我が国の医療史における価値の変遷について
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我が国の医療史を振り返るとき、医療そのものが発達する背景となった社会的、文化的、政治的な環境の特性を考慮する必要があります。長い歴史において日本人は他の国々、とりわけ西洋諸国の文化に対して閉鎖的な反応を示してきた一方で、東西の接点として諸外国の思考様式を自国の文化に適合させる能力を発揮させてきました。
古くは4世紀末頃、医療において加持祈祷や薬草、経験的医療が主であった時期に朝鮮半島から朝鮮医方が流入し、続く奈良時代には仏教と共にインド医学、さらに平安時代には唐の医学が伝搬し、次第に平安貴族を中心にした僧医の医療を中心とした我が国独自の医方が形成されるようになりました。
特に平安時代初期の808年 (大同3年) には、平城天皇の命によって日本最初の医書である「大同類聚方注1 」が完成していますが、これ以来、我が国では事典「和名類聚抄注2 」や絵巻物「病草紙注3 」等の医学関係の書籍が次々に編纂され、我が国の医療は従来の呪術的・原始的な経験医療から、科学的な合理性と客観性を持つ医師の医療へと徐々に変容してきたのでした。このような日本医療の黎明期に一定の方向性を持たす役割を果たしたのが、984年 (永観2年) に丹波康頼によって編纂された医学全書「医心方注4 」であったとれ言えます。
同書は既に知られていた胸部・消化器・寄生虫等の様々な疾患を、陰陽五行説に基づく相生・相克によって捉え、仏教及び儒教思想から独自の東洋的疾病観を構築しましたが、同時に本草・薬の性質、軟膏の使用、食餌等を用いた治療の実践的体系としても注目に値するものであったと言えます。
しかしながら、この頃の病気の治療はやはり呪い・加持・修法が中心であったことは否めませんでした。大宝律令 (701年) や養老律令 (718年) には医疾令 (いしちりょう) が示され、医術や薬術の面からの病気の治療法が一応は規定されたものの、医事を司る典薬寮という役所には、病気を診察治療する医博士・医生の他に、呪禁師 (じゅごんし) ・呪禁博士・呪禁生がいたといいます。
また、「病膏肓に入る」の語源となった中国の古典「春秋左氏伝」で、病気が二豎 (にじゅ・二人の子供の意) に化し、膏肓 (こうこう・「膏」は心臓の下の部分、「肓」は横隔膜の意) の奥深くに入るという逸話に象徴されるような疾病観が横行し、平安時代においては薬や医術よりも、体に溜まった穢れ、すなわち二豎や鬼を追い出すための呪いや祓えが優先されたのでした (実際、万葉集唯一の「病気の歌」を詠んだ山上憶良も、自らの疾病観を「痾に沈みて自ら哀む文」において「膏肓の奥処に尋ね到り、二豎の逃げ隠るるを顕 (あらわ) さまく欲す」と表現しています)。
鎌倉時代以降においても、我が国の疾病観にはアジア大陸出自の東洋精神的な価値観・思考様式が色濃く反映され続けました。特に仏教 (禅宗) の因果応報観等による宗教思想は我が国の医療観全体を決定的に支配し続けていたと言えます。
すなわち、我が国では中世全体を通じて、疾病そのものについて特に新しい価値変動を経験せず、アジア大陸出自の東洋的価値観に基づく儒教・仏教といった宗教的精神論を実際の経験主義的医療に適用していたものと考えられます。
しかし、そのことによって逆に我が国の医療における科学的客観性は、西洋的実証主義の価値観を導入し得なかったにもかかわらず、独自の実証的な自然哲学、言うなれば「東洋的実証主義」を独自に展開させていくことになるのです。
特に、仏教よりも儒教の影響が強くなった江戸時代以降、我が国の医療は次第に実証主義的なものになり、「気」を中心とした儒教的疾病観を実際の治療に養生として取り入れる傾向が強まっていきました。
しかし、その後1754年の山脇東洋の刑死の剖検、さらに1771年の杉田玄白らによる江戸小塚ヶ原刑死体解剖によって、我が国の医療観を絶対的に方向付けていた中国医学出自の五臓六腑説は否定されるに至ります。ここに来てようやく、我が国の医療は17世紀以降のオランダ医学流入の影響による純実証主義的な思考様式を取り入れ、西洋の科学的アプローチの方法論を習得していくことになるのです。
