日本での移植医療の諸問題についての一考察
─バイオエシックスの視座からの提言─


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1. 移植医療における日本人の死生観

  医療技術の進歩とともに「脳死」という新しいの死の概念が生まれた。脳幹を含む全ての脳の機能が不可逆的に停止している状態にもかかわらず、生命維持装置によって肺や心臓が無理に動かされ続けるという人為的な「生」がそこに存在する。自律した生命としての機能は失われたものの、脳死体は温かく、さながら、ただ眠っているだけのように思えるものである。
 昨年、私は、母の従弟にあたる親戚のお兄さんから突然、「家内が台所で急に倒れて意識不明になってしまった」という連絡を受けた。母が関西にいるため、急遽、私が代わりに春日部にある病院まで御見舞に伺ったのだが、既にその時、その親戚のおばさんは、30代の若さながら、重篤な脳内出血によって既に脳死状態にあった。私が病室に入ると、そのおばさんは、幼い子供たちと夫に囲まれて静かに横たわっておられた。ただ周囲に響わたる、人工呼吸機による「スーハー・・スーハー・・・」という呼吸音は、本当にただ眠っているかのような印象を私に与えたものである。そのおばさんの手を握らせて頂くと、まだ温かく、握り返されるような気がしたのを今でも覚えている。そして、何よりも私自身、今まで頭では理解していたつもりでも、その瞬間初めて「あぁ、これが脳死というものなのか、でも、まだ、本当は生きているのではないか」と、自分自身の理性では計れない一種の本能的な感情の声を聞いたように思う。
 結局、その親戚のおばさんは数日間の脳死状態を経て亡くなられたが、人間がつくり出した「脳死」とは果たして如何なる意味があるのか、私自身、改めて考えさせられる経験であった。
 もし、ただ「生きているかのような」状態を維持させるためだけに「脳死」が存り続けるならば、それは患者自身の望むところとは必ずしも一致しないであろう。しかしながら、残された家族などは、それでも、脳死という「生と死の間の漠然とした状況」を潜在的に望み、そこに一屡の望みを託しているのかも知れない。少なくとも、日本における私の周りで起こった脳死の事例はそうであったように思う。
 こうした残された者たちの複雑な感情は、何らかの意思ある者が生の世界にあるか、あるいは死の世界にあるかという意識の立場の違い、すなわち、脳死となった患者と、残された家族の立場との違い、いわば、自己同一性の価値の次元の違いに立脚しているように私は思う。
 日本では「死」という概念をめぐって上古以来、様々な考え方がなされてきた。特に、古事記三巻のうち上巻に登場するイザナギ・イザナミの黄泉の国の伝承 注1には、明らかに当時、大君(おおきみ・天皇)を中心として、漸く国家らしい国家の共同体的な自己同一性を形成しつつあったわが国の人々(672年の壬申の乱、701年の大宝律令完成、710年の平城京遷都を経て、712年にようやく古事記が元明帝に撰上された 注2)の「死への畏怖・忌み」が捉えられ、ここに、「日本人」としての原初的な死の見方を垣間見る思いである。
 やがて、大陸から儒教 注3(4〜5C頃、わが国に経典が伝来、513年には継体帝に百済が五経博士を貢す)や仏教(538年に初めてわが国に伝来、百済の聖明王が欽明帝に仏像・経論を献じた)などの精神性が流入するに従って、我々日本人が抱き続けてきた死への畏怖は、それを鎮撫するために、あるいは一種の諦観によって十分に納得して受け入れるための宗教観(仏教の教えにもある生死一如の精神性、あるいは儒教の教えにもある「死」を従容と受け入れる精神性)を取り入れて徐々に、「生の延長線上の人間の在り方」としての「死」の概念へと変容していったように考えられる。
 しかしながら、観念としての「死」が如何に定義されようと、その背景に変容し続ける時代性が、そのまま、人間の本能的な感情に当てはまっていくとは限らないものである。これは、一見理性が優勢な現代社会で依然として、絶え間なく起こり続ける犯罪や紛争にも言えることだろう。
 今、我々の社会では「生」と「死」をめぐる永きにわたる価値の変遷を経て、新しい「死」として脳死の概念が生まれ、さらに、新しい「生」を支えるものとして「移植医療」が行われるようになった。人間の死生観は確かに、その時々の歴史的・文化的・社会的状況などの外的な諸要因に影響を受けつつも、そこに潜在し続ける生への本能的な執着・死への畏怖は個人の内なる一つの価値の次元として、確固として在り続けるものと言えるのではないだろうか。これは、これからの移植医療の出発点とも言うべき人間の死生観を考える際にも、普遍的に取り除くことの難しい一つの主要な問題として捉えられるものである。

