メアリー・シェリー著
「フランケンシュタイン」を読んで
My Book Report of Mary Wollstonecraft Shelley's "FRANKENSTEIN"
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アウトライン
作品は、もう一人の主人公=探検家ウォルトンが姉に宛てた手紙から始まる。それによれば、彼は幼い頃からの夢であった北極への航海を様々な苦難を経て遂に実現させた。しかし、その途中で氷が八方から船にせまってきて足止めを食らうという、非常に危険なアクシデントに遭遇した。そのとき突然、途方に暮れていたウォルトンらの前に奇妙な光景が展開した。人間の形をしているが、明らかに巨人のような背丈のあるものが、そりに乗って犬を操り、急速に進んでいくのが見えたのである。この出現は彼らになんともいえぬ驚異を呼び起こしたのであった。
さらに、その翌朝、ウォルトンらの前に不思議なヨーロッパ人が現れた。彼は夜のうちに大きな氷塊に乗って漂流してきたのだが、船の行く先が北極であることを確かめてようやく船に上がってきた。しかし、この男の手足はほとんど凍りついて、身体は疲労と苦しみのためにおそろしく憔悴しきっていた。また、概して憂鬱で絶望していて、ときどき押しかかってくる苦悩の重みに耐えかねるように歯ぎしりをするのであった。乗組員達は彼に色々な質問をしたがるのだが、「私から逃げ去ったものを探しに」と己の旅の目的について彼はそう答えるのみなのであった・・・。
しかし、ウォルトンの彼に対する愛情は毎日つのっていった。彼は驚くほど敬服と憐憫を同時にそそり、ウォルトンをして「こんな気高い人間が苦悩に破壊されているのを見て、満腔の悲哀を感ぜずにいることが、どうして出来ようか」と嘆かせるのであった。それほど彼は温厚で、賢明でいかにも教養があった。そして、彼の精神が苦悩によって打ち砕かれない前だったら、己の心の兄弟として幸福に感じたに違いない人間だとウォルトンは思うのであった。
いつしかウォルトンは彼に身の上話をするのであった。友を見つけたい願望・・・今までに出会ったものよりもっと親密な、同胞精神の同感を求める己の渇望のことをウォルトンは彼に話した。彼は、その話に賛成するのだが、「しかし、私はあらゆるものを失いました、いまさら新たに生活を始めることはできません」と言って、平静な落ちついた悲哀の表情を現すのであった。
ウォルトンは彼を分析して「こういう人間は二重の存在をもっている。困苦に悩み、絶望に沈むこともあるが、自分自身の中に引きこもると、まわりに後光をもつ天国的な精神のようになり、その後光の中へは悲哀も愚劣もあえて入り込まなくなる」と考えた。一方、彼はウォルトンが己と同じ道を追求し、己を今日の境涯に追い込んだのと同じ危険に身をさらしていると考えた。そんな時、ようやく彼は奇しくも痛ましい身の上話、宿命的なわざわいの記憶をウォルトンに語り始めるのであった・・・。
彼の名はヴィクトル・フランケンシュタイン。ジュネーブ生まれの若き科学者であった。彼はとても幸福な、愛情に満ち溢れた家庭で育った。両親が彼にそそぐ愛情には限りがなかったようであり、母のやさしい愛撫と、父の彼を見る瞳のいつくしみたのしむような笑顔がそこにはあった。彼はまさに「天から授けられた無邪気な頼りない被造物」であった。全てが彼にとっては一つの楽しみの連続としか見えない、一本の絹のきずなによって導かれていたのであった。
やがて、両親は絵にかいた天使童子よりもきれいな子を奇遇者として引き取ってきた。その子の名はエリザベートといった。彼女は彼の妹以上のもの、美しく愛らしい彼の伴侶となった。
その頃の両親の生活は著しく遁世的なものであり、群衆を避け、小数の者と熱烈な交わりを結ぶ、という彼の気質がここから生まれた。だから、彼は学校友達一般には無関心であったが、そのうちのアンリ・クレヴァルとだけは密接な友情のきずなをもって結ばれた。
