同氏は情報へのアプローチが誰でも簡単に出来ない環境のまま、自己決定が迫られていることは大きな問題であると訴えていた。私たちは21世紀の患者中心の医療を展開していくにあたり、自らの主体的な意思決定のリソースを他者と共有し得るための情報社会の形成について、慎重な配慮を払いつつも、情報ネットワークを介した全ての市民のメディア・リテラシー (メディアを利活用する能力) と、それに連動するヘルス・リテラシーの向上についても智恵を尽くさねばならないであろう。
 今から10年前、1991年7月19日から21日の3日間にわたって早稲田大学で開催された「患者にとって医療とは何か - 臨床医療と看護の現場から -」をテーマとした国際シンポジウムは今でもなお重要な意義をもっている。これは早稲田大学人間総合研究センターにおけるバイオエシックス・プロジェクト「生命医科学技術における人間の価値観と政策過程」の研究活動とその成果の蓄積をふまえて開催されたものであるが、ここでも患者 - 医療者関係の新しい在り方をめぐって、モデル倫理委員会も含めた活発な討議が行われた。
 特に、当時の全体討議で、シカゴ大学医学部教授・医学臨床倫理研究所所長のMark Siegler 氏が、「古代から現代までの受容し得る如何なる医療制度も患者中心のものであり、あらゆる医療制度は、患者に焦点を合わせる備えがなければならず、且つ、その制度の目標は、患者のニーズに応じるというものでなければならない」と論じたことは、今でもなお、医療の主要な目標で在り続けているのである。
 患者 - 医療者関係における諸処の問題についての永続的な解決方法が見出されるその日まで、権利の充実を求めての運動と社会的合意形成に向けた私たちの飽くなき活動は続くであろう。前述の「患者中心の医療を考える国際シンポジウム」のまとめにおいて、早稲田大学の木村利人教授は、このシンポジウムのキーワードともいうべきアドボカシーのバイオエシックス的展開の必要性と重要性とを強調した。今世紀、私たち自身が医療の政策決定過程に積極的に参加して働きかけていくこと - すなわち、一人一人の権利の自覚に根ざしたバイオエシックス・アドボカシーともいうべき、いのちをまもる社会提言活動の可能性を、今こそ再認識すべき時ではないだろうか。

(河原 直人/早稲田大学人間総合研究センター助手)


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