Veatch RM., "A Theory of Medical Ethics", New York, Basic Books, 1981.
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Chapter 8 : The Principle of Autonomy の要約 |
かつて秘密保持は、結果に関わらず行為の特性に権利を与える原理とされてきた。ヒポクラテスの原理では、理性的な人間は客観的にみて患者にもっとも利益があることでさえ医師に権限を委任することを好まない。個人の力の自由が、実際に最大の利益を勝ち得てきただろう。
細胞生理学研究のために、ある研究所がクリニックの分娩室にいる患者から胎盤組織を得ようと計画した。功利的なテストでは研究に実用性があるとした。そして、被験者への予想される利益もリスクもないとして、リスク-便益テストも通過した。
さらに二つの追加テストが要求され、被験者の権利と幸福は適切に保護され、法的に有効なインフォームド・コンセントが為されなければならないとした。この要求は、全体の実用性とは独立したものである。しかし、分娩室にいる患者にリスクはなく、実際に同意を得ることは研究者にとっても被験者にとっても非常に不便なこととして、研究計画には同意に関する提案はなかった。
被験者にリスクがないという事実に照らして、研究者が同意の手続きを怠ることは受容可能なのだろうか。
8-1. Autonomy in the Basic Social Contract |
自律の原理は秘密保持の原理のように道徳的社会の社会契約において利益と危害の考慮から独立した特別な位置を保持するのだろうか。道徳は個人の行為の責任を暗示し、責任は思想や行為の自由や自律の概念を要求する。少なくとも、個人の自由は心理的な現実性でなければならない。
人々にとって、本当の自由は束縛から自由であるというだけでは十分でなく、自由に選択したコースに従って行為する知識と資源がなくてはならないという議論がある。
基本的な自由の要求として、次の二つの権利群が考えられる。すなわち、(1) 制限するものから個人の自由だけを主張する消極的権利としての「自由の権利」、及び、(2) 行為の資源を主張する積極的権利としての「資格の権利」である。
(1) については、医学的治療を拒否する権利や、自分の身体を制御する権利、治療に同意する権利等の医学的概念が挙げられる。これらは他者から干渉されないで個人が行為を選択する意味での自律の主張を含む。
(2) については、人が自由に行為するためんび他者の一部にある行為を要求する権利である。医学的ケアにアクセスする権利やケアに保険が支払われる権利、丁寧な治療を受ける権利が考えられ、これらは他人が干渉しないだけではなく、特別な方法で行為する義務を主張する。
自由は、他者の自由を妨害する場合には制限されなければならない。これは、仁恵と自律の関係の問題を提起する。少なくとも、実質的に非自律的で、行為が非自発的な個人の幸福を守るために、社会は干渉する権利があるという主張があり、このような干渉は正当化されたパターナリズムとして言及される。人が自分に重大な危害を及ぼす可能性のある行為をしている時、彼が何をしているのかを理解していなかったり、自由に行為していないという証拠があったならば、パターナリズムは認められる。これは、ある人の行為が自発的かどうかを決定するための干渉に限定されるので、「弱い」パターナリズムと呼ばれる。
例えば、喫煙者が禁煙したがらない状況では、社会は全体としてこのような行動を力で制御する事(強制的なパターナリズム)は正当化できないが、個人自らの自発的で部分的な自由の放棄は進んで受け入れるのである。
8-2. Autonomy and the Lay-Professional Contract |
専門家と社会の間の契約は一般の人々の自律の範囲を明確にしなければならない。この契約は殆どの場合、より基本的な社会の契約の中で範囲付けられているから、自律の原理は尊重されなければならないであろう。確かに医療の専門家は、ヒポクラテス的なやり方で患者の自由を支配する事を認められていて、それはそのような支配の下で患者が助けられると信じられているからである。