彼は成長するにしたがって、そのスイス的な家を取りまいている自然の変化の法則を観察することに喜びを覚えた。天と地の秘密、世界の物理的秘密に熱中した。彼は自然哲学を偏愛するようになり、実にこの学問によって、その運命は支配されていったのであった。
やがて、十七歳になったフランケンシュタインは、敬愛する母の死を経験した後、インゴルシュタットの大学の学生となった。彼の化学に対する興味の主要な基礎は、昔の練達者が求めた不滅と力、際涯のない華麗な空想であった。いつしか、彼の魂は「未知の力を探検し、創造の最奥の神秘を世界に明らかにしよう」と叫んでいた。
時は経ち、彼はインゴルシュタットのどの教授の講義にも劣らず、自然哲学の理論と実践に熟達するようになった。とくに彼の注意をひいたのは人体の構造、生命を与えられたあらゆる動物の構造であった。彼は超自然的な熱心に燃えて、生命の原因を検討した。そして、日に夜をついだ信じられないほどの骨折りと疲労の後、ついに生殖と生命の原因を発見することに成功し、無生物に生命を与えることが可能にまでになった。彼は己の本質が許す以上に偉くなることを志し、知識獲得の危険な側面に陥っていくのであった。彼の知識の追求は彼自身の愛情を弱め、破壊する傾向があり、人間の心に適合していなかった。その結果、彼は生と死の理念の限界を突破し、被造物でありながら創造者の力を得てしまったのであった。しかし、彼はいかなる父親にも勝って、己が創り出した新しい種から感謝を受ける資格がつくだろうと考えるのであった・・・。
あるものさびしい夜に、彼は己の労作の完成を見た。彼は命のないからだに生命をうえつけるという唯一の目的のためにそれまで激しく働き、抑制し得ない熱情をもってその完成を願ってきたのだが、いざ完成してみると、夢の美しさは消えてなくなり、息もつけない恐怖と嫌悪が彼の心におそってきた。長い間、食物であり快適な休息であった彼の夢が、その瞬間、地獄になってしまったのである。かくして、彼によって悲しくも生命を与えられた死骸のような怪物が誕生したのであった。手をさしのばして、彼をつかまえようとする怪物、彼の創り出した子をふりきって、彼はその場から逃げ出すのであった。
打ちのめされていたた彼は、偶然、幼い頃からのかけがえのない心友クレルヴァルに再会し、愛しいエリザベートからの手紙を読んで、束の間の幸福で平静な時を取り戻したのであるが、そんな矢先、父親から弟ウイリヤムの死を知らせる不幸な手紙が届いた。しかも、弟ウイリヤムは何者かによって殺されたのであった。故郷への憂鬱な帰途、彼はかつて己が創り出した怪物の姿を見て、それが弟ウイリヤムを殺した悪魔に違いないと直観し、確信した。彼の心は再び絶望的な孤独と苦悩の世界に落ち込んでいくのであった。さらに不幸なことには、彼の家のかけがえのない召使いジュスティヌがウイリヤム殺しの冤罪のために処刑されてしまったのであった。彼は己の苦しみから転じてエリザベートの深い悲嘆、父の苦悩、最近まで笑いに満ちていた家庭のわびしさを考え、己への嫌悪と罪悪感で気も狂わんばかりであった。「みんな、私の呪われた手のしわざなのだ!」と・・。
彼はおのれの悲哀を忘れるべく壮大で永遠なアルプスの谷間を逍遥した。そして、それまで悲しみに満ちていた心は歓喜にも似た感じでふくらみ、彼は叫ぶのであった。「さまよえる魂よ、もしまことに汝がさまよっていて、汝の狭い床に休んでいないとしても、私にこのかすかな幸福を許せ、さもなくば私を汝の仲間と同じく、この人生の歓喜から奪い去れ」と。その時、突然、彼が創造した怪物が彼の前に姿を現した。怪物の顔は軽蔑と悪意とを交えた激しい苦悶を表した恐ろしいものであったが、彼は激しい憎悪をもって嫌悪と侮蔑のことばをあびせかけた。「悪魔め、私はきさまの存在を抹殺して、復讐することができるのだ!」