Veatch RM., "A Theory of Medical Ethics", New York, Basic Books, 1981.
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Chapter 10 : The Principle of Avoiding Killing の要約 |
もし道徳が単に他者の利益に関心を持っているのならば、そしてもし専門医の倫理観が単に自分自身が患者の利益に思っていることをするのだと考えているのならば、命を取ることが、法的にも道徳的にも受け入れられるものとなる。しかし、多くの人々は、命を取ることは悪い行為だと思っている。次のケースはその問題を物語っている。
The Case
アンドレアは9歳の女の子で、肺嚢胞性線維症を13ヶ月の時に発病した。8年間に12回入院している。最後に彼女が入院した時、既に実験用抗生物質の投与を受けていた。実験用抗生物質とは、深刻なダメージを受けている抵抗性肺炎を抑制するために、試験目的で承認されている。当時彼女は痩せ衰えた深刻な状況で、呼吸にも困難を来していた。周囲に関心を示さなくなり、母親以外とはコミュニケーションを絶っていた。
患者の深刻な状況と、最後の手段である抗生物質を使ったことにより、内科医は両親に「極端な医療の評価」を知覚させる事と、適当な規約がないことについて話し合った。当事者であるアンドレアは、彼らの会話や、それに続く意志決定には関与しなかったし、彼女の母親は、彼女からの生死についての質問に前もって答えられなかった。
子供の容態の悪化に従って、両親は、彼女が残りどれだけ生き、どの様にして死ぬのかを尋ねた。父親は「自分の子供が死ぬのを見るのは、自分が死ぬより辛い」と言っていた。そして、カリウム塩化化合物や類似の薬品の静脈注射を用いる積極的安楽死について話し合いが始まったが、医師は「どんなに患者本人や家族が辛くても、法が積極的安楽死を禁じている」として、この選択を拒んだ。
翌日、アンドレアの容態は悪化し、約48時間の後になくなった。最後の二日間、両親は彼女のグロテスクな容貌をぞっとするほど気味の悪いものと感じた。そして確実に彼女の状態が悪くなっていくのを見て、絶望に陥った。彼らは、無力感を抱き、彼女の苦痛を軽減しなければいけないと感じた。医療行為は最後まで続けられ、アンドレアの死を促す手段は何一つ講じられなかった。
彼女の死から2ヶ月後、彼女の母親に「今でもアンドレアの安楽死について意見を述べられるのならば、それを望みますか」と訊ねると「はい」と答えた。
10-1. Killing in the Basic Social Contract |
アンドレアの内科医は、彼女が自分の死を早めてほしがっていると思っていた。もしヒポクラティックな内科医であるのならば、「患者の利益になることならば何でも行う」という原理に従っていただろう。そして彼は道徳的に塩化カリウムを注射しなくてはならなかったであろう。だが、現実には米国の法律によって禁じられているという点が、その決意を押しとどめた。
このような殺人は非道徳的なのだろうか。また、そうでないのならば、何故それらは不法になるのであろうか。
彼らは誰も「死を早めること」と「子供に死を許すこと」の違いを知らなかったし、この違いに依存しているわけではなかった。この違いは医療倫理では重要である。これは「嘘」と「真実を差し控える」事における違いに似ている。
「真実を差し控える」ケースでは、幾つかの場合が道徳的に嘘として非難され得るものであった。もし、誰かが既に、ある行為の義務を持つ人と偶発的な拘束状態になっていたとして、<行為をし損なう事>は、<積極的に疑わしい結果を引き起こす>のと同じくらい過失がある。
このような偶発的な拘束状態における<情報や手当の省略>は<委任>に似ている。慈悲殺のケースにおいて、子供を扶養し、食事を与え、害を防ぐ義務を遂行し損えば、子供は死に近付く。たとえ特別な努力を用いなくても、子供を救うために介在できる事はあり得る。どちらの場合でも、人は道徳的にも法的にも責任を負っている。もし両親が子供を死に追いやるほど飢えさせたら、それは殺したのと同じくらいの過失である。
アンドレアのケースでは、内科医は「患者−医師関係」に巻き込まれていたため、過度にヒポクラティック権限を与えるものではなかった。もし内科医がカリウムを注射していたら、彼らは確実に夜半にその女の子を殺したのと同じくらいの偶発的な拘束状態を生じさせていただろう。もし私の<有限な家族の意志決定>の原理が正しければ、彼女の両親は、アンドレアにより多くの手当を施すことに同意していただろう。彼らはこれらの手当を拒む権利も持っているべきなのであり、彼らが拒むべきなのならば、医師は患者との間で、これらの手当を要求したり許すような関係にはなり得ないのである。
