Veatch RM., "A Theory of Medical Ethics", New York, Basic Books, 1981.

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Chapter 9 : The Principle of Honesty の要約

 恩恵(仁恵)の原理、自己決定の原理に加えて、第三の原理を考える必要がある。「正直の原理」である。この原理は、約束を守る事であったり、自律性であったり、相互的な人間関係の基本である道徳的な主張と考えるのが一般的である。医療の現場においては、正直の原理は、一般の人々と専門家との間にあおいては極めて難しいものであり、例外的であるといえる。一般の人々と専門家との関係における正直の原理の重要性を理解するにあたって、まず、基本的な道徳的概念を把握する必要がある。
9-1. Honesty in the Basic Social Contract

 道徳的な観点から、社会に適用される基本的な原理を創り出す場合、約束を守る事と、自己決定の原理がまず考えられる。そして、これに伴って考えられるのが、正直さ、あるいは真実性である。しかし、正直である事の義務が以前から存在していたにしても、このように基本的な原理を創り出そうとした場合、非常に難しいものであったと思われる。何故ならば、約束や契約といった事から正直の原理が生まれた訳ではなく、最初の約束が正直に為されたものである事を保証するすべがなかったからである。
 規則功利主義者の考えでは、如何なる他の規則よりも、バランスのとれた一層良い世界であろう「常に真実を述べる」という規則に強制的に従事しなければならない。人間関係を価値あるものにするために、「コミュニケーションが真実である」という基本を前提にしなければならない。しかし、カントは「正直である事は神聖な絶対的なもの(先験的な自明の事実)であるが、如何なる便宜、功利主義にも制限されるものではない」と論じている。
9-2. Honesty and the Lay-Professional Contract

 近年、医療専門家たちの中で変化が起こってきた。アメリカ医師会で新しく採択された「倫理原則」では、「患者や同僚に対して正直である事、嘘をついたり騙したりしている医師を報告する事」等を掲げている。医療の提供において、医師個人がたとえ有益であると判断しても、診断について差し控える事は難しくなってきており、かつてのパターナリスティックなヒポクラティズムから変化し、患者が積極的に医療チームの一員として参加できるようになってきた。
 医療倫理において、非常に興味深い問題の一つが、「それぞれのケースの意志決定において、単に責任ある行動をする権利よりも、むしろその義務があるかどうか」である。その答えは、医療倫理における理論よりも、それ以上に、人間の性質をどのように理解するかにかかっている。
 医療における一般の人々と専門家との関係における問題を三つに分類すると、以下のようになる。

(1) 正直に行動する権利があり、そして患者-医師関係の中で意志決定を行うための情報を得る事ができる場合、情報を得る事を必要とするプロセスを踏む権利があるという問題。これはカウンセリングの権利やコミュニケーションの権利、医療の記録にアクセスする権利等を含んでいる。

(2) 正直の権利におけるプラシーボ(偽薬)の問題。これは殆ど道徳的に不可能のように思われるが、ただ唯一認められるケースは、偽薬を与えられる事にあらかじめ同意している場合は道徳的に容認できるといえる。

(3) 科学的研究における虚偽の問題。これは社会的な利益のために個人の権利を侵害する事を正当化してしまうところに道徳的な危険性がある。例えば、心理学研究の実験等の際にしばしば情報が差し控えられたり不正に手を加えられたりする場合である。しかし、このような研究において被験者が嘘をつかれている事を知るのを望まない場合、それは専門家が正直の原理のジレンマから解放される唯一の状況となる。