彼は激しい敵愾心をもって、己の創った怪物に飛びかかるのだが、怪物はそれをかわして、創造者フランケンシュタインに言うのであった。「おれに対するおまえの義務を果たせ」と。さらに、「おれは罪もないのに歓喜から追い出された堕落天使のようなもの。おれはもともと慈悲心があり善良だったのに、困苦がおれを悪魔にした。おれを幸福にしてくれれば、生涯の主人であり王であるおまえにおとなしく服従するつもりだ」と己の理不尽な境遇を嘆き、創造者である人間の正義をなじるのであった。フランケンシュタインはこの時はじめて、創造者の被造者に対する義務なるものを感じ、その悪を責める前に幸福にしてやらねばならぬことを感じるのであった。
怪物はそれまでの身の上話を創造者であるフランケンシュタインに話して聞かせた。存在のはじまりが人間と同じようにとてもやさしい感じであったこと、人間をつぶさに観察して、そこから多くのことを学び得たこと、それにつれて自らの呪われた境遇を知り、とてつもない孤独にさいなまれたこと、やがては己を受け入れない創造者を呪い、人間そのものまで哀れむようになってしまったこと・・・フランケンシュタインは怪物の言うことにもいくぶん正義があることを感じ、動かされたのであった。彼は、怪物が孤独から脱するために要求した相棒の女---もう一つの怪物を創ることをついに承諾したのであった。
それからのフランケンシュタインは、さらに、あらゆる歓喜への通路をしめきる呪いにつきまとわれたみじめな人間であった。彼は彼と人間同胞との間に超えがたい障壁を認め、その原因になった出来事を思うと彼の魂は苦闘に満たされるのであった。そんな時、美しくすばらしい観念と想像に満ちている心、その存在を創造者の生命に託している心をもったクレルヴァルやエリザベートが、彼にとっての慰めなのであった。
彼は怪物との恐ろしい約束を果たすためにイギリスに渡るのだが、やがて己が想像した者の詭弁に動かされ、それによって悪魔の一族を地上に繁殖させ、人間の存在そのものをあやふやな恐怖に満ちた状態にしてしまうことを考えて戦慄し、怪物との約束を破棄するに至るのであった。彼が最初に創った怪物のようなものをもう一つ創ることは、もっとも卑劣なもっともひどい利己の行動であると心に決めたのである。そして、悪魔のような絶望と復讐の叫びをあげる怪物を嫌悪と軽侮によって突き放すのであった。
やがて、創造者に見捨てられた怪物の恐ろしい復讐が始まった。心友のクレルヴァルが殺され、おまけにフランケンシュタインはクレルヴァル殺しの嫌疑をかけられた。何とか無罪が証明されて帰郷できた後も彼の狂乱状態は深刻になるばかりであった。もはや自らを有罪者であると信じて疑わない彼に平和はないのであった。
そんな折り、彼はかねてから愛と歓喜の源であったエリザベートと結婚することになった。しかし、結婚式の夜にそのエリザベートも、忌まわしい怪物の手によって予告通り殺されてしまうのであった。彼の身内は一人また一人と、みんな怪物によってもぎとられてしまい、ついには彼は一人ぽっちにされてしまった。彼自身の力は消え尽くしてしまったかのようであった。「己の愛の喜びは許されないのに、その創造者だけがその幸福を得てよいものか!?」こんな怪物の屈折した苦悩がもたらした悲劇に彼は狂わんばかりの怒りに燃え立ち、怪物をとらえて、その頭上に一大復讐を加えるべく熱心に希求し、祈願するのであった。
かくして命とともに終わるべき彼の復讐の放浪が始まった。超人間的な速度で逃げてゆく怪物はなおも挑発して彼を奮い立たせた。しかし、彼が怪物に追いつく後一歩のところで、風が出て、海が荒、地震のような強い衝撃で氷が割れて、彼とその敵である怪物との間に荒海が入り込んできてしまった。彼は死の準備をしながら、氷の一片の上に取り残されて漂流していた、まさにその時、ウォルトンの船に救出されたのであった。
