トルストイ著
「イワン・イリッチの死」について


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アウトライン

 舞台は、主人公 イワン・イリッチの死のニュースから始まる。彼は45歳で中央裁判所の判事として死んだのだが、その訃報を知った知人たちが第一番に考えたのは、その死のために生ずる自分たちの勤務上の異動や変化だけであった。現に健康体のまま生きている彼らにとって、 イワン・イリッチの死はあくまで自分自身とは関わりのないものであり、そればかりか死そのものさえ、 イワン・イリッチ特有の変事で自分自身には起こり得ないものと考えたのである。
  イワン・イリッチの親友ピョートル・ イワーノヴィッチも例外ではなかったが、彼は敏感にも、棺に横たわる イワン・イリッチの死の表情に、生きている者に対する非難や注意のようなものを感じた。しかし、その注意の色がこの「生」の世界には不似合いなもの、不快なものとさえ思ってしまうのである。やがて彼は、ひと時考えた死に対する陰鬱で恐ろしい想像を振り払うように、快い現実の世界−友人たちとカードの勝負をしたりして愉快に楽しむ世界−に舞い戻っていくのであった・・・。
 さて、このイワン・イリッチという男は生前、官界における栄達と、快い私的生活の充実のみに生の意義目的を認め、自分自身を取り巻く他人全てに対して「一定の態度」を作り上げることに執心した人物であった。すなわち、それは世間によって決められている上品な外部的形式でなければならず、彼にとっての人生を成功に至らしめる唯一の手段、処世術であった。
 また、彼は社交的な好人物であり、上流社会を上手に泳ぐ「申し分なく立派な」人間であった。情欲や虚栄に没頭することはあっても、正確な感情の指し示す一定の範囲を超えることはなかった。さらに、彼は世に最高の地位を占めている人々の所信を、とりもなおさず自分の義務と信じる人間であった。彼の人生観は全くもって、社会集団上で自らの自尊心と虚栄心を満たし、それに立脚した理想通りの快い上品さを追求することだけにあった。そして、この姿勢は妻をはじめ家族に対しても例外ではなかった。
 やがて年月が経ち、彼が心に描いていた理想が近づいてきた。勤務上の成功、夫婦生活の諧和によって引き起こされた、かつてないほどの愉快な気持ち、そして、もうすぐ眩いばかりの新しい住居が出来上がる・・・何もかも申し分なくうまく行って、彼は心からその成功に満足しきっていた。全てはある一定の階級に属する人々に似通わせるためのものに過ぎなかったのだが、彼の目には何か特殊のようなものに映って、大いに機嫌が良くなるのであった。
 そんな折り、彼は梯子から足を踏み外して下へ落ち、ちょっと左の横腹を窓の取っ手に打ちつける。しかし、その痛みもすぐに癒えて、全ては何の変化もなく、もとのままに流れて行き、何もかもいたって結構ずくめなのであった。
 しかし、次第に彼は自分の体に異常を感じるようになる。時にふれて口中に妙な味覚がしたり、左の脇腹に重苦しさが感じられて機嫌の悪いことが多くなるようになる。やがて、それは度を増して、 イワン・イリッチの家庭に固定していた愉快な、軽い、上品な生活気分を損なうまでに至る。軽い愉しい生活気分が失せ果て、ただ僅かに体裁を保っているに過ぎない状態になってしまったのである。
 イワン・イリッチの妻であるプラスコーヴィヤ・フョードロヴナは夫が堪らない気むずかしやで、自分の生活はめちゃめちゃにされたと決めてしまうと、自分で自分を憐れみはじめるようになる。憐れめば憐れむほど、彼女は夫が憎くなり、やがては夫の死を願いはじめるようになるのであった。しかし、それは「俸給が入らなくなるため」に願い得られないことであり、彼女はいよいよ憎しみのためにいらいらするのであった。
 「夫の死さえ自分を救うことができないのか」彼女はそう考えて、自分をひどく不幸なものに感じ、いらいらしながらも、それを隠そうとした。さらに事態を悪くさせることには、苛立ちを隠すこの妻の様子が夫 イワン・イリッチの癇癪をさらに一層募らせるのであった。そして、皮肉にも今度は妻の方が、彼とその病気に対して「一定の態度」を作り上げ、彼の言ったりすることには一切頓着なしにその態度を固守するのであった。
 やがて、 イワン・イリッチは医者はもちろんのこと、勤務先の裁判所でも、唯一本当の愉しみであるカード勝負の仲間からも、自分に対して同じく奇妙な態度を示されるのに気付くようになる。そして、彼らの生き生きとした上品で快いはずの態度に苛立ちを覚えるようになっていくのである 。本心は、病気の子供でも憐れむような具合に誰かから憐れんでもらいたいのだが、それらはみな、かつて イワン・イリッチ自身が周囲に要求した態度なのである。彼が生涯奉仕してきた「礼儀」に起因するものなのである。彼の周囲と内部におけるこの虚偽が、何よりも強く イワン・イリッチを責め立てるのであった。
 イワン・イリッチは強烈な孤独感と絶望感、そして自己嫌悪感に浸りながら、迫り来る死を漠然と意識する拷問のような日々を送って行った。そして、次第に「おれの生き方は道にはずれていたのかもしれない」と考えるようになり、すっかり新しい目で自分の全生涯を見直し始めるのであった。
 やがて、 イワン・イリッチは自分自身、ひいては自分の生活を形づくっていたもの全てが間違っていて、生死を蔽う恐ろしい大がかりな欺瞞、からくりであることを、はっきり見てとる。
  死の淵に瀕しながら、なおも「生の肯定」が彼を捕らえて苦しめるのだが、いよいよ人生の終焉を迎える時、「そうだ、なにもかも間違っていた」と悟り、本当のこと、間違っていないことは何か彼は自問し始める。そして、枕元にいる妻子を心から可哀想に思い、彼らをこの苦しみから救い、自分も逃れなければならないと思ったとき、ついに「なんていい気持ちだ、そして、なんという造作のないことだ」という諦観に達する。ここにきて、 イワン・イリッチ自身に「死」はなくなり、代わりに光が現れるのである。
 「死はおしまいだ」
 「死はなくなったのだ」
 彼は喜びのうちに、そのまま死んでしまうのであった・・・。

