Veatch RM., "A Theory of Medical Ethics", New York, Basic Books, 1981.
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Chapter 14 : A Draft Medical Ethical Covenant の全訳 (この章は比較的短かった為、一応全訳してみました) |
末期患者の女性が、障害をもった娘に孤児として生きる苦痛を味わせないため、殺してしまう事を当然とすべきか否かの医療の倫理的判断をめぐる悩みからはじまって、私たちは長い道程を歩んできた。この女性に相談され、慈悲深くその娘を殺す方法についての情報を提供することで、彼女と行動を共にするかどうかの決定をしなければならなかった医師の懸念から発し、私たちは長い道のりをやってきたのである。何故この長い旅路を歩む必要があったのか、その訳が今、明らかであることを私は願っている。
多くの場合における伝統的で専門的な医師の倫理は、その医師のためだけに指南されるものであったかも知れない。それは、上の末期患者の女性のような一般の人々が直面する医療倫理の諸問題の大部分に関して沈黙のままだった。その上、専門的な医師の倫理は、とりわけ歴史的に堅く結び付けられた専門家集団が信じるものだけが彼らの専門家としての義務である、と私たちに言明し得るものなのである。一般の人々のみならず医療専門家達が宗教、民族、哲学といった多様な伝統の中にあるという事を一旦理解すれば、医療倫理が、単なる専門家の合意などよりも一層普遍的で根源的なもの - 全てを包み込むものに基づかなければならないものであるという事が分かる。一つの専門家集団が自ら一連の義務を持っていると信じているだけでは十分ではない。たとえ彼らが、専門家に道義的に求められる事の特別な知識を自ら有していると思っているとしても、それだけでは十分とは言えないのである。医療倫理は、はるかにグローバルで全ての人々に受け入れられる、あるいは認められて然るべきものを特別に派生させ、倫理的判断のための普遍的基盤を与えるものでなければならないのである。
私は、一層普遍的なものであり得る幾つかの選択肢のうちに顕著な集団が存在するという事を示唆してきた。神性、自然法、理性の要件、あるいは経験的な倫理の実在において、人間の共同体よりも先んじて基本的なものに根差した倫理性というものを知り得る集団がある。たとえ彼らがその関連知識を備え、道徳共同体において他
人の感情に敏感であり、全てが平等に考慮されるような倫理的見解をとるとしても、基本的な倫理体系の原理というものは、分別のある人々が発見し承認し得るものなのだと信じている。他方、道徳共同体の合意にのみ倫理性の根拠を理解する集団もある。その成員たちにとっては、たとえ彼らが全く同じ倫理的見解をとるとして
も、基本的な倫理体系の原理は理にかなった人々が生み出し、合意し得るものなのだと理解されているかも知れない。これら二つの緊密な観点をもった人々が一連の原理を承認し、共に道徳共同体の基礎的な関係を認めるという契約あるいは誓約をするかも知れないと信じる根拠は例外なくある。その結果として、一連の基本的な
道徳原理が、忠誠心や献身的な愛着で共に堅く結び付けられた道徳共同体によって発見され、あるいは生み出される事もあり得るのである。その結果としての諸原理は、当該共同体における倫理性の基盤である自由や責任の概念を表し得るものなのである。
一旦人々がこの基本的な社会的誓約を明言すれば、その様式を継続して第二の誓約、すなわち、彼らが自らの役割において互いに影響し合う際に一般の人々や専門家達の義務を詳細に説明するものを作成すると信じる根拠もある。その第二の誓約とは、彼らが互いに関わり合うという特別な義務が履行され、その必要性を満たす事
ができるように、一般の人々と専門家達を信頼と理解、平等なる人間の尊厳と尊重において堅く結び付け得るものなのである。