社会は実際に、専門的技術に関わらず、良い市民としての一般的な合理性に関して、専門家にこの特別な権限を与える事を選択した。しかし、リスクはある。パターナリズムは、たとえ弱い者でも身体的や精神的な幸福だけでなく、個人の幸福全体を判断する事を要求する。人々の身体的、精神的な幸福のために特別な委託を伴って、ある専門家を選ぶ事は、歪んだ評価の危険を犯す事である。全てを考慮して、社会がそのような権力を医学の資格を有する人に与える事は奇妙である。
The Right to Consent
専門家や一般の人々が、財政的にも道徳的にも、如何なる特別な価値観の傾向を有しているのかを明らかにする必要がある。
自律の原理の見地に立てば、もしもある人が暴行殴打され、プライバシーが侵害され、研究に使用されるかもしれなくても、状況の考慮に関わらず同意は要求される。研究、治療、予防医学のどの文脈においても、もし人が手段としてだけでなく目的として扱われるならば、専門的な医学的関係に関わる際に許可が必要となる。
治療的な状況では、医師は患者を助けるよう明白に委託されているので、より低い同意の基準が要求される。もし医師に相応の責任があるならば、患者の幸福の保護は自律の原則を無視する事にならない。同意の権利には幾つかの限界があるにちがいないが、伝達可能な情報の総量は無限である。
しかしながら、例えば、自らの人生についての重要な医学的決定の責任を取りたがらない理由で、末期の患者が診断や予後についての情報を差し控えるよう欲する場合がある。自律は奪う事のできない権利であるが、将来に影響する重要な決定に直面する事への拒否には人間性を奪うものがある。これらの決定において、積極的な役割を持つ事はより気高く、責任のある態度である。これは個人が医学的情報に対して権利を持つだけではなく、義務も有するという事を示唆する。自律の原理は意志決定の責任をも生み出すのである。
これは医師が他人の意志に反して、情報を強制する権利があるという事ではない。説明される権利を生じる自律の原理は、より責任的でない方法で行為する自由も人に与える。情報を押し付ける事は、情報を差し控えるのと同様に自律の侵害である。少なくとも治療の状況では、情報を伝えられたくないという一般の人々の明確な要求は尊重されるべきである。
The Right to Refuse Treatment
合理的な患者や医師はケアにおいて永遠に互いを束縛する契約は結ばない。医師も患者も不都合があれば関係を終わらせる事ができる。医師に必要と信じられている治療拒否は、患者が何が自分の価値体系にあるのかという事の表明に過ぎない。殆どのケースで、価値観の表明は専門家のそれと十分に適合するので、契約関係は継続でき、専門家は患者の選択したケアを提供でき、この個人契約bのレベルで相互に矛盾のない妥当な交渉ができる事が望ましい。
末期患者の場合、自律の原理はより厳しくないように適用される事を社会は認めている。もし、そうでなければ、自己決定の権利が同様に適用されてしまう。いずれにせよ、延命するという義務はあっても、専門家に末期患者の自律を侵害する権利を与える事はできないのである。
Family and Guardian Autonomy
現実の世界では、全くの孤立した自律的個人、あるいは自由行為者はいない。彼等は教会やボランティア組織、会社、家族や民族社会といった何らかのグループの成員である。これらのグループは、より小さな道徳的コミュニティとして個人に機能する。如何なる医学倫理の理論もこれらの道徳的コミュニティの論理を含まなければならない。では、個人が自分の道徳の行為者として機能できない時には何が起こるのか。この答えは、(1) 医学的決定についての自分の道徳的立場を表現していた以前は(医学的決定の)能力のあった人の場合、(2) 本人の主観的ベースに従って意志決定するための関連ある枠組みを与えるような信念や価値観、希望を個人が表明していない場合、(3) 医学的決定の能力がある間に希望についての表明をしておらず、家族が保護の役割にもっともらしい志願者の場合、といった三つのタイプの個人の道徳的歴史による。
(1) の場合、自律は医学的決定の能力のあった時に本人によって確立された枠組みに基づいて、代理人が行為する事によって保護される。
(2) の場合、自律の原理は役に立たない。我々にできる事は、仁恵の原理に立ち返って、患者の利益を最も守るような最良の客観的判断に従った保護の確保の選択を主張するだけである。
