Veatch RM., "A Theory of Medical Ethics", New York, Basic Books, 1981.
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Chapter 5 : The Triple Contract: A New Foundation for Medical Ethics の要約 |
医療倫理的な決定はあくまでも人間の相互作用に関わるという意味で社会的なもの、つまり、ある種の社会関係であり、個人的な決定を超えて影響を社会に及ぼすものである。多くの場合、社会関係は非常に複雑で、そこには各々に独立した医師や患者だけでなく、両者が結び付いた状態 (the profession and the lay teams: 相互行為) が関係している。つまり、社会関係は医師、患者、両者の結び付き、の三つから成るのである。
決定の主体としての個人というものは尊重されねばならないが、医療倫理に関わる決定が社会的な広がりを持つものである以上、共通の枠組みに基づいたものである事が望ましい。
倫理の探究というものが、単に当事者のみで問題を解決するための枠組みを提示する事ではなく、普遍的かつ絶対的な枠組みを探究するものである限り、ゼクト主義的な医療倫理や文化的相対主義に基づく医療倫理を超えた普遍的かつ絶対的な枠組みを求めなければならない。つまり、Tarasoff の事例におけるMoore 博士について、単に専門家集団が彼の行為を支持し、他の人々がそうではないと言う以上に、道徳的に正しい、あるいは間違っているという共通なる倫理的判断を下さねばならないのである。
5-1. The Basic Social Contract |
Discovering a universal base for medical ethics
近代的な自然法といったものも、ある種、神の意志といったものをその深い部分では、その根拠としていた。よって、神の意志といった絶対的な基準は、宗派によって、時代によって表面上は異なるものであるにせよ、その本質は消え去ってしまった訳ではない。更に、こうした絶対的な基準の源泉が何であるかという事に関して違いがあるにせよ、また、こうした絶対的な基準をどうやって認識するかに関して違いがあるにせよ、絶対的な基準そのものの存在を否定し得ないのである。この絶対的な基準こそ医療倫理のための普遍的な基盤なのである。もし、こうした絶対的な神より創造され是認された道徳的秩序が存在するならば、そうした道徳的秩序を明らかにし、且つそれを見つけ出すための方法を考察するという課題が、有限な存在である我々には残されているのである。
神学的な源泉がたとえ否定されたにせよ、普遍的で個別事象に適応可能な道徳的枠組みを見出す事は可能である。何らかの普遍的で、適応可能で、発見可能な道徳的判断(秩序)のための基盤が存在すると考える人々にとって、唯一の問題は、そうした秩序を知るための方法なのである。それを認めない人々がいるにせよ、終わりなき相対主義のみが、残された選択肢であるわけではない。
Inventing a universal base for medical ethics
我々が生存していく事が可能であるための道徳的共同体を生み出すには、個人の自由というものが何らかの観点から制限される必要がある。この観点は、単に個人の自由の制限を最小限に留めるといった、消極的なものを超えて、結果的な段階での個人の平等性をも確保するという観点、つまり、道徳的観点である。我々は、こうした観点に立つ事によって、道徳的共同体における医療倫理的な決定に必要な契約的な枠組み、つまり医療倫理のための普遍的な基盤を創出し得るのである。
共同体を道徳的なものとしたいならば、各人の幸福が同様に考慮されねばならないという原理が重要である。確立された原理や決まりは契約 (transaction) を与える側と与えられる側のどちらの立場に立つ人にも受け入れ可能なものでなくてはならないのである。
A synthesis contract theory
医療倫理のための普遍的な基盤を見出そうとする事も、医療倫理のための普遍的な基盤を創り出そうとする事も、共に人間の限界という事を前提としており、且つ諸個人の利害というものを十分且つ平等に配分するという事を含んでいる。より具体的には、普遍的な基盤を見出そうとすれば、理想的な観察者によって見出された契約といったものを想定せざるを得ず、普遍的な基盤を創り出そうとすれば、理想的な契約というものを想定せざるを得ないのである。
医療倫理といったものが成立するには、道徳的共同体内で成員間に相互の忠誠心と信頼を生じさせるような、ある種の見出された、もしくは創り出された基盤が必要なのである。結局、この医療倫理にとっての基盤は、たとえそれが見出されたせよ、創り出されたものにせよ、道徳共同体にとっては欠く事のできないものなのである。
5-2. The Contract Between Society and A Profession |
専門家は先の基本的な契約を前提とした上で、その専門家の役割に特有の義務と特権を社会から与えられている。よって、専門家内部の規範といったものは、あくまでも社会との関係から再考される必要のあるものなのである。よって、専門家の役割に付随する義務と権利といったものは、専門家達に決める権限がるのではなく、社会の側にその権限があるのである。
5-3. The Contract between Professionals and Patients |
自由な社会においては、たとえ先の二つの契約概念、つまり基本的な社会契約及び専門家と社会(専門家以外の人々)の間での契約といったものが存在するにせよ、依然として具体的な個々の医師と患者には、自己の行動や価値といったものをどのようにするのかという事に関して決定権が残されている。
つまり、第一及び第二の契約的概念によりもたらされた道徳原理では解決し得ない問題が存在するのである。すなわち、道徳的な問題と非道徳的な問題、例えば嗜好や選択の問題との境界をどのようにして分かつかに関して明確な基準は存在しないという問題である。
