Veatch R. M., "A Theory of Medical Ethics", New York, Basic Books, 1981.

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Chapter 2 : The Dominant Western Competitors の要約

 ヒポクラテスの倫理は一貫した伝統である。しかし、口承伝統、綱領、医療専門家が書いたもの等細かく分けられる。多様な形態をもっているのは明らかだが、きちんと教義として組織化されていない。ヒポクラテスの伝統は西洋の思想において唯一の倫理的伝統ではない。医療実践に関する倫理において特に焦点をあてた他の色々な西洋の思想がある。これらの中にはヒポクラテスの倫理より、より率直で、組織化され、明白であるものもある。例えばユダヤ教とキリスト教は共に、医療倫理と呼ばれ得るものをそれらの中に埋め込んでいる。これらの教義の中にはおそらくヒポクラテスの倫理と両立できるものもある一方、明らかに異なるものもある。私は明らかなオリジナルのヒポクラテスの誓約の宗教的内容を言っているのではない。これらの言葉は誓いをキリスト教化したり近代化する過程で削除されていったのである。
 西洋ではヒポクラテスの誓い以外にも医療倫理に影響を及ぼしている思想がある。この章では以下の思想が医療倫理とどう関係してきたかを考察する。
1. ユダヤ教とキリスト教の伝統

1-1. ユダヤ主義 (Judaism) pp. 28-33.

 近代のイスラエルにおいて、医療倫理における最大の争点は検屍解剖であった。その争いは、イスラエルの医者と (近代において非宗教的な考えをもち、検死や解剖からの知識を求めているような)、イスラエルのユダヤ教正統派のラビ(政治上唯一の体であると認められている、そして伝統的なユダヤ教の言質の解釈を支持し、死体を尊重する)の間で行われている。ユダヤ教正統派のラビたちはイスラエルの町中でその問題に対するデモを起こし、それらの356人はイスラエルのチーフによって書かれた文書にサインした。それは以下のように言っている、"いかなる形態における解剖もトーラー (Torah : ユダヤ教の律法) によって禁止されるべきである・・・生命の危険を除いてはそれは許されない、そしてそれは有名なラビの承認がいる。"

1953年、イスラエル国会は "Anatomy and Pathology Law(解剖学と病理学の法律)" を制定した。以下の場合のみに解剖が許される 注1
1. 解剖が法律により必要な場合(殺人等)
2. 死の原因が解剖によってしか究明できない場合
3. 命を救う場合
4. 遺伝的疾患の場合

 あとは本人が科学の将来のために解剖をしてもかまわないという場合や、亡くなった人からの臓器移植は許される。
臓器移植について注2
1. 命を救うという目的の下になされる場合
2. ドナーの死が明確に確認された場合
3. レシピエントに期待される恩恵が本質的にリスクより重大である場合