医療倫理上の誓約あるいは契約の様式において第二の誓約は、その道徳共同体を構成する、より基本的で優先的な条項である第一番目の誓約の中にはめ込められたものである。この際、第二段階で為される如何なる約束事も、全体としては、最初の段階で為された誓約に違反するものではない。しかしながら、一般の人々と専門家達の
関わり合いという特別な目的が果たされるためには、特別な協約が必要かも知れない。例えば、個々の専門家たちが、一層良い形で一般の人々と関わり合いという責務を果たすよう、幾つかの公正なる関係を持たない事もあり得るのである。しかし全体としての専門職は、その他の社会の人々と共に、公正という基本原理の要件を満たす道を導き出す責任を負っている。
これら二つの誓約あるいは契約は順に、医療の領域で為される倫理的決定において幾らかの限度を設けるものである。しかしながら、自律性が基本原理のうちの一つなので、多くの選択がその二つの誓約によって決定的に決められないという事が予期される。個々の一般の人々や専門家達は、その権利、すなわち最初の二つの契約の枠組み内にある選択の範囲内で選ぶ責任を持つことになるだろう。
哲学者達がいつも規範倫理と呼ぶ、その契約の実際の内容は、まさにその契約の様式が有する性質のために開かれたままになっているのである。専門的な医療倫理学者達も、専門的な医師達と同様、理にかなった人々が道義的観点から為すであろう誓約の明確な内容を明示する事はできない。それでも、幾つかの選択が十分に明らかであ
るように思われるため、理性的な人々が如何なる種類の選択を如何なる理由を以て為すのか、少なくとも個々人は議論はできるのである。
こうして私は、医師に自らの患者の利益のためと思う事を常に為すように教える伝統的なヒポクラテス倫理の原則を批判してきた。この言質は、非結果論者の思慮と他人の幸福への気づかいから動機付けられた如何なる行動(研究、公衆衛生、あるいは患者ではない人々の圧倒的な医療のニーズ)にも基づく患者への全ての責任を排除
するものであった。それは医師ではない人々が医療倫理上、何を果たすべきかという問いかけに対しては沈黙のままなのである。
そうして私たちは一層伝統的な、全ての利害を包含する功利主義的な恩恵という原理の方法をとるようになった。これはヒポクラテスの原理の個人主義の誤りを正すものであったが、全体的に個人が下位に置かれ、社会の利益に対して個人の権利が損なわれる事を容認することになってしまった。その解決は、契約の遵守、自律、正
直、殺生の回避、そして正義といった医療倫理上の決定に必然的に影響するであろう他の非結果論者の原理の接合から生じるものと示唆されていた。もし、これらの非結果論者の原理が良い結果の産物(ヒポクラス的あるいは功利主義的なものどちらかの)にも先んじて集合的に賦与されるならば、私たちは、ヒポクラテス的個人主義と功利主義の間の緊張を必然的に容認できず、純粋な利益を集めるようにしていくという解決策を発見するであろう。正義のような非結果論者の原理に包含された他者の利益は、それ以外のものでなければ倫理上の議題において理にかなったものなのである。
その諸原理は、非結果論者が対抗して唱える諸原理の主張に一つの平衡を持たせる事によって結合し、恩恵の原理に先んじる語彙の優越性が一緒に与えられる。それでもやはり、この恩恵の原理は重要で、その他の倫理上の要件が適切に満たされ得る場合に倫理的な義務を発生させるものである。不幸にも分類され平衡を持たされた、この結合体は厳しく実際的な判断を必要とし、その判断のうちの幾つかは相当専断的に為されるものである。たとえ、その選択が専断的で、多くの場合において幾つかの規則 <基本的な原理や問題の類型を証明するため、その役割特有の義務の要件から受けられる仕事を特徴づける業務上の規則> を互いに関連づけるのに相応なものであるとしても、一般の人々及び専門家たちは社会から倫理的に明瞭であるという事が求められているのである。
専門家とその他の社会の人々との間に誓約が作られる一方で、これらの原理や規則が包含され、分別ある人々の役割に近づける倫理的見解をもつ全ての人々による完全な参加が必然的に求められる。このような誓約について思われるであろう事を順序だてて説明しようとする一人の人間の最初の努力によって、この巻を終える事は喜ばし