場面は再び、ウォルトンの姉に宛てた手紙に戻る。ウォルトンの船は氷の山に取りまかれていて、今やいつ押しつぶされるか分からない状態にあった。乗組員はもう何人か死んでしまい、フランケンシュタインは日毎に衰弱していった。そんな時、五、六人の水夫が船室に入ってきて、これ以上の北極遠征を中止するようウォルトンに強く要請した。すると、フランケンシュタインが弱った身をもたげて彼らに言うのであった。「目的をしっかりつかまえて、岩のようにしっかりしろ。氷はどうにでも変わる、君らの決意に逆らうことはできない。戦い征服した英雄として帰りたまえ」と。そしてフランケンシュタインは死の淵に瀕しながら、己の未完成の仕事---みじめな被造物を創造主自らの手でやっつける仕事を引き受けてもらうようウォルトンに要求するのであった。しかし、達観して、こうも言うのであった。「ウォルトン!平静のうちに幸福を求め、大望は捨てなさい」と。「しかし何故私はこんなことをいうのでしょう?私自身はこういう希望を失ったけれども、他の人は成功するかもしれないのに・・・」その声はだんだん弱くなり、フランケンシュタインの精神は永久に消滅したのであった。
ウォルトンの前に怪物が現れたのはそれからであった。ウォルトンが責めると、自らの創造者であるフランケンシュタインを前に、この怪物は叫ぶのであった。「フランケンシュタイン!あんたのおれに対する復讐心は、おれが自分で感じている復讐心より強くはないんだ」「あんたはなきものにされたが、おれの苦悶はまだあんたの苦悶に勝るものであった」と。そして、「おれの存在のつらなりを完結し、せねばならぬことを完成するには、あんたやほかの人間の死が入用なんじゃなくて、『おれ自身の死』が必要なんだ」と。
この犠牲を果たすために怪物は船室の窓から飛び降りて、暗闇の中に消えていくのであった。それは、絶望の過剰に反抗するために、すべての感情を投げ捨て、すべての苦悶を押さえつけて、自らの本性のうちに悪を善としたとした哀しい怪物の精神的精算、魂の昇華であった・・・。
著者のメッセージ
(著者は何を言おうとしたのか)
著者メアリー・シェリーの生涯から考えて・・・
著者のメアリー・ウルストンクラフト・シェリーは1797年にロンドンで生まれた。父親ウィリアム・ゴドウィンは急進的革命思想家であり、文学者であった。彼は18世紀啓蒙主義の流れに与する根っからの合理主義者・理性万能主義者であり、英国のインテリ急進派の旗頭的人物であった。
一方、母親のメアリー・ウルストンクラフトは「女権の擁護」の著者として知られ、近代女権運動の鼻祖ともいうべき女傑であった。また、彼女は情熱的な恋に身を燃やすタイプの女性で画家ヘンリー・フュスリと不倫関係に陥ったり、アメリカ人と同棲してファニーという娘までもうけたりしたという。
こうした著名な文人を父母に持つメアリー・シェリーであるから、彼女の処女作である、この「フランケンシュタイン」に両親の多大な影響がみられるのはいうまでもない。父親ゴドウィンの著作「ケレイブ・ウィリアムス」からは主人と従者、追う者と追われる者の関係、そして悪は社会や環境によって生まれるといった思想が、同じくゴドウィンの著作「聖レオン」からは科学的真理を追求するあまり身内の者を死に至らしめるマッド・サイエンティストの精神が見事に受け継がれているものと考えられる。
また、母親のメアリー・ウルストンクラフトの「女権の擁護」からは教育理論の影響を受けているという。解説によれば、この「フランケンシュタイン」は、ある意味では怪物を主人公とした教養小説なのだそうだ。さらに、その背景にはルソーの「エミール」があるという。「エミール」の教育法は自然に従い、人為的な努力を排斥、児童の本性を尊重するものであるが、確かに、主人公フランケンシュタインの幼年期からの学習環境に皮肉に反映されているような気がするのである。