9-3. Lying, Deception, and Withholding the Truth

  医療専門家達が患者に診断の予後を伝える場合、患者の回復への期待が根拠のないものであったとしても、しばしば「回復の可能性がある」などという事がある。このような状況は、「非常に大きな嘘」であり、特に不正直であるといえる。もし、正直である事が平等な契約関係における必要事項であり、自律的なパートナーとして患者を治療し、オープン・コミュニケーションを約束するものであったならば、このような正当化が無用なものである事は明らかである。道徳的な義務とは、このような事を公開する事なのである。
 真実を公開しない事に対する最も重要な正当化の理由の一つとして挙げられるのが、医療関係の中において嘘をついている訳でなく、単に真実を伝えるのを差し控えているだけであるとし、その結果公開する必要がないとする主張である。つまり、情報を差し控えるという事は「不作為」であり、作為的なものとは異なって、誤った情報を提供するという行動をしていないという訳である。しかし、行動すなわち作為的であるという事と、怠慢すなわち不作為であるという事が道徳的に如何に異なるものであるかは明白ではない。ただ、作為であれ不作為であれ、同様の意図を持ち、同様の結果をもたらし、同様の結果を予知しながら行っているという点が明白であるといえる。
 「killing」と「letting die」における作為、不作為の議論の一般における支持の傾向が明らかであるのに対し、「lying」「withholding the truth」の一般における認識の違いはさほど明確ではない。しかし、患者-医師関係において情報を伝える事を差し控えるのは、医療行為を行わない事と大して違わないといえる。また、患者-医師の契約関係における医療行為の怠慢は、積極的な害を及ぼす行為であるとしている。
 患者-医師関係における正直の原理では、オープン・コミュニケーションと、契約の絆を尊重する事が要求される。これらの事から、情報を差し控える事は、嘘をつく事と道徳的に同じものであると結論する。騙す行為については、判断が不明瞭でもあり、明確なものであるともいえる。ただ、事実を知りながら他者を違う方向へ導くのは契約関係の絆を侵害するものである事は事実なのである。
第9章における私の見解

 「嘘をつく事」「騙す事」そして「情報を差し控える事」の三つの意味を分類して、各々の概念の枠組みを照らし合わす時、特に「情報を差し控える事」の倫理的要件の是非を客観的に判断する事は非常に難しいと考えられる。
 こうした事態を難しくさせている要因として、非受容の問題と信念の問題が挙げられる。例えその情報が非伝達者-伝達者間に適切に理解されていたとしても、当該情報を扱う本人の意志決定を行う能力は、その情報を真実として受容する事を拒む事によって影響され得る。また、その関係における当事者同士の誤った信念の交流によっても、患者や被験者達による決定が無効になる場合があり得る。
 しかしながら、本質的に妥当と考えられる信念においては、患者もしくは被験者と専門家とは、自らの権限を相互に委任し合い、同一の理解に立脚する必要があるのである。
 このような相互契約に基づくオープン・コミュニティにおいてこそ、患者-医師関係における正直の原理は正当化され、互いの契約の絆が尊重される事になるものと考えられる。
第9章における私の疑問

(1)「9-1. Honesty in the Basic Social Contract」において、規則功利主義者の考える「コミュニケーションが真実である」という前提は、真実の実体は如何なる人間も認知し得ないものとも考えられないであろうか。もしそうならば、その言質自体が真実ではないという事にはならないであろうか。
(2)「9-1. Honesty in the Basic Social Contract」において、カントは「正直である事は神聖な絶対的なもの(先験的な自明の事実)」と述べると同時に、「如何なる便宜、功利主義にも制限されるものではない」と述べたとされるが、もし、絶対的なものが存在するならば(正直が絶対的なものならば)、それは何かに「制限される」のではなく、逆に「制限してしまう」性質のものであるとは考えられないだろうか。
(3)「9-2. Honesty and the Lay-Professional Contract」において、人間の性質とはその「権利」よりも「義務」の方に重点が置かれた存在なのであろうか。
(4)「9-3. Lying, Deception, and Withholding the Truth」において、作為と不作為は道徳的に同格ではなく、倫理性の段階として、正直>不作為≧作為≒不正直と考えてはいけないだろうか。不作為は正直よりも道徳的に確かに劣る行為と考えられるが、その対象となる者の任意性(自由)は作為の状態よりも高まる事は事実である。従って、作為と不作為はどちらとも対象者に対して「同様の結果をもたらし、同様の結果を予知しながら」行われる行為であったとしても、必ずしも「同様の意図」によって行われる行為ではなく不作為者の道徳的酌量の余地はあるとは考えられないだろうか。
(5)「9-3. Lying, Deception, and Withholding the Truth」において、オープン・コミュニケーションは正直の原理のみならず、他の如何なる原理にも適用され得る、「全道徳の '目指すべき' 実践状態」とは考えられないだろうか。


  • なお、この章のレポート作成にあたっては、東門葉子さんによる第9章日本語要約及びレジュメを参照させて頂きました。ここに改めてお礼申し上げます。

    (早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


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