い事である。その誓約は内容、精神、そして特に手続において、ヒポクラテスの誓いからAMA(米国医師会)の1980年の「原理」に至るまでの専門的な医師の倫理の伝統的な規範とは異なるものである。この精神において私は、自らが医療倫理の誓約を明示しようとする道徳共同体の市民集団の一部なら、その契約の席上にも
たらすであろう一つの誓約の草案をここに提示するものである。
「医療倫理の誓約草案」
人間の幸福の重要な部分として健康の重要性を理解している私たち一般人と医療専門家たちは、以下に、相互の責任の基礎的な理解を明示して確約するものである。
私たちの医療倫理の誓約の共通なる出発は、私たちが理性、尊厳、そして倫理的価値の平等を腑与された責任ある人々から成る共通道徳共同体の一員であるという事を認識することから始まる。こうして共に私たちは根源的な倫理原則を認め合うのである。
* 私たちは互いに約束と誓約を、この誓約へのコミットメントをも含み遵守し合う事の倫理的必要性を承認するものである。 * 私たちは互いに他の基本的な倫理上の要件に違反しない選択を自由にできる道徳共同体の自律的な一員としてふるまう事の倫理的必要性を承認するものである。 * 私たちは互いに誠実にふるまう事の倫理的必要性を承認するものである。 * 私たちは積極的に、そして故意に倫理的に守られている生命の奪取を避ける事の倫理的必要性を承認するものである。 * 私たちは個々人の幸福における平等、そして医療を受ける権利における平等の為に努力し、出来得る限り平等に他者の健康のための機会を生み出す事の倫理的必要性を承認するものである。 * 私たちは自らが義務付けられている他の基本的な原理と両立する限り、互いにのために福利を生み出し、尊敬と尊厳、そして思いやりをもって相互にふるまう事の倫理的重要性を承認するものである。 |
この基本的誓約の範囲内で、社会、ならびにその共同体の通常の倫理的要件とは異なる特定の責任、及びその通常の倫理的要件の特定の免責を順に承認する社会の主体者としての医療専門家たちによって保証される特権を、私たちは自らの共同体の特定の成員たちに与える。その代替に私たち共同体の他の人たちは、そのように責任あ
る扱いが保証される事と私たち自身の健康への特定の責任を承認するのである。
一般の人々が自らの医療について為し、専門家たちが自らの行いに本質的に制限を設けて為す多くの重要な選択は、この誓約によっても不明瞭のままであると私たちは理解している。そして私たちは、それらの選択についての明確な説明が、個々の非専門家-専門家の関係を規定して維持するこうした誓約において、一般の人々と専門家た
ちによって為されるべきであると理解しているのである。
以上のような関係は一般の人々と専門家たちが道徳共同体の成員として、この個々人の同意による誓約が他の如何なる事においても矛盾せず、この誓約をめぐって明確に説明される上述の選択をも包含して関係を持つという責務の履行を約束する事から始まる。その関係の成員である専門家は、患者の同意を得て、この誓約におい
て約束される他の権利や責務と両立する限りにおいて、専門的業務を行い、患者の健康に奉仕するという自らの保証された領域の権限を維持する事に同意する。同様に一般の人はその関係において、この誓約及び専門家との個人的相互理解において明確に説明される自らの責務を履行する事に同意するのである。
専門家たちは約束を守るという原理を承認して一般の人々から信任された全てを、法によってその信任が要請される事、あるいは直面する重大な生命の脅威や身体的危害から、その信任が他の個人を守るために必要なものとなる事が侵されない限り、確信をもって約束する。
同様に一般の人々は約束を守るという原理を承認して、彼等が他の患者、あるいは医療提供者たちの本業とは無関係の生活について知った情報を、直面する重大な生命の脅威や身体的危害から他の個人を守るために開示する事が必要な時を除いて、確信をもって約束するのである。