 腎臓の移植については、高い成功率からも、一般的に認められている。生きたドナーからの腎臓移植に関しても認められ、ラビの観点によるとそのような寄贈は義務ではなく、最高のチャリティーとして考えられている。心臓移植に関してはレシピエントが亡くなる確率が高いことから、大きな疑いがもたれている。つまり、生命維持に不可欠な心臓が移植されるとき、本当にドナーは死んでいるのかどうか、もしかしたら二重に殺人を犯しているのではないかと考えるラビもいるのである。
 町でデモを起こすような医療問題が、人間の体の解剖であるとはだれが思っただろうか。しかしながら、ユダヤ教正統派のユダヤ人の医療倫理を考えれば、驚くべきことではない。その伝統はとても分かりにくい。何故ならユダヤ人の医者を含む多くのユダヤ人は正統派でなはいからである。改革派 (19-20世紀に理性と科学に耐え得るよう合理化したユダヤ教や保守派ユダヤ教の伝統の一部)は異なるもの(現代の非宗教的な、または専門的な医療倫理に順応しているもの)を許しているが、近代の多くのユダヤ教信者は彼らの倫理において全く非宗教的であった。しかしながら、ユダヤ教正統派のタルムード(ユダヤの律法とその解説)の医療倫理というものがある。これは明らかにヒポクラテスの倫理と大いなる違いがある。
 まずはじめに、最も明らかな違いは、解剖論争におけるラビの役割である。ヒポクラテス的な医師というのはほとんど外部の環境とは関係なく専門家として組織化されている。しかし、ユダヤ教の医療倫理はユダヤ教の法によって統合され、ラビによって伝えられ、解釈される。つまり、現代のユダヤ教医療倫理における最も重要な学者の多くはラビなのである。そして、この領域における医者というのはハラカー(ユダヤ教の慣例法規集)やラビの法律や倫理によって訓練されている者である。実際、伝統的に医者はラビである。中世における最も有名なラビの学者や著者の半分以上は医師であると言われている。Moses Maimonides はおそらく悪くも良くも医療実践においてユダヤ教の観点を要約した人であるが、ユダヤ教の法律における医師は、いわば宗教的な公務員としても扱われるのである。
 ヒポクラテスの伝統はヒポクラテス全集の義務論的なところを基礎としているが、一方ラビの伝統はユダヤ教の聖書、タルムード、Maimonides によって12世紀に成文化された Yad Ha-Hazakah or Mshneh Torah、そして Responsa にも基礎をおいている。6世紀においては Asaph Horafe によるユダヤ教の医療の誓いがある。ユダヤ教のヒポクラテスの誓いとして言われる一方、それらの間では本当は歴史的にも知的にも連続性はない。その形態は十戒を思い出させるが、このような十戒は古代の中国の医療倫理や社会主義的な観点に見つけられ、ヒポクラテスの誓いにはみられない。
 ユダヤ教の医療倫理は、このように医療というものを越えて広がる道徳的な法と共に宗教的な伝統とリンクし統合されている。医療の訓練を受けていない人にも近づくことが可能であり、医療においては素人のラビによって解釈されたり、定義的な見解を出したりする。
 医療に適用される法律の中身としては、ヒポクラテスの原理に見られる患者に主観的な仁恵を与えるというものとは異なった原理がある。Jakobovits は聖書を基礎として、医療倫理の中心的な原理を表現している。すなわち、人間の生命の神聖と尊厳、健康を守る義務、迷信や非合理的である治療(信仰で癒される)に対する強固な反対、厳格な食事の規制、性的な道徳性、亡くなった人の権利等である。
 多くの人々はヒポクラテスの誓いの中心的な核として、医師が行うことは生命を守ることであると解釈しているが、これはユダヤ教の医療倫理の中心的な考えである。ユダヤ人は医師であろうと素人であろうと、どんな犠牲を払っても生命の権利の主張者である。簡単に言うと、ユダヤ人はある程度の範囲までラビの法律に身を委ねれば、明らかに生命を守る義務を感じるようになる。
 この生命を守るという義務はあらゆるユダヤ教の、儀式的な戒律(飲食物の適、不適を定めた法、安息日、聖日)に実質的優先する。生命や健康の危機に瀕した時は、儀式的な法律を無視することが義務でさえあるのだ。神聖さを残している唯一の禁止は、偶像崇拝や近親相姦、姦通、殺人に反対である。生命をまもるためには如何なる法律を破ることも許される。Jakobovits によると、タルムードには高層のビルから落ちていた子供を殺すことも、ふつうの殺人と変わりないと記述されている。