2. 移植医療の問題提起のリソースとしての情報の欠如

 生と死の捉え方をめぐって、個人の内なる価値にも、生への執着・死の拒否から受容、ひいては利他的な死まで様々な次元があるように、その個人を取り巻く社会にも、共同体の尊重、あるいは、個人の意思優先など様々な価値の次元が存在する。
 移植医療についても同様、自己の死をめぐって全ての移植提供を拒否する事例もあれば、脳死後、自らの臓器を提供するように申し出る事例もある。いずれにしても、個人の内から発動される「いのち」の価値が、残された家族を含めた周囲の社会全体の死生観と如何に合致するかが大きな問題となる。ここに様々な死生観の次元の違いによる価値のズレが生じてしまうのである。
 特に、わが国の移植医療を考えれば、この「価値のズレ」が広く世に問われることなく、生み出され続けてきたと言えるのではないだろうか。その結果、個人の内に本質的に存在する「死の畏怖・生への執着」の価値の次元のみが、その残された家族を含めて、あたかも社会通念上の唯一無二の死生観と捉えられる傾向をわが国の移植医療に生み出すことになったのではないだろうか。早期に、こうした生と死の価値の次元の多様性を広く世に問うていれば、昨今、特に多様化しつつある患者の死生観は一層、周囲に明確なものとなっていたはずであり、それを受け止める社会の態勢も、ここまでは混乱しなかったものと考えられる。
 わが国の移植医療が困難な状態に陥ったもう一つの要因は、こうした生と死をめぐる議論、人間の「いのち」に関わる本質的な問題提起が国民の間で活発に行われてこなかったことにあるだろう。それは、移植医療が一部の医療関係者のみの間で為されたコンセンサスに基づく、殆ど世に顕在化することのない行為であったためでもある。少なくとも、「臓器移植」という用語は、通常為されない特殊な医療行為として世間ではみなされてきたものであり、仮に自分が交通事故などで脳死状態に陥ることを想定できても、そこから「移植医療」の可能性についてスムーズに考える習慣を持っている人が一体どれだけ日本にいたか甚だ疑問である。今年になって、日本でも漸く国内初の臓器移植が行われ、広く世間に議論や問題提起の風潮が生まれてきたものの、果たしてどこまで国民一人一人に、こうした問題を考える習慣が浸透しているかは、依然として未知数のままであると言わざるを得ない。
 このような状況を改善していくためには、やはり、ただマスコミの社会への影響力に頼るのではなく、通常の生活環境、例えば、家庭や学校、地域からの啓蒙活動が不可欠であろう。それは、あくまでも問題提示の形態をとった公民教育(可能ならば初等教育程度から)の方法をとることが最も望ましいと私は思う。まずは家庭と学校が連携をとって、移植医療の実際を出来るだけ分かり易く子どもたちに教育していくべきではないだろうか。そのためには学校の現場にいる教師たち、そして、各家庭との連携を図るPTAなどの地域集団の積極的な働きかけが強く期待されるところである。
 そもそも、臓器移植をはじめとして人間の本質的な概念、すなわち、生や死などの問題に関わる社会的態度とは、元来、日常の生活環境から範をとって展開されるべき性質のものであると私は考えている。従って、行政側からいくら理に叶った指導が為されようとも、対象となる地域住民一人一人がその問題を実感しない限り、それは実効のない、単なる机上の空論に終始してしまいかねない。これを未然に防ぐためにも、わが国の医療政策の立案担当者は、特に、移植医療などの人間の「いのち」に関する新しい社会問題に直面した際、まず何よりも、個人と社会を媒介する最も小さな単位、すなわち、家庭や学校、病院、そして地域などにおいて当該問題意識を浸透させる努力から始めるべきなのではないだろうか。
 そのためには、一つの行政機関が縦断的に行う一方向的な政策決定ではなく、目的を同じくする複数の機関、さらには民間の関連団体などとも連携をとった制度横断的な発想によって、各家庭・学校・病院・地域に混在する様々な意思を活かしていく方策を考えていくべきである。
 1980年代に脳死を人の死とする立法措置が各州で定着し、脳死移植が日常化している米国でも、わが国と同様、ドナー不足の悩みは尽きないという。DHHS(米国保健福祉省)によれば、1996年には5万5千人以上が待機患者として登録されたものの、そのうち移植を受けることができたのは約2万人であり、臓器を待ちながら約4千人の患者が亡くなったという。また、この傾向は増大する一方で、最近の報告では、さらに臓器需要が供給を大幅に上回って、6万4千人以上の国民が心臓や肺、肝臓、膵臓、腎臓などの提供を待っているという。
 また、一向に増えないドナーの拡大策として米国の連邦政府は、1997年末、臓器提供に際してスムーズに親族の同意が得られるよう、日頃から家庭内で家族の提供意思を確認し合う運動を盛り上げたり、病院に対して全ての死者の情報を臓器調達機関に報告するよう義務付けるなどの施策を柱として、20%のドナー増加を目指す新戦略を発表、全国民レベルでの真剣な取り組みを呼びかけたという。
 こうした米国の移植医療に対する施策を併せて考えても、やはり行政側から積極的に個人の問題提起のリソースとしての情報を浸透させるべく指導を行っていくことが肝要であり、ドナーのプライバシーに抵触しない限りにおいて、最大限に移植医療に関する情報を公開し、国民を啓蒙していく努力が必要である。そして、そうした情報を享受する各個人の意思決定を支援して汲み取る寛容な態度も、行政側には依然として強く求められるところである。この観点から考えても、おおよそ現行の医療行政が有すべき真髄とは、すなわち、国民一人一人の「いのち」についての問題提起に資するための全ての情報の、家庭・学校・病院・地域への浸透化とそれによる各人の啓蒙にあると捉えて然るべきではないだろうか。