一般の人々と専門家たちは、緊急事態によってこれらの誓約の再考が求められない限り、約束の期間、金銭的な契約、そして非専門家-専門家間の関係において為される他の通常の誓約を遵守する事を約束する。その際、他の関係者には迅速且つ思いやりをもって情報がもたらされる。
専門家たちは自律という原理を承認し、全ての手続のためのインフォームド・コンセントが実験ないしは他の事柄において合理的になされる事をも含んで、一般の人々が自らの医療とそれについての決定を為す事に最大限に積極的に参加する事を求める。一般の人が一層多くの、あるいは一層少ない情報を望んでいるという事実に基づいて、相互に受容し得る他の如何なる契約をも非専門家-専門家間の個人の誓約が明確に説明しない限り、理性ある者なら手続への参加を決定する前に知りたがるであろう事を一般の人は告げられる。理性ある人がその手続への参加を決定する以前に知る事を望まない可能性があるという理由のみを除き、この承諾は排除されるものでは
ない。何故なら手続が型にはまったもの、あるいはその情報が不安にさせるものであるかも知れないからである。さらに専門家はその関係における一般の人の如何なる特別で聞き慣れない議題や目的をも承諾し、一般の人はそうした議題や目的について専門家に知らせるものである。一般の人及び専門家両者は、如何なる時でも関係を終わ
らせるという自律性を、その関係が終われば一般の人が適した援助を受けられなくなるという事がない限り、行使してもよいのである。
個人が為す誓約が別に明言しない限り、非専門家-専門家間の関係に隠しだてされる事がなく信頼を持続し、また、医療上の意思決定において一般の人の自律性を保つための一つの方策として、一般の人は自らの診療録を照会する権利を有するものである。
一般の人たちは、自ら自由に見識を深める事が専門家に比して特有で重要な事であり、それが他の基本的な倫理上の要件に相反しない限り、こうした見識の追及が自由になされて然るべきものであるという事を承認するのである。
合理的に利用し得る選択肢を包含する診察、治療、そして予後に関する合理的で完全な現時の情報;金銭、教育、その他、自らの医療提供者たちと交わされる義務とその制度;その関係に係わる専門家たちのための代弁者の身元;様々な専門家や学生たちがその関係において果たす役割(特に一般の人がその関係を直接に観察する立場に
なり得ない手術やその他の場面において);もしあるならば実験的に考慮されるであろう手続において、一般の人々は知る権利を有している。
この誓約の倫理上の要件が満たされるならば、一般の人々はそのような契約的関係に参入する気のある専門家たちの中から、自らの医療に参加する専門家を自由に選び出して然るべきである。この誓約の倫理上の要件を前提とするならば、専門家たちはそのような契約的関係に入る気のある一般の人々との非専門家-専門家間の関係に参入する選択を自由にして然るべきなのである。
一般の人々及び専門家たち両者は、提供される医療サービスの形式、料金、そのサービスの根底にある倫理や他の価値についての情報を含む、メディアや他の意思伝達手段によるサービス情報を自由に伝え合って然るべきである。このような如何なる広告あるいは他の意思伝達も、誤った方向に導かれようとされる事なく正確であるべきであり、非専門家-専門家間の関係の尊厳と意義に合わせるべきなのである。
一般の人々及び専門家たち両者は、正直という原理を承認して互いに誠実に扱い合う事を誓うが、一般の人々に彼等が合理的に知りたいと望むであろう全ての事柄について知らせる専門家と、専門家たちに彼等が合理的に知りたいと望むであろう全ての事柄について知らせる一般の人とは互いに明確な理解がない限り、相容れない関係になるのである。
専門家たちは殺生を避けるという原理を承認し、たとえ慈悲的な理由のためであっても、倫理的に守られている生命の積極的、意図的奪取の回避に特に精励する事を誓う。彼らは実行に参加する事から免れるようになる。一般の人々はこのような事への参加を求める如何なる事も控える誓約をするのである。
