新しいイメージの必要性 (私訳版)


the English original version (Rihito Kimura, World Health Forum, Vol. 18., No. 2., 1997) is now coming up here......
The following content is just my Japanese translation.
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健康のイメージの必要性
(全文訳)

(原文資料はこちらをご覧下さい)

 「西暦2000年までに全ての人々に健康を」は夢や理想だけではなく、世界中の多くの国々に認められている具体的な基本方針です。しかしながら、私たちの様々な文化遺産において、人間のニーズと幸福の一つの根本的な要素である健康の象徴的な目に見えるイメージをもつことは全く自然であり、必要でさえあるのです。

伝統的なイメージ

 最もよく知られている健康教育の教科書の一つである『養生訓 (すこやかに生きることの教え)』は、日本の医者であり、儒学者である貝原益軒によって著され、1713年に出版されました。この本は、如何に健康的な生活を送るかについてのその独自のアドバイスのために今だに多くの日本人に読まれています。貝原は働き過ぎないこと、食べ過ぎないこと、よく眠って適量の運動をすることが人の健康のために良いと言いました。この教えにおいて、健康とは生涯にわたって絶え間なく健康的な生活を送るための努力をした結果、もたらされるものなのです。ここでは健康は強さや素早さ、体力としてではなく、適度で統合されたライフスタイルとしてみなされていることに注意するのが重要です。如何に精神の調和を為し得るのかについて詳しく述べれば、身体と心は儒教倫理から派生した、伝統的な中国と日本の当時の医学的見識に基づくものなのです。

"長く健康的な人生はそれだけで価値あるものであり、生産性の問題は、たとえそれが重要であったとしても、お年寄りを敬うという基本的な倫理観念には関係のないものなのです。"

 目に見えるイメージは伝統的な文化活動の一つの強力な源です。日本において、私たちの幸福なイメージの一つは、家族に囲まれて敬われる健康なお年寄りの姿です。これは1966年、年一度「敬老の日」として9月15日に制定されることになりました。日本において、長く生きることは健康的な日々の暮らしの大変肯定的な所産としてみなされ、お年寄りたちは社会への貢献のみならず、その長生きについても尊敬されるのです。長く健康的な人生はそれだけで価値あるものであり、生産性の問題は、たとえそれが重要であったとしても、お年寄りを敬うという基本的な倫理観念には関係のないものなのです。

誰の健康のイメージか?

 日本の近代化の時期を通して、明治政府の政治的スローガンは「富国強兵 (豊かな国、強い軍隊)」でした。そのイメージは強くて健康的な兵隊たちのものでした。政府は積極的に免疫性を与え、疾病を予防し、健康を促進することを支持しましたが、健康のイメージの普及は国家による適用や制御によって始められました。勿論、首尾一貫してよく協調された健康政策が望ましいのですが、強制された活動を伴う健康は、倫理的に問題があります。ラジオの「体操の時間」は日本で1920年代から一般的でしたが、もし、それが小学校の子どもたち、あるいは働いている人々にさえ休憩時間の間に押し付けるものであったならば - それは依然として国の多くの所で行われていますが -、健康それ自体が、歓迎されない拘束としてみなされるようになり得るのです。

新しい健康のイメージの創造

 健康であるということは、基本的な人間の権利です。国家はその国民の健康と福利を支持する責任をもっていますが、健康はまた個人の選択と自由について重大なものであるということを忘れないことが肝要です。健康のイメージは人によって異なり、例えば不治の病に罹っている人々は物事を、そうではない人々とは違ったように見る傾向にあります。「全ての人々に健康を」という肯定的な概念は健康に問題のある人々に向けて差別するイメージを創り出すべきものではありません。健康の妥当なるイメージは、それぞれの社会的背景における個々人の見解を通したもの以外は、組織や権力によって創られ得るものではないのです。健康の意味と価値は、決定する各個人のためのものですが、私たちは共有されたイメージをもまた必要とし、世界共同体の一員として21世紀のための「全ての人々に健康を」という新しいイメージを必要としているのです。健康のイメージとは、コミュニケーションと協力の非常に重要で強力な手段であり、私たちがより健康な世界を築き上げるのに役立ち得るものなのです。

 もし、私が禅の仏教者で健康のイメージを描くように求められたならば、大きな筆をとって他者と一体となった一人の人間として、その身体と心における世界、全体、調和、そして希望を表す虹色の「大きな丸」を描くでしょう。そして私が想像するには、この虹色の丸を間近で見れば、それが世界中の人々 - 女性たちと男性たち、少女たちと少年たち、若者たちとお年寄りたち、健康な人たちと寝たきりの人たち、笑っている人たちと浮かない顔をした人たち 、そして、家や工場、学校、病院、診療所、難民キャンプ、オフィス、街や郊外、田園といった世界中のあらゆる場所における世界共同体の一員としての人々の何百というイメージによって成り立っていることが分かるでしょう。