 一方、ローマ・カトリックの倫理神学や専門的な医師の倫理の最近の考えは、望みのなくなった患者や奇跡的なことが起こらない限り希望のない患者に対して、治療を中止することに賛成している。ラビの医療倫理ではそのような例外はない。しかし、それは gesisah という状態を認める。それは患者が死にかけていて、3日以内に死が切迫している状態である。患者に対する積極的安楽死は殺人であり、処置の中止は道徳的に同じである。しかし、gesisah においては死にゆく過程の妨害の中止が認められる。例えば、魂が出発することを妨げるような木を切るときのような騒音は取り除いてよい。しかしながら、いくらかの疑問が残るようになる。つまり、死にゆく人の妨害になるようなものを除去する発想は、延命装置をのような医学的な療法を除去することにも適用されるのか否かという問題になるのである。
 この一つの可能な例外は別として、命を守る義務は最も厳しい義務なのである。それは古代ギリシャの医学、自由主義、個人主義的な部分、AMAの立場では決して考えられないような方法で医師に対して課されている。ユダヤ教の強制的な中絶反対は、また患者個人にも課されている。今日広く世界で認められているような患者の権利、アングロ・アメリカの法という観点から、もし患者が命を救うような医療処置拒否しても、ラビの法によるとそれは処置をしないということを正当化することにはならない。患者自身は自分の命をまもる義務があり、それを守るためなら本人の意思に反してでも行われる。これは自由主義的で、権利に根ざしたアプローチとは、全く異なるものである。
 ユダヤ教における疾病を直すことの義務は、命を守る義務の結果として見えるが、この二つは区別されている。疾病を直すことの義務は、生命が危険な状態、健康を害されたことに対する回復という場面だけでなく、痛みを除去したり、良い状態を促進したり危険が少ない場面をも含んでいるのである。
 ユダヤ教の食事の法律と性的道徳性はよく知られている、偶像崇拝とともにである。既に言及したようにキリスト教と比べると、ユダヤ教は魔法や魔術、信仰における癒しを認めない。ユダヤ教内にも少数派の意見がある。癒すという神聖な力に頼るとは反対に人間おける医学的介入を認めない。しかし、圧倒的な意見はこの意見には反対である。人が自然の摂理には介入すべきではないという考えは、初期のキリスト教の思想に優勢だった一方、ユダヤ教主義はこれを拒絶する。healer というユダヤ教の考えは聖書的な権威を与えられているが、もし人が他人を怪我させれば、徹底的に彼を癒さなければならない。聖書の原句は直接経済的な責務をいっているけれども、人間の医療に介入するという責任やライセンスを与えることとして解釈されている。
 おそらく、ユダヤ教の医療倫理でもっともユニークなのは新たに亡くなった人のケアに関する義務を強調するということである。ラビとイスラエルの医師の間での解剖論争に特徴されるように、ユダヤ人は体に適切な尊敬を与え、重要なラビの法律や儀式を遵守することを強いている。体というのは神聖な財産である。すなわち、これを魂が抜け落ちたものとは考えないのである。このように国家、医療専門家、人間、どれも規定された以外体を使用する権利をもっていない。また、身元の確認し得る患者の生命を救う必要がある以外、体は侵害されてはいけない (ユダヤ教の生命を救うための一般的な法の免除) のである。
 このように、非宗教的な病院でのルーチン的な実践は、患者の宗教的なまた倫理的な義務を侵害しているかもしれない。同様に議論の余地のあるのは、医学的な興味や診断を確実にするために基本的な解剖の要求を含むような、ルーチン的な治療の実践かもしれない。
 多くのユニークなラビの法律の特色にもかかわらず、ヒポクラテスの伝統との接点はある。ヒポクラテス的な、患者中心の仁恵はユダヤ教にも補われている生きているもの、死にゆく人、亡くなった人のケア等を適用する豊富な伝統的な法律があるのである。ユダヤ教の医療倫理は人々の倫理に基づき、また医師同様医療に関しての素人、すべての人々に知られ、理解され、必要とされるよう意味づけられているものである。


