Veatch RM., "A Theory of Medical Ethics", New York, Basic Books, 1981.
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Chapter 13 : Is Every Case in Medical Ethics Unique: The Use of Moral Rule の要約 |
医療の現場において、道徳と法的規則が衝突することが多々みられる。もし医療倫理の場において、一般的な倫理原則と実際の事例に適応される法的規則の間の橋渡しになるようなものがあれば、それはとても役立つものになるかもしれない。
ここで思い浮かぶのは何らかの中間的なモラルの図式化である。たとえば「母親の命に危険がある時以外は、胎児を中絶してはならない」「現在生存している人に何らかの利益がない限り、死体を解剖してはならない」「自由で自律・判断能力を有する患者は、たとえ患者のためになると医療側が奨める治療であっても、拒否する権利を持つ」「医師は人の自殺幇助に加担してはならない」などである。
しかしこれらも、明白に、歯切れよく道徳的な自律や正義の原則から、簡単に導かれるわけではない。分別のある寝たきりの人々や医療専門家が特殊性のある事例と倫理原則の間でうまくバランスをとったり、妥協策を見つけることが出来れば、医療倫理における自己決定はもっと簡単に行うことができるようになるかもしれない。そして道徳的規則(モラル・ルール)を設定する上でも一役かうことになるかもしれない。
例えば、患者の許可なく、他の多くの人々の生活の質を守るために、医療秘密を公開する事を挙げ、契約を守る原理と自律、恩恵、正義の原理の衝突がある時、どうするべきだろうか。また、立場や専門の異なる人々からは医療関係者が判断する利益や害とは異なったものが導かれる可能性について、医療専門家に医療判断の権利を多く与える事に問題はないだろうか。更に、法や規則と道徳的規則、原理が対立するケースにおいて、それらのバランスや折り合いをどのようにとるべきでろうか。
そこで、大きく3つにわけて問題定義が提示される。まず第一に、医師が患者の利益や害のために、治療の在り方を判断する事は妥当かという問題である。多くの医師が医療というのは、全て異なった事例で構成されており、ケースバイケースの決定が倫理的にも妥当だと主張する。しかし医師によって判断が異なる事や、医師たちも人間であり、ミスを犯すという危険性がある点を挙げて、個々の医師たちがこのような医療判断をケースごとに行う事には無理があり、医における伝統的なヒポクラテスのやり方(患者に害を与えないようにするというやり方)よりも確立された規則に従う事の方が、より多くの良い結果を招くのではないかと主張している。
つまり、本当に患者のためを考えるなら、あらゆる医療情報を与え、時間と手間をかけてアドバイスし続ける事が重要であり、医療側に求めることは、患者が考える利益を提供し、害を避けることであると主張する。そして患者自身も積極的に自分のケアについて意思決定にかかわらなければ、よい結果は望めない傾向が強いということにもふれ、患者へのインフォームド・コンセントの必要性を主張する。
第二に、事例にどの規則を適応するかといった問題である。規則は複雑であり、臨床家たちはしばしばどの規則を使ったらよいのかといった問題に直面する。
ここでは事例12でコロンビア大学の外科医レイモンド・ヴァンデ・ヴィール博士が独自の判断で医学研究を続け、訴訟となった事例が考えられる。ヴァンデ・ヴィール博士は確かに患者の利益や社会的な貢献のためにその選択をした。しかしそれはあくまでも彼の考えにすぎず、立場や専門を異とする人々、また当の患者は、異なった選択をするかもしれない。
このような例は、カレン・クインランの人工呼吸装置の取り外しをめぐる訴訟の中にもみられた。つまり、医師が患者のためだと考える事と、医師以外の人々が患者のためだと考える事は対立する場合があるという事だ。多くの規則は、患者にとってよい結果を生み出そうという意図よりも、道徳的に適切なものかというところにポイントを置いて確立されてきた。従って、現実の状況と法の間には溝が生じてしまう事がある。患者は治療を拒否する権利をもっており、治療を拒否すれば、自分にとって良くない結果を招くだろうと予想しても、治療を拒否することが可能なのでる。異なる道徳的原理の間の関係は複雑で、例えば、ある制限内で自律を促す規則は、良い結果を導く規則よりも優位にあるのである。また、他人の福祉を守る規則は、時として患者の利益を守る規則よりも優位になる事がある。
私たちは状況の中で臨床家に例外があることを認めてきた。しかし、事例ごとの臨床判断は患者の状況の細かい点によって影響されやすく、臨床家が誤った規則を選ぶリスクは避けがたいものである。そして、熱意があるからこそ、患者の利益を追求するゆえに起こしてしまう医師の誤った判断が恐ろしいのである。何故なら、医師も人間であり、善意のつもりでした判断が悪い結果をもたらす事があるからだ。
これらの理由により、アリストテレスが個人の善意に頼るよりも法によって支配されることを選択する方が良いと言うのは正当であると思われる。現実的な生命の契約者はまず本人に近いところ(本人、配偶者、親、家族など)からはじまり、第二番目に法による契約が妥当である。しかし、この契約のためには、ガイドラインなどの規則に沿った手続きが重要になるだろうと思われる。
第三に、社会における規則の実施の重要性について言及されている。確かに、規則に従うだけで問題全てが解決する訳ではなく、もし盲目的に規則を主張するなら、実際の事例の中で、道徳的に悪い結果をもたらすこともあるかもしれない。しかも道徳的問題は大きい。
しかし、今後医療が進歩し続ければ、もっと医療倫理の理論の追求は深刻になっていくだろう。私たちがこの危機をくぐり抜けるためにも、ガイドラインのような規制が必要であり、事例ごとの判断と一般的な規則や原理の関係性の理論を追求することが必要となってくる。今後も臨床現場での決定において、規則の役割を決定しようとする努力は続けられるだろう。