人間の生命の問題については、慈善の原理を縮小することは出来ない。アンドレアの両親が、慈善のために殺しを正当化したかどうかは、慈善の原理の解釈にはそれほど依存していない。命を奪うことは、単純に悪であると解る。多くの医療倫理は基本的な社会契約を交わす道徳的観念から、どの様に社会がこの問題に答えるかに重きを置いている。
もし、仮説的に、積極的で予知可能な慈悲のための殺人が道徳的に正当化されるのならば、そのような殺人が立法化されたり、医療専門家達がそれに関与するのを許されないと言う結果が後に続いて起こるだろう。仮説的に、慈悲のために殺すという倫理的な状況においてさえ、殺人を禁ずることについては実際的な理由が存在している。もし、積極死を非合法にする慎重な施策が困難な状況をあまり生じさせないならば、そうした法律を制定するのは当然であろう。
もし、痛みが適当な薬によってコントロールされるのならば、それがこのケースで述べられているのだが、前に横たわっている死のプロセスが続けられるという理由で、患者とその代理人は医療的手当を断る権利を保ち続けたであろう。そして、積極的な慈悲による死を禁ずる法律に対する実際的な異論は存在していないのだ。このような状況の下で積極死を立法化させるのは殆ど成し遂げられていない。すなわち、仮説的な権利が次のように主張するのである。「同意の質を査定する上でのエラーや手に負えない痛みを通じて、人々の権利を本当に迫害するといけないから、それは執行されるべきではない」と。
もし慈悲による積極死が多くの合理的な人々に、殺人を避ける一般原理への違反と見なされ、あらゆるケースにおいて、殆どそれを許すという善行が生じてこないのならば、その時、法律上の禁止は受容されるだろう。
10-2. Killing and the Lay-Professional Contract |
伝統的に、医療従事者の役割は早すぎる死を防ぐだけではなく、傷病を癒すことや健康の促進に強調されてきた。これらの性質が組み合わさった役割は、例え慈悲によるとしても、殺人者の役割とは矛盾している。合理的な人々は慈悲殺人が医療従事者には従事して欲しくない種類の行為だと言うことに、意見の一致をみ、決断している。もし私が契約の場にいて、素人と医療専門家の間で医療の役割の道徳内容についての理解を試みるのならば、私は殺人の動機が何であろうとも、殺人者の役割から医療者の役割の分離を行う事をあくまでも要求する。もちろん、人が全ての積極的で予知可能な殺人を道徳的に禁止されていると考えようとするならば、それは簡単な結論である。しかしながら、それらの人々でさえ、癒しの人と殺人者との間の働きにおける道徳的な区分を受け入れる確信を共有はしないであろう。
この殺人を避けるための専門的役割権限の意味を知るために、前線近くに配置されている陸軍医のジレンマについて考えてみよう。もし基地が自分の同僚と戦っている白兵戦のの敵兵によって侵略されたら、彼は何に責任を負うべきであろうか。もし医師に銃が使えるのならば彼は戦いに加わるか、または敵でさえも殺人は自分の使命とは矛盾するからそれを慎むだろう。
心理学的には、生命の救出者にとって、殺人のために救命活動を一休みすることは不可能である。道徳的に、私たちはそのような状況に医師−軍人を配置させたく思っているのか考えてみてもよい。医師自身は殺人が治療と矛盾しているかどうかについて幾つかの見識を持っている。社会が医師の役割の用語を取り決めているように、私たちは殺人は非常に医師の専門的役割と矛盾しているので、例え軍医であっても非常事態のために武器を運んだりそれを使うことから排除されるべきである。
もし少なくとも一般の人々−専門家の構造上の関係の議論が説得的なものであるのならば、殺人を回避する原理は、アンドレアのケースの内科医にも、社会からの明確な道徳権限を与えるであろう。彼らは誰に対してであっても、積極的、予知可能な死に関与するべきではない。もし慈悲殺人が全く正当化されてしまうのならば、患者自身や、その代理人や代表者のような、他の誰にでも行われなければならない。しかしならがら、もし社会が全ての殺人を禁ずるのならば、それは理解し難いものになる。
10-3. Killing and the Definition of Death |
「殺人を避けるための原理」のような原理を扱う人を決めるにあたって、幾つかの限界があるが、それらを発見するための一つの手段は「死の意味が何か」を考える事にある。