1-2. カトリックの倫理神学 (Catholic Moral Theology)注3 p.33-40.

 ユダヤ主義のようにカトリックの倫理神学は、一貫して組織的な思想の伝統の下で医療倫理問題に関してアプローチしている。何世紀も通して、ローマ・カトリックの医療療理は、大部分医学的に訓練されていない聖職者によって素人に伝えられ、解釈されてきた。このように本質的な衝突は彼らと、新しい聖職と呼んだ医療専門家の間で浮上してきた。その医療専門家は神学的な訓練が欠如した医師で構成されていた。
 ユダヤ主義のようにカトリック主義は歴史的にヒポクラテスの伝統と接点を持ってる。しかしその長い伝統の中ではそうでないこともあった。初期のキリスト教はヒポクラテス的な崇拝に対してほとんど意識を示さなかった。新しいピタゴラスの神秘カルトは初期のキリスト教では明らかに拒絶された。しかし、4世紀の初頭のコンスタンティン時代に頂点に達したキリスト教とギリシャの思想の収斂をもって、キリスト教とヒポクラテス的な思想の間での相互作用はより共通になっていった。
 中世期に現れた医療実践は、修道院的な医療として言われる。それは医療実践が宗教的義務であるような修道僧によって行われ、彼らのフレームワークはもちろん神中心で教会的である。しかしながら、教会の権威が医療の歴史に重大な影響を及ぼしているという範囲を越えて論争や不確実さがある。最近の中葉の修道院的な医療文書の中で、ヒポクラテス的な伝統とキリスト教との間で和解する努力がいくらかみられた。しかし、二つは最初は異なったアイデンティティを持っていたのである。
 中世期初頭の宗教的に基礎をおいた医療は、医学の道徳性を一般的な倫理神学へ統合されていった。必要とされる全てのことは、13世紀の偉大な神学的なものを体系化し得る人、スコラ哲学学者の出現だった。彼らは包括的な道徳の論理を発達させ、組織神学 注4に統合されていった。トマス・アクイナス (Thomas Aquinas) や中世期の偉大な組織神学者たちによってつくられたフレームワークをみると、医師の義務という議論は告白者のマニュアルや倫理神学の概要に見られた。
 特によく発達したモデルは1477年におけるマルクス・アウレリウス・アントニウス の Summa Moralis である。彼は医師に与えられるべき名誉と、医師に生じる悪や罪の両方を説明している。重要なことは議論のフレームワークは徹底的にキリスト者であるということである。医師の役割モデルはヒポクラテスではなくキリストなのである。
 このようにこのフレームワークは、一般的なカトリックの倫理神学に深く埋め込まれた近代のカトリックの医療倫理によって確立されてきた。素人の医師が聖職者と医師の間に労働者の新しい形として現れたはじめた後でさえ、教会は医療実践に関係した倫理的判断などに対して強い影響を及ぼしていた。今日のカトリックの医療倫理は豊富な神学的伝統によってつくられているが、何百もの医療倫理の本はアントニウスが組織的なカトリックの倫理神学をフレームワークとしてから現れたものである。David F. Kelly は北アメリカで包括的なローマ・カトリックの医療倫理を著したが、彼は前世紀から一人で北アメリカでの83もの仕事や編集をしてきた。Kelly と彼が列挙するあらゆる著者は神学の学者で医師ではない。同時に、これは以下のことを指摘している。すなわち、伝統的な医学による道徳上の専門家と自身が医学において決定を下すものとして捉えている臨床医の間には距離があるということである。皮肉にも随分悲惨なことに、カトリックの倫理神学に根ざした医療倫理家とヒポクラテス伝統を受け継ぐ医師たちはしばしば地理学的には近接しながらも、分かれて研究しているのである。また、更に悲惨なのは医療倫理のシステムが、しばしば医療専門家から孤立してしまっているということなのである。
 本当の医療倫理のシステムはカトリックの道徳神学と一緒に存在するものである。その主な2つの要素は、
 1. カトリック神学のより一般的な倫理的論理から引き出された原理
 2. 決疑法
 である。
  決疑法は形式化し過ぎていると言われているが、例えばそれは、妊婦の生命が危険になっているとき、動かせば必ず死ぬだろうという胎児がいても、ガンの子宮を動かすことを受け入れる。しかし、妊婦自身が危険にさらされているとき、妊婦を救うために生きた胎児を動かすことは受け入れない。この決疑法の巧妙さはカトリックの倫理神学のシステムの原理に統合的にリンクして引き出されている。そして、この決疑法に対する複雑で神学的な正当化は、常識、道徳的な直感、理性をもって同意するような決定を生み出している。
 原理それ自体は他の倫理システムの原理と反響しているが、それらはいつもユニークな特徴を維持している。オーソドックスなカトリックの分脈において自分自身のケアについて決定しようと思う人は誰でも、その原理を理解しなくてはならない。オーソドックスなカトリックの思想を崇拝している医師や、宗教的、倫理的に疑問を抱かない観点で患者を治療する人もそうである。医師たちは医療実践においてカトリック倫理の重要性を理解しなければならない。困ったことはカトリックの教えに従うために良いヒポクラテスの医学を破棄しなくてはならないことである。例えば、健康上の興味からカリックの患者が不妊を必要としているとわかったとき、そのような状況はカトリックの思想では認めれらないということを彼らが知っているならば、医師がすべきことは何であろうか。彼らはヒポクラテスの考え方に従うことも(同意を保持するために欺いたり、同意なしに手術をしてしまったりして)できたのである。両方ともヒポクラテスの医学からみれば良い。しかし、カトリックの倫理神学では悪い。また、彼らは患者が不妊をするように認めることもできたし、その決定をもたらすようにもできた。それらは自己決定の原理から見れば自由な良い主張であるだろう。しかし、カトリックの倫理神学やヒポクラテスの医学では悪いということになるのである。
カトリック医療倫理における5つの基本原理 注6 p.37.

1. 執事の役割という原理 (The principle of stewardship)
 人間の命は神からの贈り物であり、よって私たちは自身の体の支配者ではない。人間は精神的な身体的な機能を保護し、育てていく責務をもつただの執事に過ぎない。これにより適切な医療ケアを受ける義務が生まれる。

2. 人間の命の不可侵性の原理 (The principle of inviolability of human life)
 国家やいかなる人にもこれを侵す権利はない。最近の動向ではこの原理を生きる権利 (Right to life) と言っている。これは自殺を肯定するような混乱を招いているという面もある。この原理にも例外はある。例えば正当防衛、戦争、誤って人を殺す等。

3. 全体性の原理 (The principle of Totality)
 この原理によると、部分は全体の善のために存在し、必要ならば全体の善のために犠牲になるかもしれない。このことから手術を肯定する。つまり、体の一部分が全体の命を脅かしているなら、部分は犠牲にされる。しかしこれは全体社会のために個人を犠牲にするという考えには拡大されない。

4. 性と生殖に関する原理 (The principle of sexuality and procreation)
 性的機能はカトリックの倫理神学において、以下の二つの目的がある。
(1) 生殖
(2) 夫婦間の愛の絆
 である。
 カトリックの倫理神学者たちは生殖と非生殖を分ける傾向がある。生殖は種の善であり個人の善ではない。また生殖は非生殖に付随するのではない。