3. 移植医療におけるバイオエシックスの原理の社会的動態

 医療をめぐる情報の公開が求められる一方で、現在、その先端に位置する移植医療の現場にいる臓器提供者の家族からの根強い懸念の声があるのも、また事実である。
 心臓停止後、移植のために腎臓を提供したドナーの家族の過半数が公表せず、半数近くは「知られたくない」と考えていることが日本臓器移植ネットワーク北海道ブロックセンターの西垣文敬チーフコーディネーターらによって報告されている(1999年5月10日付・週間医療福祉新聞)。
 それによれば、中には交友関係の壊れるのを心配する家族もおり、臓器提供に対する社会の受け止め方に強い不安を抱いているドナーの家族の実態が明らかになった。また、1995年から98年までの4年間に腎臓を提供した北海道内の全10人について、同センターの移植コーディネーターが葬儀に出席し、家族から聞き取り調査をしたところ、葬儀で故人の腎臓提供を報告したのは4家族、6家族は公表しなかったという。その理由として、このうち2家族は「特に自慢することではない」などと話したが、残りの4家族は「近所や知り合いに知られたくない」と公にすることに強い懸念を示したという。
 調査をまとめた西垣チーフコーディネーターによれば、今年2月、臓器移植法に基づく初の脳死ドナーが現われたが、心停止後の提供でさえ社会に浸透していないという。わが国の移植医療を取り巻く現況は、まだ依然として、臓器を提供したことを周りに普通に言い出すことすら難しい状況なのである。ここに「いのち」の価値をめぐる個人と社会共同体全体の二元的な価値の相剋を見る思いである。
 臓器移植ネットワークによれば、日本全国の心停止後の腎臓提供者は83人(1998年)、一方、移植を希望する日本全国の登録患者は1万3256人(1999年4月末現在)に上るという。
 今も高まり続ける移植医療の必要性に応えるために、社会はただ情報の公開を求めるだけではなく、移植医療の当事者の心情に配慮した精神的な支援をも同時に行っていくべきである。それには、上述したような根気強い家庭・学校・地域単位の啓蒙活動と併行して、あくまでも原則的公開に則った発想のもと、その当事者たる「ドナー側から」求められるプライバシーの権利は最大限に擁護していく形態での社会的態度が望ましいと考えられる。
 では、わが国の移植医療において、ドナー側の自己決定による意思(特に、この場合は善意)が、社会に捧げられてきたのに何故、それが再びドナー側の「恩恵」として還元され得ないのだろうか。こうした事を考えると、改めて当事者たるドナー側と、それを取り巻く社会との間の「いのち」の価値のズレを意識せざるを得ない。
 本質的にドナー側の自己決定に基づく善意は、社会共同体内にある平等性や公正性の価値評価を受け、終局的には、普遍的に正当化された社会的恩恵の次元となり、従って、当初にその価値を発動したドナー側にも大いなる恩恵として当然の如く還元されるものであると私は考えている(下図1参照)。
 この恩恵の還元の図式は、確かに個人と、それが属する社会共同体集団全体の有する価値を、それぞれの立場からの恩恵として捉えることで、両者の二元性を互恵的に捉えようとする私の試みの考え方である。移植医療においては、特に、社会的恩恵のレベルにまで高められたドナーの自己決定が、そのドナー個人の帰属する親族、ひいては地域共同体集団の多様な価値観を承認して支援する恩恵としての環境づくりに還元されることを志向するものである。終局的にドナーを含む個人の自己決定は、社会共同体集団全体において平等性と公正性の価値評価を受ける限りにおいて、個人の多様な意思決定に資するための周囲からの質・量両面からのサポート体制として再帰し、自由で多様な個人の死生観に基づく新たな自己決定(ドナーになることを拒否するという決定も当然含まれる)、さらに、周囲からそれを承認して支援する体制や、情報の基盤を生み出していくという恩恵循環の発想である。このプロセスによって、個人の死生観のみならず、社会の死生観の多様性をも陶冶されていくものと私は考えるのである。