定義によると、人は死ねば「殺される権利」を失う。もし私たちが「道徳的に殺されることは何か」を知れば、殺人禁止のための洞察を得るだろう。すなわち、私たちは道徳的地位の種類について、次のような洞察を得るのである。「私たちに対して、自分達が殺されないと言う主張を持つ生命体に道徳的地位が生じる」
この問題は、生物学的と言うよりは道徳的問題である。人が死人として扱われる行為とは、社会が人を死人としてラベル付けしたことによって始まる。ある医療の介在は止められるが、それは前もって適切に止められたわけではない。解剖の献体の法律は適応される前に、前もって適応される訳ではない。相続の法律は適応され、遺言が読まれる。生存者に帰するはずの権利は、もはや期さない。誰かを死人とラベル付けすることは、社会的で道徳的な状態である。
どうして人が死ぬとその道徳的地位は急激に変わるのだろうか。古い組織立てが、排他的に人の生物学的能力に焦点を当てている。人間は身体が機能していると道徳的に生きているとみなされるが、その循環や呼吸の機能が不可逆的に失われると、道徳的地位は変化し、その人は道徳的コミュニティーの一員とはみなされなくなる。
もし基本を社会に置けば、社会的相互作用の能力が重要となる。この見識に従うと、人々は意識があるか、社会的相互作用の能力があったときに生きており、十分の道徳的地位を持っていると考えられる。明らかに、これは実際の行動の存在と同一視されるべきではない。そうすると、単に眠っている人も死人扱いされてしまう。
結果として、十分な道徳的地位は、身体と心、または社会的能力の繋がりがなくなったときに終わりになるか、減少して然るべきである。
10-4. Killing and Abortion |
如何なる殺人も医療従事者の役割の視野外にあるため、どんな医師も看護婦も、その他の医療関係者も、いかなる中絶もすべきではない。私たちは一般の医療システムの一員ではない中絶希望者の人々を、ちょうど死刑執行人や他の殺人を犯す人々にしてきたように、教育できた。専門家と社会間での社会契約は、もし必要と考えられれば、こういった医療従事者を免除する規定を含んでいるかもしれないが、私はそれを確信してはいない。中絶に関わっている医療従事者で、自分自身義務を果たしていないと感じている人々の慎重な意見を認める事は必要である。そのような良心的条項は医療従事者の自由を制限しない、更に一般的な医療倫理においてでさえ有意義なものである。
もし私たちが、動物の命を奪わなければならない医学実験や規定食の実践を正当化したら、それは意識の種類の違いか、具体化の重要性の違いの質である。動物は意識は持っているが、自意識は持っていないと言う主張もある。それについて記録される権利をどの様に想像するか、そしてその道徳的重要性について想像するのは難しい。意識の質に関連した道徳的ポリシーから離れないのは、リスキービジネスなので、もし出来るならば避けた方が良い。
動物の扱いの根拠の一つには、具体化の質的違いを基準に使うというものがある。具体性の種類には幾つかある。従って、胎児に対する人間の同情心と共感が、機械的に人と相互作用を行う動物よりもより愛着を持って見える。
胎児と動物の地位は善の意識や共感、契約者の興味に左右されている。もし、私たちが道徳共同体にいる人のために道徳の規則と原理の一揃いを見つけ出すために集う人々のグループに接近しているのならば、例え胎児と動物が、意識や社会相互作用の能力を伴った人間の具体性を兼ね備えた人々の持つ十分な道徳地位を得られなくても、それらは共に本質的な考察を与えられるだろう。
第10章における私の見解
社会的契約において医療従事者の役割を改めて考慮し直す際、その医療従事者自身に患者の生命存続の是非をめぐる直接的な決定権を与えるか否かの問題が必然的に浮上してくる。例えば、如何なる殺人も医療従事者の役割の視野外にあるため、どんな医師も看護婦も、その他の医療関係者も中絶手術を行うべきではないといった論理に遭遇するのである。
専門家と社会間での社会契約は、こうした専門家の役割の規定そのものに制限を設け得るものであるが、終局的にはやはり、中絶に関わっている医療従事者側がまずは自らの遵守すべき義務の履行について考え直していく必要があるであろう。本文においては医療従事者側の良心的条項として、こうした倫理規範を挙げていたが、当事者である患者(あるいはその代理人)側こそ、安易に自らの価値観のみから発する決定に陥ることなく、自らの良心に発するところの義務を全ての当事者である生命の尊厳の観点から見極め、その履行を積極的に遵守するような社会的契約の状態が望ましいものと考えられる。