5. ダブル・エフェクトの原理 (The principle of double effect)
 この原理は間接的に悪い結果を生み出すような行動を正当化する。ただし以下の4つの状況の場合。
(1) 行為それ自体が、その結果とは無関係に道徳上悪いものであってはいけない。
(2) その悪い結果というものは良い結果をうみだす手段であってはいけない。
(3) 悪い結果は意図されてはならない。
(4) 悪い結果に関わらずその行動をする適切な理由がある。


ローマ・カトリック医療倫理の特徴

1. 自然法の方法学 (Natural-law methodology) 注7
2. 教会の教えの権威(Authority of church teaching)

 カトリックの医療倫理という立場の首尾一貫性を把握するためには、人は基本的な原理やその倫理的フレームワークを理解しなくてはならない。このフレームワークの本質は、自然法の思想にある。理論的には自然法というのは、理性の使用を通して知られている。また自然法と並んで、ローマ・カトリック医療倫理の特徴として教会の権威が挙げられる。ローマ・カトリックの教会は特別な神から与えられた教階制の機能を認めている。つまり、教導権をもつとされる教会評議会、司教、教皇は、信仰や道徳に関して教えをもたらす責任がある。ローマカトリック教会における階層的な教導権の様々なグレードと程度を認めることは重要になってくる。19世紀にはその違いが公式化された。つまり、全く誤りのない教会の教えと、権威的ではあるが全く誤りがないとは言えない教会の教え、の二つに分かれた。1950年代にはカトリックの倫理家たちは、医療倫理という分野における教えは、全く誤りのない教えのカテゴリーのもとに分類されないと考えた。しかしながら、1950年の Humani generis という回勅 (ローマ教皇が送る全司教への同文速達) の中で、ローマ教皇ピウスXIIが論争中にある議題について話すとき、もはやそれは神学者達が自由に討論することではないと語った。このようにローマ教会の宣言や教令によって特別な問題に関して討論を終えたが、ローマ教会では神学者のインプットやアドバイスは必要であると考えている。1968年にはローマ教皇パウロVI世が Humane Vitae の回勅の中でカトリックの思想内において、いわゆる人工的避妊の可能な合法性を除外してバース・コントロールについて直接語った。ユダヤ主義と同様にこれらの問題は宗教的、神学的であり、公式の声明を通して、他のグループや医療の専門家にさえ屈するはずのない権威を保持している。


1-3. プロテスタンティズム pp. 41-43.

 プロテスタントは16世紀ローマ・カトリック教会を批判、抗議 (protest) し成立したキリスト教の新しい教派。教会の尊厳・教理(ドグマ)の絶対性を強調する旧教に対して、個人の信仰の尊厳を強調し、儀礼を簡素化、聖職者と信徒の位階的関係を廃し、「万人司祭」の考え方もそこから生まれた 注8
 プロテスタントの神学上の倫理はユダヤ教やカトリックと比べると、ヒポクラテスの医療倫理に代わるほどの形式化されたものではない。しかしながら、プロテスタントの思想家達は最近10年で医療倫理の分野で多くの仕事をしている。原理においてプロテスタントの神学者達は、医療倫理の問題を組織神学から引き出された応用倫理のサブカテゴリーであるということを保持してくべきである。そういう人もいるが現代の倫理の教育を受けたプロテスタントはより医療倫理を中心的トピックスとして考え、また組織神学からはより離れてしまっている。しかしながら、彼らは中絶や安楽死、遺伝学を話すとき、明らかに神学的フレームワークを使用しているのである。
 こういう点において、重要なプロテスタントの神学的テーマはあらゆる著者の医療倫理理論に対して中心となっている。例えば、ポール・ラムゼイ (Paul Ramsey) は "the patients as person" (プロテスタントの医療倫理の論文のなかで最も重要なもの一つ) で医師と患者との関係を考えるときに、契約の論理を基礎としている。彼はスイスのプロテスタント学者である Barth とのリンクを認め、また改革的な神学、特にカルビン派の神学や究極的にはユダヤ教の契約の考えをルーツとしていることを見て取れる。彼は基本原理として、"the Biblical norm of fidelity to covenant" を主張する。この契約は誠実や忠誠に基礎をおく。これらの考えはユダヤ教の医療倫理も見られるように、特に義務の概念、また非宗教的な社会契約理論においても見られる。ヒポクラテスの誓いは一種の契約であるが、その契約は神々や仲間の医師達の間に交わされているのである。
 プロテスタントの神学上の倫理において、契約のような神学的問題はカソリックの倫理神学のよりも秩序だった原理に取って代わられている。プロテスタントは、これをクリスチャンの美徳であるアガペー (愛の一つ) として言及している。
 例えば、致命的な病気で障害をもった子供がいるとする。母親は子供のQOLを考えれば死んだ方が良いと思っている。プロテスタントの神学倫理では医師は子供に死をもたらそうと考えている母親と協力すべきかどうかという、自然法に訴えることには懐疑的なのである。
 ラムゼイは自然法を "sub-Christian source of insight" と呼び、Flercher はそれをカトリックの法律主義的な理性と呼んでいる。ここに二つの分岐した問題が存在する。Fletcher は法律尊重主義を案じている。また、カトリックの決疑論をも疑っている。彼はプロテスタントの考え方である愛という概念に照らし合わせて、ケースバイケースのアプローチを認める。もし、医師がそれぞれのケースが特殊できちんとしたルールを適用できないというのなら、プロテスタントの倫理の幾らかはその状況倫理に応じるようにする 注9
 しかし一方、プロテスタントの中では個々人のケースを誇張することを批判する人もいる。それは人間は誤りに陥りがちな罪深い人という考えからである。自然法に対するプロテスタントの攻撃で浮上するもう一つの問題は、規則の倫理に関するということよりはむしろ、自力の理性を用いてこれらの道徳的規則を決定するという能力をもっているか否かということである。
 プロテスタントの思想は必ずしもそうではないが、誤りのあり得る理性によって知り得ることと、聖書によって明らかにされていることの間には鋭いくさびを打っている。最近唯一、プロテスタントの間にも自然法の思想への再燃が起こってきた。しかし、これはカトリックのものとは異なる。プロテスタント権威に対する考え方は、カトリックよりも聖書に対してより直接的に個人が関係しているので、倫理的権威の基礎は神学的であるという同意があるし、そうあって然るべきである。ところが、プロテスタンティズムにおいては、聖職者に対する権威の傾向は省かれている。何故なら信じる者はすべて司祭であるからだ。つまり、それぞれが自分自身に対して司祭であるというよりもむしろ、他の人に対して司祭なのである。プロテスタンティズムでは医師は使命を持っていると考えるが、決して医学的に素人である人々を越えて権威を与えていない。医学に対するプロテスタントの道徳的な影響というのは、自由の意義を重要視していることである。ビーチはプロテスタントの思想家の医療倫理に対する最大の貢献は、医学における倫理問題に対するアプローチの中で、素人の役割を強調したことである、と言及している。
2. 近代の非宗教的な西洋 (Modern Secular West)