一般の人々及び専門家たちは公正という原理を承認し、全ての人々が可能な限り他者と平等に健康であるために必要な医療を受けられるよう、集団として医療制度を整備する事を誓う。道徳共同体の構成員としての専門家たちは、正義の名において自らの報酬が倫理的に制限される事を受け入れる。人のニーズに奉仕するために必要とされる技能を有する彼らは、緊急事態において移転する必要があれば、それを受け入れる。彼らはその専門の範囲内で、地理、民族、人種、性、そして学問の公正な分配が促進されるような動機が医学教育の体系化や財務管理において働く必要性を受け入れる。専門家たちが自らの業務の形式のみならず、副専門領域や地理的な場所を
も選ぶために、正義の要件に適合するように彼らに最大限の選択の自由を与える事の重要性を、一般の人々は次々に認めるのである。
進行中の非専門家-専門家間の関係において彼ら専門家たちが患者に誓約する限り、個々人の開業医たちは医療計画や経費の抑制における彼等の影響を含む、正義 (公正) という原理の倫理上の要件を全般的に免じられて然るべきである。しかしながら、困っている患者たちに如何に自らの専門的な診療時間を配分するか決定する際、専門家たちは自分自身の患者たちのニーズを考慮して然るべきである。また、専門家たちは患者ではない人々の極端な要求を満たす事をも考慮して、自らの患者の最小限の福利を一時的に犠牲にするか否か決定するものである。これが起こるにちがいない場合、専門家たちは可能ならば、他者の要求に目を向ける前に自らの患者の許可を得ておくべきであろう。
資質が欠けていたり、この誓約に沿わない行いをする者の非合法あるいは倫理に反する行為をさらす事によって、一般の人々及び専門家たちは、この誓約の重要性を承認し、それを支持することを誓う。
この相互責任の精神において、私たちは自らの医療倫理上の責務の原則として、この誓約を共に制定する事を誓うのである。(第14章『医療倫理の誓約草案』終)
第14章における私の見解
人間は自分に固有の理性を用いて、神の啓示に言及することなく、倫理的善について知識を獲得する能力を有している。そして、こうした人間の知恵によって自然法が生まれ、人間性の法が構成されてきた。
こうした背景において、我々人間はやがて全ての利害を包含する功利主義的な恩恵という原理の方法をとるようになった。これによって本文が示す通り、結果的には個人が全体の下位に置かれ、社会の利益に対して個人の権利が損なわれるようになってしまった事は否めない。しかしながら私たちは、ヒポクラテス的個人主義から功利主義に至るまでのプロセスを省みる事によって、純粋な倫理上の利益(より普遍性を有する道徳)を見出していく事ができるであろうし、それこそが唯一の解決策となり得るものであると考えられる。そして、この個人と他者、そして両者を包含する社会の発達において、我々人間が見出す倫理上の諸原理は、同時発生的に生起して対立する他の諸原理と共に、一つの平衡関係を構築して互いに影響し合うものと考えられる。
このような倫理意識によって生まれたガイドラインこそが、本文中の誓約であり、これによって専門家とその他の社会の人々との関係の根底にある道徳意識に則ったコミュニティが現出するものと期待できる訳である。これは確かに従来の伝統に基づく専門家-非専門家関係を刷新させるものであり、人間の知恵がなせる大いなる社会的発達のための布石と評価できるものであるが、この誓約を実際のコミュニティに適用する際、その受け皿となる諸制度においても更なる発達が望まれるところである。
例えば、一般の人々の社会的な主体性を強化する意義においても、専門家=Silent Minority、非専門家=Noisy Majority 、あるいはその逆の図式に陥らない制度の改革が必要であると考えられる。私見を述べれば、社会における専門家としての役割認定の際、例えば医師を養成してそれに免許を与える際、その機会を一層広げて然るべきであると考える。本質的には、如何なる人々も、現時よりも一層低いコストと広い機会を以って医学教育を普遍的に享受し、その教育的前提から医療研修を積むことで誰もが潜在的に医師としての役割を担い得る「汎・医師教育養成」が理想と私は考えている。