ところが、メアリー・シェリーが誕生して、わずか十日後に母親のメアリー・ウルストンクラフトが産後の肥立ちが悪くて、この世を去る。これが、メアリーのトラウマとなり、母親を殺したのは自分だと悩み続けることになったという。その結果、そのトラウマは「フランケンシュタイン」における被創造者の創造者殺しのテーマ、出産にまつわる不安と恐怖の隠喩、あるいは自己のアイデンティティ探索として表象されることになった。
その後、メアリーは継母に苛められ、父親にも相手されず孤独で愛情に飢えた少女時代を送った。「フランケンシュタイン」の主要登場人物ウォルトン、ヴィクトル、そして怪物がみな一様に孤独に苛まれているのは、作者の暗い少女時代の思い出が反映されているためと考えられる。
やがて、メアリーは父を中心とした急進派のサークルでパーシー・シェリーと出会う。シェリーは当時22歳の無名詩人で、しかもすでに結婚していたが、彼とメアリーは駆け落ち同然の形で大陸に旅立ち、ふたりの間には長女と長男が誕生した。生まれてくる子供は当然私生児であり、解説によれば、怪物の私生児であることの不安と悲劇には、我が子と異父姉ファニーの影がつきまとっているそうだ。
長男ウィリアムが生まれた1816年、メアリーはジュネーブはレマン湖畔のディオダティ荘へ知的刺激に満ちた避暑に出掛ける。そのディオダティ荘には、毎晩のようにかの有名な放蕩児バイロンが彼の侍医ポリドリを引き連れてやってきたという。これはメアリー(18)、シェリー(23)、バイロン(28)、ポリドリ(21)の若い文学サークルの集まりであった。加えて、メアリーの継母の連れ子のひとりクレアが単なるミーハーで、そこにいたという。クレアはその時バイロンの種を胎内に宿していた。
ディオダティ荘に集まった5人の若者達の関係は以下の通りであった。
奇妙な関係にあった5人の若者達であるが、メアリーは自分自身にフランケンシュタインを、シェリーに親友のクレルヴァルを、新しく友情を深めるようになったポリドリにウォルトンを、そして愛するシェリーの心を奪いかねないバイロンやクレアに、あの怪物の姿を見い出したのだろうか。いや、ひょっとしたら、この怪物こそがメアリー自身だったのではないだろうか・・・。そして、作品中に登場するエリザベートは、まさにこの複雑な愛憎関係に苦悶するメアリー自身の「女心」の悲哀の化身だったのではないだろうか。
すなわち、メアリーは己の内において、孤独な精神的葛藤に立ち向かう勇敢な「男性的部分」をフランケンシュタインに求め、揺れ動く己の弱さ、だからこそ得られるやさしい慰めの「女性的部分」をエリザベートに求めたのである。これらメアリーの心の内にある「男」と「女」が結ばれ得ぬ哀しい事実が作品の悲劇にも表象され、ここに人間の宿命的な自己矛盾、そして、そのはかなさを垣間見ることができる。
また、作品中、死に瀕したフランケンシュタインがウォルトンに北極到達への英雄的試みを賞賛しながらも、最期に平静のうちに幸福を求め、大望を捨てよと諭すくだりは、まさにメアリー自身の内なる男と女の永遠の決別を意味し、この世における人間の不条理的存在に対する諦観が感じられる。そして、この「メアリー自身の内なる男と女」の間に生まれた鬼っ子、己の完結され得ぬアイデンティティから咲いた徒花として、あの怪物が登場するのである。この怪物に「おれの存在のつらなりを完結し、せねばならぬことを完成するには、おれ自身の死が必要なんだ!」と叫ばせ、自らの手で死を選ばせることで、著者メアリーの魂の熱情はここに極まり、高次なものへと昇華していくのである・・・。
私は、著者メアリーは自分自身のために、この「フランケンシュタイン」を書き、結果、人間の不条理的存在の悲哀を無に帰せしめ、永遠に意義あるものとする物語が出来上がったのだと考える。人間には本質的にアイデンティティなどなく、その本質を超えてアイデンティティを見い出そうとすれば、この作品に出てくるような哀しい怪物が出来上がってしまうのである。本質的に存在してはならぬ怪物はどこか人間にも似ていて、とても哀しい。人間もこの怪物のように己のアイデンティティを無に帰せしめた時にはじめて、「存在のつらなり」における自己が完結するものなのだろうか・・・。著者の内なるつぶやきが私に聞こえてくるような気がするのである。