2-1. 西洋の自由主義の政治哲学 (Western Liberal Political Philosophy) pp.44-49.

 あらゆる西洋の主な宗教的伝統は、少なくとも医療倫理の理論の発端となっている。中にはよく発達したものもあるし、プロテスタントのようにそうでもないのもある。また党派心の強い宗教はまた他の様相をみせている (例えばエホバの証人、クリスチャンサイエンスのように)。ここで明らかなのは、これらの宗教をベースとした理論は倫理的に医療決定の際に、伝統的なヒポクラテスの医学と正面から衝突するということである。西洋の社会というのは首尾一貫し、もっともらしい政治的な哲学によって発達してきた。非宗教的な西洋の政治哲学は、個々人の市民の信念システムを深く組み込んでいて、また立法府や裁判所によってなされる法的な決定に影響される。
 近代西洋の自由主義的な政治哲学の中心要素は、特に近代という時代の進化と関係していくらかの宗教的伝統の中につくられた。西洋の個人主義は宗教改革のような左翼のより神秘的な個人的な分派に見られる。
 しかし、近代の自由主義の政治哲学の真の出現は1世紀以上も後なのである。―17世紀後半の John Locke や18世紀におけるカントの人の尊重に関する言質など―その結果が政治的な哲学となり、ヒポクラテスの伝統をもち、宗教をベースとしたもの両方を併せ持つ医療倫理の始まりとなったのである。その中心的な要素は、自由な愛であり、それは20世紀中後期のアメリカの裁判所で、医療問題に関しての決定に優位であった。裁判所はインフォームド・コンセントの適用に関する論争に判決を下す際に、自由主義に見られる自己決定の原理 (a principle of self-determination) をもっとも高く、決定的に採用した。つまりそれぞれの人は自分の体の主権者であると考えられている。この自己決定の原理に関する肯定判断は決してヒポクラテスの原理には見られない。確かに、より近代の専門的な倫理綱領は患者に対する (医師を選ぶ際の) 選択の自由、医師に対する (患者を選ぶ際の) 選択の自由と関係している。しかし、ここでさえ自由主義的な原理は、医師患者関係内でなされる決定に対して重要な役割を果たさない。
 自己決定の自由主義的な判断に加えて、アメリカのエートスに表現されるように、近代の非宗教的な政治哲学は平等の原理 (a principle of equality) を主張する。"あらゆる人々は平等に創造された。創造者によって奪うことのできないある権利を授けられている" というように。
 非宗教的なアメリカの医療倫理の最近の表現は、ベルモント・レポート (The Belmont Report―Ethical Principles and guidelines for the Protections Human Subjects of Reseach―The National commission for the Protections of Human Subjects of Biomedical and Behavioral and Behavioral Research, 1978. 注10) [p.46.] に現れている。
 それらの基礎は患者のためになるように医師が行動するという考えではない。それは広く仁恵の原理なのである (これは患者に対しての仁恵とは限らない)。それはまた正義や人の尊重という原理に注意深く取り囲まれている。自律や自己決定が発達したのはカントの人の尊重という考えのもとであった。ヘルスケアにおける分配に関する重大で倫理的な関係が論じられるのは、正義の原理の下である。そのような様相はヒポクラテスの伝統からはないものであり、また分配という側面は医師の関心の範囲の外で見られていた。
 基本的な倫理的原理として以下の3つが挙げられている。 