我が国は古来、主に中国、朝鮮をはじめとするアジア諸国との交易を通じ、封建主義的思想と仏教・儒教等の宗教的精神を融合させることで独特な国風文化を発展させてきました。しかし、これは医療史におても同様に言えることで、我が国において医学はアジア諸国の文化的宗教的影響を強く受けた自然哲学として扱われ、そこから導き出される価値を体系化して実践させる手段として医術が存在していたものと考えられるわけです。すなわち、自然に対する東洋的価値体系をバックボーンとした我が国の前近代の医療においては、病原・病因は実証的に扱われることはなく、専ら疾病の症候と治療のみが実証的科学の適用範囲であったと考えられるわけです。
しかし、明治維新によって我が国の医療史は激変します。我が国が一丸となって熱心に他国の制度を取り入れようとしたのは、実に遣隋使・遣唐使派遣以来の大規模な外政方針でしたが、単純に夷人の国家が文明国・中華の文化を望んだ上古とは全く異なる理由によるものであると考えられます。私は明治維新における我が国の文化的変動について、従来の日本文化を形成する価値構成要因の多くがアジア大陸出自の東洋的思考様式であり、当時の世界の趨勢からも同時代的に独自の文化的価値観を普遍的レベルまで確立せざるを得ない異文化吸収のための必然的要請であったと考えています。
つまり、既に我が国に芽生えつつあった「西洋実証主義的科学」への国民全体の内なる文化的欲求が、特異な環境と歴史において生来的に育まれた異文化吸収の社会的な同化体質に相まって一挙に噴出した形となり、それが明治維新における大規模な価値変動として顕在化したと考えられるわけです。
従って、我が国の明治以降の医療史において特徴的なことは、上古以来その理論的支柱として連綿と受け継がれてきた東洋的医療観に対し得る西洋的医療観の積極的導入にあると考えられます。同時に、これによって我が国は「和魂洋才」の如き言葉に表されるように、全く視点の異なる西洋的価値体系によって従来の東洋的思考様式を補足し、発展させ得る科学的「方法論」としての合理的適用化を目指したものと考えられるわけです。
こうした激動期の我が国の医療をめぐって何よりも注目すべきことは、明治時代ほど医療の「制度」創設に政策的力点が置かれた時期はなかったということです。確かに、近代日本の医療制度の基礎となる「医制」が長与専斎注5 によって起草された1874年 (明治7年) 頃は、依然として資本主義的原始蓄積政策注6 と立憲君主制の確立が重視され、国の責任としての医療機関整備計画は頓挫し、衛生行政は内務省から警察に移行 (1886年・明治19年)、結果的に我が国における国民の保健医療は国の責任から自由開業制に委ねられる形となりました注7 。
しかし1938年には、警察行政の管理下におかれていた医療関係行政を「富国強兵」の政策方針のもとに強化すべく、厚生省注8 が独立設置され、軍事的な国策としての人的資源確保が「大東亜共栄圏建設」に随伴する人口政策の一環として重視されるようになりました。
それ以来、我が国の医療における制度の整備、とりわけ医療供給体制の確立は国を挙げて取り組むべき最重要政策課題となったわけです。つまり、皮肉にも我が国の近代医療制度は、諸外国の近代化の過程での医療供給体制確立化に見受けられる国民や労働者の立場からの発展ではなく、軍国主義政策の一環として整備されていったわけなのです。
やがて第二次大戦後、我が国の医療制度は、アメリカの日本占領政策であり、日本の非軍事化・民主化政策の一環として打ち出された「ワンデル勧告」によって、大きく軌道修正されることになります。
1948年、アメリカ社会保障制度調査団によって報告された、この「ワンデル勧告」は「病院は国民に奉仕するという認識を深めること」、「計画に基づく病院の建設費は公的財源によるものとし、主として国庫から支出されねばならない」と指摘しました。これを受けて政府は「社会保障制度審議会」を設置(1948年)するとともに、医療法の改正、各種の社会保障、医療保険の整備等と同時に「基幹病院整備計画要綱」(1951年)を決定し、国立・公的病院・診療所等の医療機関の拡充整備を指向するようになりました。