移植医療におけるバイオエシックスの原理の社会的動態
図1. 移植医療におけるバイオエシックスの原理の社会的動態(河原, 1999)

 こうした図式が今の移植医療の状況に当てはまらないのは、ドナー側の自己決定に基づく善意が、適切な平等性や公正性の価値評価を受けていないからであり、それを行うだけの質・量的な基盤が今のわが国の社会にはないからである。全ての移植希望者に対して平等に、ドナーが自己決定を以て発動した善意(すなわち、その具現としての臓器)を分け与えることは不可能であり、臓器の需給バランスが極度に偏っている状態で「平等性」は成立し得ないであろう。
 また、平等性が成立し得ない状況でも、確かに適切な移植の順位決めなどによって、少なくとも臨床の場面では「公正性」を期すことは可能かもしれない。しかし、それだけで本当に公正を期したと言えるのだろうか。例えば、DHHS(米国保健福祉省)は1998年10月、貴重な提供臓器の配分法について、ドナーが発生した州内の待機患者に優先配分される現行制度を見直し、州単位ではなく全米で最も容体の悪い患者に優先的に配分する方式を提起した。しかしながら、これには「ドナー数の多い州ほど他州への臓器流出が増え、州内住民への恩恵が減る」として一部の州が猛反発し、結局、事態調整のためにDHHSが実施を1年先送りする間に、議会や裁判所も巻き込んだ政治論争にまで発展し、移植医療の問題はかえって深刻なものになってしまったという。
 こうした米国の事例を考えても、真に公正なる移植医療とは、何も臓器の配分のみの問題に限ったものではないことがよく分かる。上述してきた所謂「草の根」レベルからの啓蒙活動やそれに伴う行政や医療者側からの情報の公開、ドナー側のプライバシーの権利の擁護など、社会全体の公明正大な態度があってはじめて完遂する「公正」なる価値の動態がそこにあって然るべきではないだろうか。
 米紙ニューヨーク・タイムズによれば、最近、ペンシルベニア州において、臓器提供があった場合、「葬儀費用の足し」として約300ドルを支出する方針が固められたという。報酬は直接ドナー側の遺族に渡るわけではなく、葬儀場に支払われるというが、果たして量的な恩恵の還元のみでどれ程の効果があるだろうか(臓器提供への報酬の支払いは1994年の法律で認められている)。