ジュネーブでの避暑からロンドンに戻ったメアリーには、悲しい事件が待ち受けていた。ひとつは異父姉であるファニーの自殺であり、もうひとつはメアリーが絶えず良心の呵責を感じ、また同情していたシェリーの正妻ハリエットの自殺であった。しかし、その結果、メアリーとシェリーは晴れて正式に夫婦となることができたのであった。
メアリーは多くの子供を産んだが、結局無事成人したのは、ただのひとりだけであった。メアリーの、我が子の誕生にまつわる多くの生と死が「出産の悲劇の隠喩」として、作品中に科学者と怪物=創造者と被創造者として現れ、さらに解説によれば「作者とその作品」の関係にも当てはめられ得るという。
その後もメアリーの親しい者の死は絶えず、彼女は25歳の若さで未亡人になってしまう。しかし、それからも再婚せずに、短編や長編を書いて、女手ひとつで一人息子を育て、1851年に54歳で亡くなったそうだ。
短編や長編を書き続けることによって彼女の「出産の悲劇の隠喩」は繰り返されたかもしれないが、一人息子が無事育つことで、彼女自身の「出産の悲劇」は精算され、メアリーの心の内にある「男」と「女」も真の意味で結ばれ得たといえるのではないだろうか。波瀾万丈の生涯を送ったメアリーにとって、この事実は清らかなレクイエムであったに違いない。
私の見解
解説によれば、今や最も凡庸になってしまった「フランケンシュタイン」の解釈として、「心理学的読み」と「科学的読み」のふたつがあるそうだ。確かに、科学的真理を探求するあまり、「パンドラの箱」を開けてしまったマッド・サイエンティストの悲劇、「知の探求者ファウスト伝説の近代版」として読むのも大いに意義があると思う。しかし、私はあえて「心理学的読み」をしたい。もっと言うならば、「哲学的読み」をしたい。「心理学的読み」も「科学的読み」もいわば前景を解釈するものに過ぎず、この作品の背景には、もっと高次な問題-----破滅的な危機へと自ら陥っていってしまう人間の普遍的なサガのようなもの、そして、その結末における人間精神の絶対性への変容が取り扱われているような気がするからである。
ところで、この「フランケンシュタイン」は実に多くの作品の影響を受けている。ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」における人妻ロッテを愛慕する純粋無垢な青年ヴェルテルの死は、自己完結を追求した怪物の悲哀と相通ずるものがあるし、同じくゲーテの「ファウスト」において、悪魔メフィストテレスの力をかりて至高の存在にならんと欲するファウストはフランケンシュタインの生き様にも似ていて、また、ある意味で彼が創り出した怪物にも例えられ得るであろう。
この「ファウスト」において、「人間なんて一生涯盲目同然」と憂いに目の光を吹き消されたファウストは、「夜がしだいに深くふけてゆくらしい。しかし心の奥に明るい光が輝く」と言い、やがては大きな幸福の予感に満たされながら、心の底から死の瞬間に向かって呼びかけるのである。「止まってくれ、お前は実に美しい!」と・・・。
これら主人公の死は、みなそれによって、彼らの本質をより高次なものに展開させるためのものであり、己の本質を追究するあまり、破滅へと加速する彼らの人間精神の昇華であると私は考える。フランケンシュタインも、そして彼が創り出した怪物も究極的には己の死を平静なる幸福のうちに自ら受け入れることによって、己のいわゆる「原罪(original sin)」を無に帰せしめたのではないだろうか。彼らの苦悩は人間ならば誰もが生まれながらにもっている潜在的な罪悪感と善良なる理性の葛藤を象徴するものであると私は考えるのである。