(3) において個人の自律が全く役に立たない場合、目標は患者の利益になる事をする事である。この場合、限定された家族の自律と呼ばれるものが役に立つ。
家族は全ての社会において重要な制度である。家族の役割は異なる文化において実質的に異なるが、家族に意志決定に関するあらゆる選択には広い範囲が与えられている。
無能力の患者の代理人としての家族は、可能ならば患者のベースの最良の利益において決定を試みるが、もし不可能ならば、家族の信念や価値を基に客観的に患者の最良の利益と思われるものを決定しなければならない。
第8章における私の見解
人間の自律的行為を尊重するという事は、まず第一に個人的な価値観と確信に基づいて、自己の見解を持つ権利、選択する権利、そして更衣する権利を含め、その人の能力やものの見方を認める事である。
義務論者であるカントは、自律の尊重は、あらゆる人間が無条件の価値を有しているという認識、すなわち各人が自らの運命を決定する能力を有しているという認識に由来していると論じた。一方、功利主義者であるミルは、ある個人の行動に対する社会的統御が正当であるのは、他の個人に対する危害を防止するために必要な場合に限り、また、市民は他者による同様の自由の表現に干渉しない限り、個人的信念に従ってその可能性が展開されて然るべきだと論じた。
つまり、自律的な意志の決定権とは、自由やプライヴァシーといった自律に関連した特別な権利という形を取るわけである。この原理が制限もしくは排除されたりする事が正当化されるならば、その正当化は仁恵や正義といった競合する道徳原理に基づいていなければならないとされる。
いずれにせよ、本人の最良の利益と考えられる価値に立脚した概念群を選び出し、その選択肢から客観的な妥当性を追求する必要が我々にはあるだろう。こうした社会的態度を取る事が、パターナリズムの濫用へと陥る危険を回避していく第一歩であると考えられる。
第8章における私の疑問
(1)「8-1. Autonomy in the Basic Social Contract」において、まず最初に自律の原理があって自由の概念が生起するのか、自由の概念があって自律の原理が発揮されるのか、それとも自律と自由は他の原理と互いに補完し合って、あるいは競合してこそ、真の自律ないし自由が生まれるのだろうか。
(2)「8-2. Autonomy and the Lay-Professional Contract」において、専門家と社会の間の契約は一般の人々の自律の範囲を明確にしなければならないと論じられていたが、専門家の方の「自律」の範囲も明確にすべきではないだろうか。
(3)「8-2: The Right to Consent」において、自律は「奪う事のできない権利」と論じられていたが、その権利の発動を場合によっては「停止させる事もあり得る権利」と考えて然るべきなのだろうか。
(4)「8-2: The Right to Refuse Treatment」における末期患者の場合、「自律の原理はより厳しくないように適用される事を社会は認めている」と説明されていたが、これは「自律という原理は如何なる人々も有する普遍的な権利だが、その適用には "程度" の差が存在して」更に「この原理適用の程度の差によってこそ当該原理は権利として保護される」と解釈すべきなのだろうか。
(5)「8-2: Family and Guardian Autonomy」において、個人が属する何らかの「小さな道徳的コミュニティ」が、その個人の倫理的機能に影響を与えるならば、また文中にも示される通り「如何なる医学倫理の理論もこれらの道徳的コミュニティの論理を含まなければならない」のならば、個人が自分の道徳の行為者として機能できない際、帰属していた(関係を有していた)友人関係、教会やボランティア組織、会社といった組織をも無能力の患者の代理人(あるいはその個人に最も近い存在者)として、場合によっては「家族と '同格' に」捉えて然るべきではないだろうか。
なお、この章のレポート作成にあたっては、伊沢玲子さんによる第8章日本語要約及びレジュメを参照させて頂きました。ここに改めてお礼申し上げます。
(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)
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