1. 人間への尊敬 (Respect for Persons)
(1) 個人は自律的な存在として取り扱われるべきである。
(2) 自律の減少した人は保護される権利を有している。

2. 仁恵の原理 (a principle of beneficence)
(1) 害を与えない。
(2) 恩恵を可能な限り最大限にし、害を可能な限り最小限にする。

3. 正義の原理 (a principle of justice)
(1) 平等な分け前
(2) 個人のニーズに応じて
(3) 個人の努力に応じて
(4) 社会的な貢献に応じて
(5) メリットに応じて

 近代の非宗教的な政治哲学の言語はヒポクラテス、または宗教的な倫理とは違っていた。ストア学派やカトリックの倫理神学という自然法の伝統は非宗教的な自然の権利という観点にシフトしていった。つまり人は義務 (duty : 正義感、道徳心、良心等による義務)、(obligation : 外的な事情から生じる義務)、所有権 (interest) ではなく、権利 (right) が与えられている。この権利について話すということは、近代の現象である。これは決してヒポクラテスの伝統ではみられないものである。私は1980年以前に、専門家としての医師の倫理の歴史で権利という言葉はみていない。権利を話すと言うことは近代の現象なのである。
 1980年の4月に医学学校において人間の権利を教えるという題目についての国際会議が開かれた。医療専門家の中には、患者に対する恩恵が、患者の権利という保護に衝突する時に、色々な問題が現れうるということに大きな関心を寄せる人もいた。


2-2. 患者の権利運動 (The Patient's Rights Movement) pp.47-49.

 アメリカにおいては、この医療における自由主義的な西洋の政治哲学は、患者の権利運動の中で進化してきた。その運動は中絶の権利運動や医学的研究に関する専門的優位に対する批判、末期患者の治療に対する賛成、反対の選択の自由等である。
 1973年にアメリカの病院協会の後援の下で、患者の権利法案が形式化された。それらに対して色々批判があった。全体としてはそれはアメリカの国民の心をつかみ、ヒポクラテスの考えに疑問を持ち始めた素人や医師たちの意見がまとめられた。
 その権利法案は私立の病院協会によって発達させられたので、もちろん法的なものはない。その後すぐ、政府は患者の権利法案を法的に採用し始め、ニューヨーク州は1976年に採用された患者の権利法案を編集した。
 また、欧州においても権利という観点から比較し得る医療倫理の非宗教的な形態が最近現れてきている。1976年には Parliamentary Assembly of Council of Europe は "On Rights of the Sick and Dying" を採用した。医療措置を拒否する患者の権利という主張は、個人の尊厳や統合の権利に基づいている。同様に、これは国連の人権宣言にも現れている。
 こうした権利の主張は、患者の権利運動は西洋の社会的倫理の自由主義的側面に焦点が当てられているものである。その主張は、ある種類の、また別の種類の決定をする束縛からの自由である。例えば中絶に賛成する、癌の手術に反対する、医学研究への参加するか否か等である。これは哲学者がいうように自由な権利であり、もし他人の権利を侵害しないならば、自分のやり方で自分のいのちの導き、選択していく権利をもっている、ということである。
 このように、ヘルスケアにおける権利の主張は、健康サービスを受ける権利にまで拡大してきている。例えば、誰かがそれを喜んで提供したいかどうか、必要な値段を個人的に払うかどうか等である。entitlement right という主張は、実際のヘルスサービスに対して要求するものであるが、例えば、国家の健康保険を通しての医療ケア、災害時のケア、メディケイド等によって中絶にお金を払うか否かといった問題をめぐるものである。近代の非宗教的な思想家の考える権利という言葉は、近代の自由主義的な政治哲学に関する範囲に合わせてあるものであるが、それは医療倫理における問題について話すとき、より伝統的な選択制をもたらすものでもある。
 Ms. RとDr. Tがこの近代の非宗教的な自然の権利として自由主義的な伝統に身を置いているなら、彼らは娘を慈悲殺することに参加するかどうか、彼らの決定を助けるようなガイドラインに対する伝統的な文書をあてにするかもしれない。しかし、おそらく、それらは彼らの助けにはならないであろう。
 確かに西洋の政治的法的思想は、そのような殺人に関して非難すると思われる。アメリカにおいては慈悲は殺人に対する防御ではない。患者の権利法案は医療処置を拒否する個人の権利のような自由主義的な権利に賛成する。それはまた他人を殺すために人の権利を保障するものではない。近代の、自由主義の、権利に根ざした西洋は、Ms.R の計画を非難するように見える。しかし、ユダヤ教やローマ・カトリックのように強行ではない。しかしながら、このケースおける道徳的な選択の範囲をきちんと理解するためには、アングロアメリカをこえて、ヒポクラテス的な伝統を支持する他の医療倫理の初期のシステムを理解する必要があるのである。
第2章における私の見解