さらに、もうひとつ、この「フランケンシュタイン」に多大な影響を与えた作品を忘れることはできない。ミルトンの「失楽園」である。この作品は「さらに大いなる神の栄光のために」という、ミルトンの一生を貫く清教徒の精神が荘厳な詩調の中に表現されたものであるが、原罪より救いへ至る人間の苦悩の道筋を照らし出している点で不朽の名作と言われている。
この「失楽園」によれば、天上界においてサタンは心身ともにすぐれ、数万の天使を統率する大天使であったが、ある日、神がキリストを天使達に示し、これを崇めるようにいったのに不満をもち、神に対して戦いを企てる。しかし、当然ながら神の力にかなうはずもなく、サタンとその一味はついに地獄に堕ちてしまう。サタンは悪知恵を発揮して地獄の門を通過して蛇となり、エデンの園に住む、神によって創られた罪を知らぬアダムとイヴを誘惑する。彼らがサタンの誘惑に負けた途端、天地が激しく鳴動し、罪と死がエデンの楽園にのりこむ。アダムとイヴは楽園を追放されるが、神の遣わした天使ミカエルによって、神の恩寵の全てを知らされ、感激しつつ手を取り合って楽園を遠ざかっていくのである。
「失楽園」におけるサタンは、「フランケンシュタイン」における怪物に比すこともできるが、私は神によって創られたアダムとイヴこそ「フランケンシュタイン」における怪物の原型であると考える。その創造者であるフランケンシュタインはさしずめ神になり損なって、結果、その被造物に罪と死を強いることになったサタンとでもいうべきか。しかし、このサタンなるフランケンシュタインも原罪の苦悩を背負ってしまった哀れな「被造物」であり、「大いなる神の栄光」のもとに救いを求めるアダムとイヴなのではないだろうか。この意味でフランケンシュタインは真の創造者、プロメテウスなどではなく、所詮は哀れな被造物、己の創った怪物と全く同じ存在であると私は考えるのである。
結局、フランケンシュタインも彼の創った怪物も、善良なる理性をもったばかりに、その理性が究極において志向する「神」に近づき過ぎてしまったのだと私は考える。人間の本質を超えて、その愚かなることを知った時、すなわち、それは初めて己の内なる原罪を顕在的に認識する時であり、必然的に魂は苦悶し、破滅への道を突き進まざるを得ないのである。
かの有名なダンテの「神曲」において、「人間理性」の象徴たるウェルギリウスの手引きによって地獄および煉獄めぐりが展開されるが、フランケンシュタインや彼の創った怪物が辿った破滅への道、言い換えれば、苦悩に身を焦がした自己完結への道はまさにこれにあたり、その死によって初めて、「神曲」でいうところの「魂の愛と清浄と」の象徴たる、ベアトリーチェの手引きによる至高天到達が実現したといえるのである。ここに彼らの苦悩は消え、その魂が真の創造者と一体化することになり、彼らのあやふやなアイデンティティはようやく絶対的なものに変容したのだと私は考えるのである。
フランケンシュタインと彼の創った怪物が辿った苦悩の道、人間誰もが無意識に進まざるを得ない破滅への道の果てに、創造者=神に対する被造物=人間の存在の絶対性が出現するのである。それは、まさに神と人間との熾烈な闘争の後の永遠なる静寂といえよう。
「生の世界において苦悩する被造物=人間」の象徴であったフランケンシュタインも、また彼の創った怪物も、結果的には創造者=神に敗北したといえよう。しかし、彼らのすさまじいばかりの精神的闘争とその穏やかなる敗北=死は、被造物である人間と創造者たる「神」との極めて道理的な関係を意味し、同時にそれが神への敗北ではあっても、生の世界における宿命的な敵=自己への勝利、絶対性を確立した人間精神の完全なる勝利なのだと私は考えるのである。
(かわはらなおと)
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