著者のメッセージ
(著者は何を言おうとしたのか)

 解説によれば、著者トルストイは「アンナ・カレニーナ」完成の後、人生の根本的問題に関する深刻な苦悶と、それに続く宗教的更正を体験して、ほとんど十年間芸術創作の筆を断っていたが、新しい信仰が彼の心中に固定して、内部的平安が保証されるにつれて、再び生来の偉大な芸術的欲望が目覚め、活動を求め始めたという。かくして現れたのが、この「イワン・イリッチの死」なのだそうだ。彼は新しく確立した信仰の立場から、人生の普遍的テーマである「死」の真意義を啓示しようという意気で、この作品を書き上げたのである。
 確かに、作品中「死とは何だ?」と自問する主人公イワン・イリッチが、最期に「死」というものなど存在しないことに気付き、「死の代わりに光があった」と感動するシーンなどは、キリスト教的法悦を垣間見る思いである。トルストイは、キリスト教でいうところの「永遠のいのち」というものを、ここで表現したかったのではないだろうか。
 我々は「死」というものを絶えず潜在的に意識しながらも、虚構の社会通念の中で「生」を唯一絶対のもの、永遠不滅のものと自らに言い聞かせながら生きている。いわば「生の肯定」によって「死を否定」し、忘却しようとさえするのである。しかし、それは所詮は虚しい回避行為に過ぎず、生きとし生ける者全て、いずれは必ず「死」を顕在的に意識し、それと真っ向から対面する時が来る。その時、我々は想像を絶する「生」と「死」の葛藤を体験することになるのである。
 トルストイは、その葛藤を主人公イワン・イリッチに託して、読者である我々に問いかけている。絶対のものと信じていた己の肉体が今まさに滅びようとする時、人は絶望の谷にどこまでも落ちていってしまう哀しい存在なのか、それとも、そこに「何か」を見い出し得るのか?・・・トルストイはそう問いかけることによって、生と死の本質を我々に探らせようとするのである。
 主人公イワン・イリッチは己の肉体が滅びゆく「死」と対面して、まさに絶望の人であった。しかし、今まで自分を形づくっていた全てのもの、いわば虚構の「生」という概念を完全に否定し、「本当のこと」・・・真実の「生」を求め始めた時に希望に満ち溢れた人になるのである。トルストイは、ここに人生の終焉を迎える人間の精神の見事なまでの変容、生と死の真理獲得の様子を表現しようとしたのであろう。
 真実の生を求めたイワン・イリッチにとって「死」など、もうどうでもよいことであったにちがいない。今まで恐れていた「死」は所詮は虚構の生の延長線上であり、今まさに生と死の真理を獲得せんとするイワン・イリッチにとっては無意味なものであっただろう。そう、我々のとかく考えている「死」というものは、肉体が滅びるまでの束の間に考える虚なるものに過ぎず、その肉体が滅びる、いわゆる「死の瞬間」においては本当の意味で「死」は存在しない、すなわち「死」など存在し得ないという結論にイワン・イリッチは達したのである。
 そもそも「死」というものなど、虚構の生の世界に生きる我々が勝手に考えるものであって、実際にその瞬間を迎える人にとってはあってないようなものなのかもしれない。虚構の生の終焉である死の代わりに光があり、真実の生はそこから始まる・・・トルストイは主人公イワン・イリッチに託して、そう言いたかったのではないだろうか。ここにきて、この作品に「いのちの永遠性」が啓示され、トルストイの宗教的な人生観が窺えるのである。