 西洋における医療倫理は、深くその本質において近代自由主義の権利に根ざした発想に基づいている事がこの章から理解できた。そして、多様な事例における道徳的な選択の範囲を十分に把えて理解するためには、アングロアメリカを超えて、他の医療倫理の初期のシステムをも理解する必要がある事が示唆された。
 西洋の社会的倫理を形成する患者の権利の主張を考える際、近代の非宗教的な自然の権利のみならず、その背後に見え隠れする西洋の宗教観をも併せて考慮する必要を改めて認識した。カトリック教会では自然法と神学的徳とを区別するが、神学的徳は信仰、希望、愛からなり、これらは啓示を通してのみ知られ、恩寵を受けた者によってのみ実践できるとされる。一方、自然法はキリスト者と非キリスト者との倫理的行動において合意と協力の場を見出すことのできる領域である。両者に共通しているものは何であろうか。文化と宗教の多様性の内に人間の能力が生み出す倫理観念の普遍性を垣間見た感がある。
 こうして考えれば、適切な医学的決定を導き得るガイドラインを考える時、ヒポクラテスの伝統、あるいは新しく求められる倫理のどちらかのみを考慮するのではなく、現在の状況に至るまでの社会文化的な「プロセス」から人間の自然なる価値観念を考察していくべきであるように思われてくる。
 問題となるケースを考える際、その基盤となった社会文化的要因について検討を深めることも勿論重要であるが、ただ狭い倫理圏内において妥当性を追求するのみではなく、長い歴史における広範な価値観の交流を常に念頭に置いて考えることが不可欠であると再認識した。これは我々が今日求めている倫理的要件の追求において最も重要なアプローチの指針と言えるであろう。
第2章における私の疑問

(1)「1-1. Judaism」によれば、ユダヤ人は医師であろうと素人であろうと、どんな犠牲をはらっても生命の権利の主張者であると同時に、ある程度の範囲までラビの法律に身を委ねれば、明らかに生命を守る義務を感じるようになると論じられていた。この点について考えれば、ユダヤ人は自らの義務は完全に履行し得ても、自らの権利については完全に発動し得ない状態になっているのではないだろうか。
(2)「1-2. Catholic Moral Theology」においてローマ・カトリック医療倫理の一つの特徴として挙げられる「教会の権威」は、自然法に基づくカトリック倫理における決定の際、「理性の使用」の弊害となり得る事はないのだろうか。
(3)「2-1. Western Liberal Political Philosophy」において、自己決定の自由主義的な判断の基盤は、広く仁恵の原理であり、それはまた正義や人間の尊重という原理に注意深く取り囲まれていると論じられていた。自己決定の原理は仁恵原理の下位に置かれるべき道徳原理なのだろうか。
(4)「2-1. Western Liberal Political Philosophy」において、ストア学派やカトリックの倫理神学という自然法の伝統は非宗教的な自然の権利という観点に変化していったと論じられていたが、この場合、賦与された権利と従来(自然法において)人間が有してきた義務とは同格なのだろうか。それとも、まず権利があって義務が生じるようになったと考えるべきなのだろうか。
(5)「2-2. The Patient's Rights Movement」によれば、アングロアメリカを越えて、ヒポクラテス的な伝統を支持する他の医療倫理の初期のシステムを理解する必要があると論じられていた。束縛からの自由を主張する現行の患者の権利にも、こうした初期のヒポクラテス的倫理群の「良い要素」が当然部分的に含まれているものと捉えるべきだろうか。


  • なお、この章のレポート作成にあたっては、鶴若麻里さんによる第2章日本語要約及びレジュメを参照させて頂きました。ここに改めてお礼申し上げます。

    (早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


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