4. 結語 -自己決定と社会的恩恵との一致への方向付け-

 ドナーの自己決定による善意は、勿論、その家族の理解と支援があってこそ社会に発動されるものであるが、これにより多くのリソースとしての善意の具現である臓器供給量の安定化による「平等」なる価値の次元と、何の抵抗なく社会に個人の善意を活かせる質的な「公正」なる価値の次元が加わらなければ、実際の社会的恩恵(特に、社会から尊敬と愛情の念を以て暖かく、その献身的行為が受け入れられるといった質的な還元としての恩恵)として、ドナーの善意は個人とその家族に還元され得ないのではないだろうか。
 個人の自己決定を社会的恩恵として昇華させるには、まず、その自己決定を普遍的に正当化し得るものとして評価する社会的態度が必要である。こうした基盤が整っていない状態で、無理に移植医療を推進する態勢をとるのは極めて危険なことであろう(例えば、ブラジルにおいて1998年1月、本人が臓器提供を事前に拒否していなければ、自動的にドナーになるという新しい法律ができて、社会の猛反発を受け、結果として、その年の10月に大統領が改正法案に署名、臓器提供は家族の同意が必要となった)。
 従って、ドナー個人、あるいはその家族が有する価値の発動が、社会との関係において妥当に合致し、さらに個人に恩恵として還元されて、再び新たな自己決定へと結び付いていく社会、すなわち、バイオエシックスの諸原理が実際に動態を以て適用され得る社会を現出させることになれば、安心してドナーになる人が増加し、やがては臓器の需給は安定化傾向をたどることになる。
 こうした方向付けに基づいた、行政を含む「社会の側からの施策」とドナー及び、その家族を含む「個人の側からの意思決定」の妥当なる一致へのプロセスが、近い将来において、移植医療を社会に広く運用させるための有効な方策となり得るのではないだろうか。(終)


(追記:勿論、移植医療に関するバイオエシックスの問題はまだまだ多くある。特に今回は、米国の「監察医」制度などの検死のプロセス、あるいは支援機関の在り方などについては触れず、移植医療の概観の考察と提言をしただけであった。こうした個々の問題意識も当然含めて、社会において移植医療に関わる全ての側面の意思が合致した時、協同に分かち合える恩恵が生まれ、社会全体の承認への道が開けていく可能性が期待されるところである。)
参考文献;
菅谷章:『日本医療政策史』, 日本評論社, 1981.
坂本太郎監修:日本史小辞典, 山川出版社,1987.
佐久間 淳:『医療社会学概説』, 大修館書店, 1988.
生命倫理研究会: 1989年度臓器移植研究チーム研究報告書, 1989.
日本生命倫理学会編:『生命倫理を問う』, 成文堂, 1991.
Eliot Freidson/進藤雄三, 宝月 誠訳:『医療と専門家支配』, 恒星社厚生閣, 1992.
莇 昭三:『医療学概論』, 勁草書房, 1993.
A・ヤッフェ, L・フレイ-ローン, M-L・フォン・フランツ/氏原寛, 李敏子訳:『脳死の深層心理』, 人文書院, 1994.
池上直巳:『医療の政策選択』, 勁草書房, 1996.
松井茂記:『情報公開法』, 岩波新書, 1996.
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Rihito Kimura:Bioethics as a Prescription for Civic Action: The Japanese Interpretation, "Kennedy Institute of Ethics Journal", Vol. 12, No. 3, 1987, pp. 267-277.
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インターネット参考URL;
「組織細胞工学関連」厚生科学研究・中村班, 組織細胞工学技術を用いた医療材料・用具の有効性、安全性、品質評価方法に関する研究 (関連報告書・資料):http://hayato.med.osaka-u.ac.jp/index/societies-j/tissue/material.html
NHK, 地球法廷:http://www.nhk.or.jp/forum/life/
Transplant Communication:http://www.medi-net.or.jp/tcnet/
日本移植者協議会:http://www.sts-net.co.jp/jtr/
日本臓器移植ネットワーク:http://www.medi-net.or.jp/tcnet/jktn.html
CenterSpan:http://www.centerspan.org/
Transplantation, Official Journal of the Transplantation Society:http://www.wwilkins.com/TP/
トリオ・ジャパン(国際移植者組織・日本支部):http://square.umin.u-tokyo.ac.jp/trio/
日刊医療福祉新聞:http://imn.hokkai.or.jp/
日本社会臨床学会:http://yamasr50.edu.ibaraki.ac.jp/novo/syarin/

(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


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