しかし、これと前後してワンデル勧告と矛盾する現象が起こります。すなわち、新たな独占企業の育成と日本の再軍備政策への転換に伴う財政上の理由から、私的医療機関の拡充が急速に進むわけです。これ以来、我が国の医療制度の民活路線導入の傾向が現在まで続きます。
こうして我が国の医療史を概観すれば、古来、東洋的自然哲学と経験医療に基づく「個人」本位の疾病観は、明治維新前後の急進的な西洋的実証主義科学の導入によって、国策的「制度」に基づいて運営されるべき「集団」本位の資本的観念へと転換していったものと考えられます。
つまり、従来、封建的価値観に基づいて一個の人間から然るべき全体としての宇宙を捉えようとした東洋的医療観は、西洋科学の本格的流入に伴い、我が国独自の価値転換、すなわち、一つの秩序体系としての資本集団から剰余価値を生み出す存在としての個人を捉えようとする医療観へと移行していったと考えられるわけです。
しかしながら、我が国古来の宗教的自然哲学における東洋的医療観と、近世の実証主義的科学流入後における西洋的医療観は、医療の概念そのものを人間の内と外の広範な視野から体系的に捉えようとしていた点において共通していたように考えられます。結局、医療に対する思考アプローチの方法が洋の東西によって異なっただけであり、その二者を実際的医療体系として融合させたものが我が国においては、資本主義的イデオロギーであったと考えられるわけです。
ワンデル勧告以来、我が国において資本という自己増殖する価値を医療に適用することは社会政策上、合理的で妥当な思考様式であると考えられてきました。しかし昨今、医療専門職と医療関連産業の利害関係から、医療の価値が過度に拡大解釈され、個人に対する医療の価値認識が低下する恐れがあるという懸念が生じています。つまり、医療機構そのものが健康に対する主要な脅威になりつつあり、人間の尊厳そのものまでが「医療」の専制下におかれつつあるという矛盾を呈しているわけです注9 。
現在の我が国の医療観は、少なくとも従来のような東洋的・西洋的といった価値基準ではない、資本主義的な社会規範に基づくニュートラルな価値システムに則って、改めて個々の人間存在が認識されるべきスタンスに到達しているものと私は考えています。同時に、共通した一定の医療観に基づく、更に高次な段階としての医療への「普遍的」価値認識が、特定のイデオロギーに対する中立的規範としてと一般に考えられる時代が到来しつつあると私は考えています。(終)
参考文献;
菅谷章:『日本医療政策史』, 日本評論社, 1981.
佐久間 淳:『医療社会学概説』, 大修館書店, 1988.
Marshall W. Raffel, 二宮隆雄監訳:『先進14ヵ国の医療システム』, 毎日新聞社, 1990.
Eliot Freidson, 進藤雄三, 宝月 誠訳:『医療と専門家支配』, 恒星社厚生閣, 1992.
莇 昭三:『医療学概論』, 勁草書房, 1993.
広井良典:『生命と時間』, 勁草書房, 1994.
山口博:『王朝貴族物語』, 講談社, 1994.
古川俊之:『高齢化社会の設計』, 中公新書, 1995.
池上直巳:『医療の政策選択』, 勁草書房, 1996.
広井良典:『遺伝子の技術、遺伝子の思想』, 中公新書, 1996.
岡本祐三:『医療と福祉の新時代』, 勁草書房, 1996.
広井良典:『アメリカの医療政策と日本』, 勁草書房, 1996.
インターネット参考URL;
長崎県医師会, 『長崎県の医療史』:http://www.nagasaki.med.or.jp/iryoushi_f/iryoushi.html
慶應義塾大学医学メディアセンター/医学部資料委員会展示, 『日本医学史に登場する古医書』:http://www.lib.med.keio.ac.jp/tenji/
(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)
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