このような相互の社会的義務の履行の遵守こそが、患者側-医療従事者側双方の自由を制限しない、社会において普遍的な医療倫理として確立されるべきであると考えられた次第である。
第10章における私の疑問
(1)「10-1. Killing in the Basic Social Contract」で論じられた「真実を差し控える」ケースにおいて、<行為をし損なう事>は、確かに<積極的に疑わしい結果を引き起こす>のと同程度の過失があると考えられるが、より過失度の低い状態、例えば「自己責任を全うし得なかったが、このままでも状況が良くなると予想される基点にあったので、他者に事態の決定を委ねても構わないと思ってそうした」、つまり「良好な状態に移行するかも知れない段階での自己責任の保留」からの他者への権限の譲渡と解釈される行為に対しては、道徳的な酌量を与える余地は果たして全くないのであろうか。
「真実を差し控える」ケースには様々な事例があって、倫理観の度合い(そのような概念があるとすれば)にも、それぞれ必ず「程度の差」が存在するものと考えられる。こうした各々のケースにおける倫理観の「違い」のみならず「程度の差」をも見極めていくことが、このテーマを論じていく上で重要であると考えられないだろうか。
(2)「10-2. Killing and the Lay-Professional Contract」において、慈悲殺における医療従事者の役割の矛盾を論じる際に「軍医としての役割の矛盾」の例えを適用すべきであろうか。通常問題となる慈悲殺はそれを行う医療従事者自身に「相手を殺す義務」はない。一方、軍医は軍人として敵を攻撃し、場合によってはそれを死に至らしめる事が「義務」となる。ここに軍医の医療従事者としての矛盾が生じる訳であるが、果たしてこれは戦場にはいない医療従事者の問題にも適用して然るべきであろうか。「通常の場における医師」及び「戦場における軍医」両者の道徳的な葛藤形態は共通するものであったとしても、それらの社会的役割の前提は異なっており同様に論じられるべきではないのではないだろうか。
(3)「10-3. Killing and the Definition of Death」において、人が死ぬとその道徳的地位は急激に変わると論じられていたが、死んだ人物の家族や知己を含む関係者が依然として、その共同体内に存在している限り、死人の道徳的地位が保持される事はないのだろうか。
(4)「10-3. Killing and the Definition of Death」において、基本を社会に置けば、社会的相互作用の能力が重要となり、この見識に従えば人々は意識があるか、社会的相互作用の能力があった時に生きており、十分の道徳的地位を持っていると論じられていたが、例えば、社会におけるカリスマ的存在者としての人物の場合はどうであろうか。歴史的にみても、そうした人物は社会的相互作用を必要とせず、存在者としての意識を主体的には表出しないままでいながら、超然として相応な道徳的地位を(時には一方向的に)保持し続けた人物と考えられる。そればかりか、カリスマ的存在者は身体、意識、社会的能力をも消滅させる死を迎えてもなお、相応なる道徳的地位を有し続けた場合が多い。
例えば、世に聖人と崇められる人物達の死の定義とは如何なるものなのであろうか。新約聖書中に述べられているキリストが死してなお復活するたくだり(『マタイによる福音書』28:8-10, 16-20, 『ルカの福音書』24:13-53, 『マルコの福音書』16:8, 『ヨハネによる福音書』20:1-18, 24-29)、特に「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる(マタイによる福音書 28:16-20)」というキリストの言葉は、そうした存在者に関する生命の問題を象徴しているかのようで興味深い。
(5)「10-4. Killing and Abortion」において、中絶に関わっている医療従事者で、自分自身義務を果たしていないと感じている人々の慎重な意見を認める「良心」は、その医療従事者に関わろうとしている一般の人々も積極的に社会において運用して然るべきではないだろうか。
なお、この章のレポート作成にあたっては、柳原良江さんによる第10章日本語要約及びレジュメを参照させて頂きました。ここに改めてお礼申し上げます。
(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)
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