道徳的観点を取るという事自体も最終的には個人の選択に委ねられざるを得ない。専門家も一般の人々も共に医療倫理のための社会契約の含意を理解するとともに、自分自身の信念や価値に基づいて選択する権利を持つのである。
しかし我々は、最も基本的な社会契約と二番目の社会契約に基づいた上で、個別の関係を見出さねばならない。そして、第一及び第二の契約では解決できない、より具体的、実際的な問題を、第三の契約、すなわち専門家と患者の間の契約によって解決せねばならないのである。
5-4. Conclusion (医療倫理における三重契理論について) |
医療倫理における三重契理論 (a triple-contract theory) において、まず最初の契約(基本的な社会契約)は、倫理体系の基本的な内容を特定化する。この倫理体系の基本的な内容とは、道徳的観点(他の人々の福利を自分自身の福利と同様な尺度で考慮する観点)に立つ契約者達が、社会にとっての基本的な倫理的原則として創出したり、発見したり、示してできたものである。
一旦こうした基本的な社会契約が、基本的な原理を明確にすれば、第二の契約、すなわち社会と専門家との間での契約が、再び道徳的観点から一般の人々と専門家の間で生じる相互行為に関係する、特別な役割に付随する義務を明確なものとする。この第二の契約の唯一の限界は、一般に、この契約がそれに先行し、より基本的な社会契約から成る道徳に矛盾する事があってはならないという事である。
最終的に、こうした二つの契約という状況の中で、個々の専門家と一般の人々が、彼等の関係に関する取り決めや道徳、及びその他の事をより明確にする機会を得るのである。こうした結果生じるのが、医療倫理の三重理論と呼ばれるものであり、原則的に、あらゆる対象に用いる事が可能であり、且つあらゆる対象に適応可能なのである。
第5章における私の見解
人間は限界ある存在であるがゆえに、医療倫理の基本的な内容が生み出されたり、創り出されたり、発見されたり、示されてきた「仮定的な状態」に確かに近似的に接近し得るのみである。そして、この仮定上の状態において見出される体系こそ、倫理体系を知り得るために我々が持ち得る最良の体系であるとする著者の考え方には、多様な社会関係の指針を導き出す一つの鍵が隠されているように感じられた。
また、自由な社会における二つの契約概念、すなわち基本的な社会契約及び専門家と社会(専門家以外の一般の人々)との間での契約があってはじめて、個々の非専門家-専門家間の契約が明確にされるという三重契約理論には、医療倫理をめぐる非専門家-専門家間の関係のみならず、社会全体の各役割における人間関係を契約の概念から捉え直す事で、新しい社会関係の発想を提起しているように考えられた。
こう考えれば、実はこうした社会契約に基盤を持つ非専門家-専門家間の関係の発想は至極当り前のもので、我々人間そのものに本質的に課せられていた価値規範であったとも仮定し得る訳である。我々は自らがその文化・歴史の発展とともに創り上げてきた自己の価値観によって逆に永い間、自身が束縛されるという状態に陥っているのではないかという一種の不安めいたものも生じてきた。
しかしながら、こうした価値転換を図る能力も我々人間に備わった自然であり、同時にそれは新しい人間の意志の表出であるとも考えられる訳である。従って、将来における社会全体の在り方を占う上でも、こうした新しい個々の社会的役割の捉え方は、重要なアプローチになり得るものと考えられた。
第5章における私の疑問
(1)「5-1. The Basic Social Contract」において論じられていた、如何なる者も絶対的な基準そのものの存在を否定し得ない自然法的「神の意志」こそ、人間が本来有する「普遍的倫理」と捉えられるべきものではないだろうか。
(2)「5-1. The Basic Social Contract」において、神学的な源泉がたとえ否定されたにせよ、「終わりなき相対主義」のみが、残された選択肢であるわけではないと論じられていた。これは、普遍的で個別事象に適応可能な道徳的枠組みを見出す事が可能な「絶対性」の探求と捉えるべきなのだろうか。
(3)「5-1: Inventing a universal base for medical ethics」において、結果的な段階での個人の平等性を確保するという道徳的観点から医療倫理のための普遍的な基盤を創出し得ると論じられていたが、この場合、個人の平等性が確保された上での共同体という媒介を通してはじめて普遍性は発揮し得るものと考えるべきなのだろうか。
(4)「5-2. The Contract Between Society and A Profession」において、専門家の役割に付随する義務と権利といったものは、専門家達に決める権限がるのではなく、社会の側にその権限があると論じられていたが、この権限は専門家をも含む社会全体に帰されるべきか、それとも当該専門家を除いた社会に帰されて然るべきなのだろうか。
(5)「5-4. Conclusion」の「医療倫理における三重契理論」において、その第一段階である [基本的社会契約] とは、「医師の在り方」をめぐる社会と個人との契約、すなわち個々の契約者達のコンセンサスの段階と考えるべきなのだろうか。この場合、第二段階で [社会と医師の契約] を提起するならならば、同時に [社会と個人の契約] をも並行して為されるべきではないだろうか。また、この [社会と医師の契約] 如何によっては、専門家である医師の役割のみが逆説的にクローズアップされ、専門家-非専門家間の平等性を損ねる危険性はないだろうか。つまり、最終段階である [個々の患者と個々の医師の契約] を、より妥当なものにするために、第二段階で今一度、契約者である個々人の考えと、それが帰属する社会全体の見解の接合を図る契約をも実施する事が必要なのではないだろうか。
なお、この章のレポート作成にあたっては、早稲田大学大学院文学研究科博士課程社会学専攻・藤沢由和さんによる第3章日本語要約及びレジュメを参照させて頂きました。ここに改めてお礼申し上げます。
(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)
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