第13章における私の見解
多くの医師達が医療というのは、全て異なった事例で構成されており、ケースバイケースの決定が倫理的にも妥当だと主張している。しかしながら、医師も当然人間であり、判断を誤る事がある。善意のつもりでした判断が悪い結果をもたらす事も否定できない。更に、ケースバイケースの決定を下す際、様々な立場からの、その時の状況に応じた相反する倫理原理が浮上して互いに衝突を起こす事も十分に有り得る問題である。
特に、医療の中心的存在ともいうべき患者あるいは被験者の利害を適切に査定する事は困難を極め、それをサポートして促進すべき医療システム自体が、逆に自らを束縛して固定化された枠組みを作り出してしまう性質のものであるという事も考えられる。
医療についてのみならず、社会システム形成の機序では多様な価値観の集合離散が繰り返され、自ずから一定の価値のパラダイムが生じてくるものだが、その前提条件ともいうべき道徳倫理間の対立、そこから生じ得る偏った結論としての一端固定化した意識の集合体は、それだけで絶対化された一元的な価値観を生み出す危険性があるということを我々は常に自覚しておく必要があるだろう。
特に、そこに集う人間関係における様々な立場からの「価値のズレ」は、たとえ当初は真摯に発動された倫理的に正当な価値規範であり得たとしても、遵守すべきガイドラインが不充分なものならば、終局的には社会意識全体の歪みをもたらしてしまうジレンマであり、倫理をシステムに導入する際に浮上してくる根源的なヒューマン・ファクターの問題であると考えられる。
こうした価値のズレを是正し、互いに道徳原理が補完し合う関係を社会に実現させるべく、より一層多くの立場からの価値の観念群を公正に競合させるルールとしてのガイドライン制定を検討していく事は最も有効な方策の一つであると考えられる。
この文脈において、社会を構成する人間として我々が認識しておくべき事実は、導き出された如何なる原理や規則をも包含する「道徳を有する事の重要性」ではないだろうか。これは端的に言えば、自己と他者との良心の融合であり、これによってこそ道徳共同体なる社会は形成されるものと考えられるのではないだろうか。
第13章における私の疑問
(1) 医療の現場における道徳と法的規則の衝突の解決策として、中間的なモラルの図式化が提示されたが、本質的には道徳も法制も、こうした中間的なモラルに直接基づくべきものではないのだろうか。
(2) 医師は確かに人間である以上、誤りを犯し得る存在であり、事例ごとの臨床判断は患者の状況の細かい点によって影響されやすい。しかし、全てを法に委ねてよいものであろうか。こうした各々のリスクに対応する法の全てが完全に制度化されるまで、現行の法制のみの範囲内によってカバーしているようでは間に合わないのではないだろうか。やはり、法制化と同時並行的に「個人の善意」についても十分重点が置かれていくべきではないだろうか。
(3) 本文中では「他人の福祉を守る規則は、時として患者の利益を守る規則よりも優位になる事がある」と述べられていたが、本質的には優劣をつける必要のない形式で(互いに相矛盾せず、各々が同格の力を有しながら)規則が創案されて然るべきではないだろうか。優劣ないし強弱といった程度の問題は、その規則の「適用」の際にはじめて用いられる調整指標ではないだろうか。
(4) 現実的な生命の契約において、本人及び本人の近親者(本人、配偶者、親、家族など)の善意、すなわち個人の善意は、本質的には法による契約と一貫して、更には法による契約によって保証されるものであって然るべきではないだろうか。
(5) この章において主要な問題となっていた「事例ごとの判断と一般的な規則や原理の関係性」をめぐる解決策を考える際(この章に限る問題ではないが)、あくまで私見ではあるが、精神心理学的検査などで頻繁に使用される「ICD (International Classification of Diseases/国際疾病分類)」や「DSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders/米国精神医学会の精神障害の診断及び統計マニュアル)」などのような具体的且つ実際的な評価尺度を、倫理学においても設定していく事が有効な方策とはなり得ないだろうか。
更には、倫理的諸問題にも各々に何らかの綿密に検討された客観的定数を設け、それらを程度によって細かく分類し、その上で各状況に応じた変数を加えて判断するような一種のアルゴリズム (Algorithm; 計算処理や問題処理の手順。例えば、データを小さい順に並べるための、[1] データ群の中から最も小さいデータを取り出す。[2] [1] を繰り返しながら取り出したデータを順に並べる、といった手順。これに従って思考処理が行われていくことで問題解決の判断が逐次合理的に進められていく。勿論、これに「人間」出自の微妙な酌量を加えていくのは至難の業であるが) に則った合理的な査定法が開発されても良いのではないだろうか。
勿論、人間の道徳そのものを数値で査定するのは問題であり、また不可能に程近いと考えてもよいであろう。しかしながら、道徳、あるいは人間性なるものが実社会における各ケースにおいて具現化された状態である「倫理 '的' 行為」の是非を論じていく際には、このような客観的査定法の開発もガイドライン制定の機序における一つの有効な手段となり得ないだろうか。もっとも、これはあくまでも一つの問題提起であり、かつての教育現場における「道徳の教科の偏差値」の如く安易に実現されるべき性格のものではない。
なお、この章のレポート作成にあたっては、仙波由加里さんによる第13章日本語要約及びレジュメを参照させて頂きました。ここに改めてお礼申し上げます。
(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)
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