このプロセスは医学教育をただ一般化させることのみを志向するのではなく、現時の医学教育における難入学 - 易卒業(医師免許取得)の悪循環に陥る恐れを解消することをも視野に入れた一つの提案である。極論を敢えて言えば、医学教育においては医師免許の取得及びその為の国試のみを至上目的とせず、誰もが享受し得て然るべきと考えられる医学知識そのものの伝播を目的とする普遍的な制度が将来構築されるべきだと私は考えている。
こうした発想は他の専門職をめぐる教育、例えば既に教育学部の非教員養成課程などで教員免許取得のみを目的とせず、実際の教育学が教授されている例、あるいは大学の法学部や商学部、法律系専門学校などで広く法律を学習する機会が与えられており、法学士のみならず、誰もが受験可能な国家試験 (難関であるが) を通過することで法曹職に就くことも十分あり得る例などを参照モデルとして十分に検討される余地があると考えられる。
第14章における私の疑問
(1) 本文中では(この章に限る問題ではないが)医療倫理は、倫理的判断のための普遍的基盤を与えるものでなければならないのであると論じられているが、本書においては医療倫理 (medical ethics) という語彙は、生命倫理 (bioethics) と同義に用いられていると考えるべきなのだろうか。
(2) ヒポクラテス的個人主義から功利主義に至るまでの倫理の中間モデルを創出する(あるいは見出す)には、やはり伝統的医療倫理から現行流布している倫理原則に至る歴史文化の発展プロセスを見直し、場合によっては過去に立ち返った倫理的見解を取る事が最も有効な方策ではないだろうか。そして、これによって、今を生きる我々にとっての道徳的「純粋な利益」が見出されるのではないだろうか。
(3) 道徳上の諸原理が互いに結合し、結果的に分類され平衡を持たされたとしても、それは不幸ではなく、普遍的原理を導出する際に有効な現象と考えるべきではないだろうか。
(4) 専断的な判断の根拠となる「恣意性」は、本質的に普遍性ないし絶対性といった先験的な自明の理なるものと倫理的基盤を同じくしてはいないのだろうか。仮に絶対者(神)の意志が有るとすれば、それは必然的に「絶対者の専断的な意志」としては捉えられないだろうか。更に、この「絶対者の恣意」が人間の性質に備わっていると考えるならば、人間の為す専断的判断の否定は絶対者の意志の存在の否定であり、ここに限定的な普遍性を捉える事は不可能となると考えられないだろうか。それとも、恣意性には倫理的段階があって、より多様な道徳上の諸原理から導き出される判断になればなる程、絶対者の恣意に近づく事が可能であると考えて然るべきなのだろうか。
(5) 医療倫理上の誓約の支柱となった「相互責任の精神」は、あくまでも契約論的考え方の社会指標として捉えるべきなのか、あるいはこの精神こそ、あらゆる諸原理から導き出された「普遍性に最も近い性質」を有した道徳原理の具現化と考えるべきなのか。やはり、「適用形態」としての普遍的道徳原理(これが存在するとすれば)の運用は社会において可能であるが、その発生源となる「普遍的原理」そのものは不明瞭なものであると理解すべきなのであろうか。
いずれにせよ各章を通して、(1) まずは実際に目に見える社会の中の諸問題を見出す、(2) 次に、それらの諸問題を倫理的見地から道徳原理の「適用体」として捉える、(3) そこから「遡って」その倫理適用体としての社会を構成する「従来は不明瞭なままであった道徳諸原理群の体系」を明瞭なものにすべく見極めていく、という思考プロセスを本書においても見て取れたところに、改めて医療倫理の「科学性」を実感させられた次第である。(終)
(第14章発表担当及び全訳:早稲田大学人間科学研究科 河原直人)
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