私の見解

 この作品の主人公であるイワン・イリッチという男の人物像は、現代を生きる我々にも十分通用する、至極平凡で親しみ易いものである。そればかりか、時代を問わず、普遍的に存在し得る人間の象徴といえるかもしれない。
 イワン・イリッチがそうであったように我々も、ある一定の社会通念に従って一喜一憂しながら生きている。もっと厳密にいうならば、社会の中の自分、他人の中の自分ばかりを意識しながら生きている。時には他人ばかりを意識して、自分自身すら見失っているかもしれない。自分を取り巻いている全てのものが無くなったら・・・考えるだけでも恐ろしい。何故なら、自分自身の世界と他人の世界は、もはや共通のもの、混交されたものとなっているからである。自分を取り巻く他人の存在が無くなれば、自分自身も存在し得ないのである。人間がsocial animalといわれる所以である。
 このような社会の渦に飲み込まれながら人間は精一杯、その流れに乗り続けようとする。自分がどこから来て、どこに帰っていくのか考える気さえ起こさずに・・・。みんな一緒にこの世界にやって来て(つまり一緒に生まれて)、共に一生涯を送り、再びみんなと一緒に帰りましょう(つまり一緒に死ぬということ)。こんな錯覚に陥ってしまうところが、人間が造り上げた現実の社会なのである。
 我々はみんな、ひとりぼっちで生まれてきて、ひとりぼっちで死んでいく。いのちの始まりと終わりはいつだって、誰だってひとりぼっちなのである。今、この現実の世界を生きているということは、たまたま、ちょっとの間、一人で広場の雑踏の中を通過するだけのようなものかもしれない。しかし、その雑踏の中で出会った様々な人々、そして出来事などがあまりにも印象深くて、ずっとここに居ても良いような気がしてくるのである。この人生という広場に、なんで入ってきたかも忘れ、また、どうして出ていくのかも忘れてしまうのである。そして、ただ漠然と、いつかはこの広場から出ていかなければならぬと意識はしたりするものの、やはり、それはとても理不尽で嫌悪すべきことのように感じてしまうのである。
 いのちの始まりと終わり、つまり「生」と「死」は我々にとって本質的な問題である。この二つがなければ、我々は存在し得ないからである。そして、この「生」と「死」は互いに我々人間の存在そのものを決定づける。しかし、どうだろう? 我々はこの「生」と「死」の間にあって、この二つのことを考えようとしない。今、この瞬間にすっかり夢中になって、己の始まり、まして終わりのことなどゆっくり考えている余裕などない。少しでも意識してしまおうものなら、あたかも迫り来るブラックホールに飲み込まれようとするかのように、未知なる世界への恐怖におののくだけである。
 確かに、未知なる世界である「生」と「死」は我々にとって得体の知れない恐ろしいものかもしれない。以前、ひょっとしたら赤ん坊は我々が生きるこの世界(=赤ん坊にとっては未知なる恐ろしい世界)に自分自身がさまよいこんでしまったという、ある種の精神的葛藤(いわば生の否定)から、大泣きして生まれてくるのではないだろうか・・・?と、考えたことがあった。無論、馬鹿げた空想かもしれないが、もしその理屈で考えるならば、同様に、死にゆく人も肉体が消滅した後の「未知なる世界」で、さぞ激しく泣いていることであろうと思ったりした。
 ところで、かつて私の母の知人である牧師さんが「死ぬということはカーテンをめくって隣の部屋に行くようなもの」と表現されていたのだが、ならば生まれることもカーテンをめくって隣の部屋に行くようなものなのであろうか?「死ぬこと」と「生まれること」どちらも生きとし生けるものにとって未知なる世界への精神的葛藤であると同時に、ごく自然に行われる「脱皮」のような変態の一過程なのかもしれない。
 いずれにしても、「生」と「死」は両極に位置しているようで、その実、極めて似通った性質の一元的なものに思えてならない。イワン・イリッチが最期にみた「死の代わりの光=命の永遠性(私なりの解釈であるが)」はそれに起因するものではないだろうか。そして、その「生」と「死」の間にある極めて曖昧な存在として、我々が今生きているこの世界、人の一生があるように思えるのである。しかし、その曖昧な人の一生にこそ、不可思議な「生」と「死」を解き明かし得る我々に示された唯一のヒント、何かとてつもなく重要な糸口が、隠されているような気がするのである。

(かわはらなおと)


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