 私たちの文化的多様性と21世紀の地球人ファミリーの様々な伝統において、互いに共有し、いたわり合う新しい倫理観を育むため、全ての人々の健康のための新しい方策が、こうした目に見えるアプローチのようなものを明らかに必要としているのだと私は信じているのです。

健康のイメージについての私の見解

 健康を実際にイメージすることは意外に難しいものです。2年前のある日、ゼミの時間が終わりに近づいた時、木村利人先生がWHOの「2000年までに全ての人々に健康を」の標語について説明されました。その後すぐに、「さあ、それについての皆さんのイメージを絵に描いて下さい」と言われて、私たち学生一人一人に紙を配られました。
 突然の事でしたので、私たちゼミの学生たちは少々とまどってしまったのを今も覚えています。その時、確か私は擬人化された地球が微笑んでいる顔を描いたのですが、今になって改めて、このテーマを考えれば、その微笑みは様々な表情をする地球の最も理想的な顔だったのかと思います。
 ここで登場する健康という言葉は今日、広く普及し使用されていますが、最も一般的な定義としてWHO憲章の前文に書かれているものが挙げられます。そこには「健康とは身体的、精神的および社会的に完全に良好な状態であり、単に病気や病弱でないことをいうものではない (Health is a state of complete physical, mental and social wellbeing and not merely the absence of disease or infirmity.)」と記されています。
 これから考えても健康は、医療のように、その国や土地の歴史と文化、そして何よりもそこに集う人々によって様々な定義を生み出し得る概念であり、極めて複合的な体系なのだと再認識させられます。従って、健康とは決して一律に、また一方向的に強制されるべきものではなく、あくまでも各人が日常の適切な暮らしから、「自発的に」生み出していくべき「人間の在り方」なのだと考えられるのです。
 現在、我が国において社会福祉や社会保障、公衆衛生の向上増進を任務とする厚生省も、かつては社会問題の解決よりも戦力向上のための体位増進・労働力の保持に専念した不幸な時期がありました。これは、富国強兵の大義のもとに国家が誤って健康という概念を捉え、結果的に、その目的となる国民一人一人はもとより、国家自らの「健康」をも損ねてしまった典型的な例であると言えます。こうした歴史的背景において、国民の健康と福利を司るべき中央行政機関である厚生省が、「軍による壮丁の体位低下と結核の蔓延に対する恐れ」が直接の契機となって設立されたものであることは史実の皮肉と言わざるを得ません。
 しかし、その「厚生」という名称は、中国古伝説上の夏の聖王にして洪範九疇を定めたとされる禹の「正徳利用厚生惟れ和せよ (第一に民の道徳を正し、第二に民の力も財も有利に用いる。第三に民の生活を豊かにする。この三者を調和させよ)」の一節から生まれた語であり、「人民の生活を豊かにすること」ひいては「健康を維持または増進して、生活を豊かにすること」を意味するものとされています (なお、厚生省の名称はこの度、「厚生労働省」に変更されることになったそうですが、それでも「厚生」という語句が残ったのにはやはり深い訳があるのですね)。
 厚生省設置にまつわる直接の社会的動機は明らかに国家主義的な暗い影を落としていたものと言えますが、歴史を超えて現存している我が国の厚生省の名称には、少なくとも一定の倫理観がこめられていたことは確かです。しかし、このエピソードは同時に、目的がいくら立派でも、その手段を誤れば全ては水泡に帰してしまいかねない「健康」の難しさを教えるものでもあり、個人と集団の関係についての慎重で深謀遠慮な態度が、健康を全体として把握する際に必要不可欠であると改めて痛感させられます。
 こうした我が国の健康政策を振り返れば、それは必ずしも国民の自発的な健康を促すものであったとは言えないかもしれません。しかし、今はまさに世界の大半が民主的な国家となりつつあり、それら国家の枠組みをも超えた「世界共同体」における人間主体の時代が到来しつつあります。この時代的背景において、私たちが在るべき姿とはまさに、単なる生産の原動力としての健康ではなく、「人間」本来の意味でもある自己と他者の関わりを一層健康なものにしていく健康であると考えられるでしょう。
 このような発想から、私たち一人一人が健康なる人間の在り方を考え、それに向かって自発的に取り組んでいけば、やがて世界の「健康」、すなわち私が2年前にゼミの時間、紙に描いた地球の微笑みを実感できる世の中になれるのだと思います。
 しかし、今もなお、不幸にも民族紛争に揺れ、国民はおろか国家全体までもが戦争という「不健康」に苦しんでいるという厳然たる事実があります。国家、ひいては世界を構成するのは当然、人間そのものですが、その人間を存在せしめるものこそ、この世界だと私は考えています。人間と世界、そのどちらかが健康でないならば、そこに真の健康な状態というものはないと考えられます。健康という概念が、人間は勿論のこと、それをもふまえた世界の平和を表す指標になることを願ってやみません。(終)

*上記の文章はあくまでも私自身の日本語訳および見解ですが、実際の英語原文は木村利人教授のもの (Rihito Kimura, World Health Forum, Vol. 18., No. 2., 1997) です。

(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


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