共同体主義をめぐる諸概念の動態及びその価値関係について


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 今日議論されている共同体主義の基幹を成すのは、自由主義に対する批判を念頭においた以下の四つの主張であるとされています。すなわち、(1) 原子論的個人主義の批判、(2) 倫理的決定における中立性の否定、(3)「少数の一般的原理からの演繹」型の道徳的推論への反発、そして、(4) 何らかの意味での、共同体に共有された善にもとづく道徳的推論の推奨です注1
  共同体は、ある特定の共通善に基づいた宗教、職業、しきたり等の伝統によって定義され得ますが、同時に、これは個人的自由を認めない拘束性を有する社会関係をも意味するものです。
 こうした共同体社会の成員としての個人は、たとえ自らが不利益を被る場合でも、帰属集団全体の利益の前には沈黙せざるを得ません。しかしながら、共同体社会全体の根底に在る共通善は本質的に協同する利益の源泉と認められるものであり、成員としての個人の利益保全のための集団的契約の媒体としての機能を有しているものとも考えられます。
 ただ、このような社会契約説注2 的な前提においても、原子論的な個人主義に発するところの利害関係が成立することで、共同体集団の利益関係の連関が成立しているものと考えられます。さらに、その連関から何らかの事情で疎外された「個人の態度」への共同体自らが行う内省的判断として、倫理的決定における中立性が否定され得ることも十分に考えられます。
 つまり、共同体集団全体のコンセンサスとしての価値規範を遵守する限りにおいて、その成員である個人は自己が追求し得る以上の利益、あるいは損失の補填の享受を期待し得ます。ここで、個人が帰属する共同体に相関性を見い出し得ず、自己の超然的存在の自覚によって疎外される場合、倫理的決定における中立性こそが共同体概念以上の倫理規範として個人主義を原子論的に正当化し得るものと考えられます。
 ところが、共同体の立場からは、倫理的決定における中立性こそが絶対的に否定せざるを得ない価値観念であり、その否定に依ってこそ「共同体としての擬人化された自己」を同一的かつ超然的存在たらしめる状況づけとなり得るものと考えられるわけです。
 翻って考えれば、これは原子論的個人主義こそが有するジレンマの角であり、共同体の有する一原理から演繹されるところの「道徳的推論の推奨」の犠牲に他なりません。ここにおいて、共同体が有する経験論的な倫理規範は内においては個人の恩恵として帰納されるものの、外においては個人主義を演繹的に「原子論的」として批判し、自らの原子論的存在を認知し得ない論理の矛盾が呈されるわけです。
 この観点において、原子論的な個人主義なる概念定義は、ある一個の共同体集団から帰納的に導き出されたアンチテーゼとしての普遍原則に過ぎず、共同体集団自らが含意する原子論的価値を個人に投影することで、帰属共同体集団自らが相対的に正当化され得る解義が考えられるわけです。
 従って、帰属集団全体の利益優先によるところの個人の「不利益」はあくまで当該共同体集団の外から捉えられた評価であり、内においては必ずしも個人的自由を制約するものではないと考えられます。
 しかしながら、このように一見矛盾した共同体社会の価値様式にも、本質的には個人と共同体の利益の分配を一元的概念として捉えようとする論理の流れは存在し得ると私は考えています。
 つまり、個人の絶対的自由は共同体社会においては相対的自由に変換されるものの、終局的には、再び個人の享受し得る絶対的自由へと還元される図式が成立しているものと考えられるわけです。
 すなわち、共同体集団全体の自由追求の在り方には、一貫して成員としての個人に対する恩恵再帰の精神構造が存在し、利益追求の自由性の問題においても、個人と共同体集団全体のそれは必然的に相似ならぬ相同の関係注3 にあるものと考えられます。
 ここにおいて、共同体社会の基に相対化された個人の発動するところの「制約された自由」は必ずしも制約され得ず、むしろ、それによって個人の属する集団全体の絶対化と、それによってもたらされる個人の「拡大化された自由」が産生される社会過程注4 が生まれるものと考えられるわけです。
 この際、個人の求める自由は帰属集団全体によって保障され得ますが、同時に、その所与の条件としての個人の自由は、投機的価値注5 として自ずから「集団的」自由の価値の絶対化に貢献し得る性質を有するものと考えられます。
 かつて、マキアヴェリ注6 はその著書『政略論』において次のように述べています。 「なぜ、人々の心に自由に生きることへの強い愛着が生まれてくるのか、という問いへの答えは簡単である。歴史上、自由をもつ国だけが豊かになったからである。」と。
 さらに彼は、その理由を説明して曰く「個人の利益よりも共同体の利益を優先するようになったからである」と注7
 彼は論じ続けて曰く「自由に生きることのできる国では社会全体が繁栄を享受できるようになる・・・このような社会では自由競争の原理が支配的になる。私的な利益と公的な利益の両方ともが、ごく自然な形で追求されるようになり、結果は、両方ともの繁栄につながるのだ。」と注8
 これらマキアヴェリの言説は、「リベラルな社会」に生きる人々が「共同体の中での共有目的としての善の重視 (あるいは優先)」の理念を具現化させつつも、終局的には各個人随意の自由競争が行なわれる社会過程をよく表しているものです。
 つまり、当初は個人の自由が否定され得ることで帰属集団全体が豊かになり、その結果として個人の自由が保障されるという、いわゆる弁証法的論理注9 が存在しているわけです。
 では、マキアヴェリが提起するところの「人々の心に生まれる自由に生きることへの強い愛着」とは一体何なのでしょうか。ロールズ (John Rawls) 論じるところの「善に対する '中立的な正' の優先」による負荷なき自己の産物なのでしょうか、それとも、サンデル (Michael Sandel) 強調するところの「共同体の中での共有目的としての善」の為せ得る状況づけなのでしょうか注10
 ここにおいて、自由という概念は多次元的な様相を呈しはじめます。すなわち、「中立的な正に起因するところの自由」も「共通目的として状況づけられた善に発するところの自由」も結局は一つの無為の概念であり、実に多様な人間精神の複合から導き出された「中立の」概念に過ぎません。これを有為なものにするべく正 (あるいは正義) の概念が善なる概念を生み出すこともあり得るでしょうし、その逆も現実を介在させた可能性として考えられます。
 何故ならば、「正 (あるいは正義)」と「善」が乖離されることは、人間精神が自らの自己同一性を確認するための一種の自己防衛的な知的営為と考えられるからです。この観点から考えれば、人間精神が生み出す様々な倫理規範は人間の存在と行動を保障し得るものであると同時に、それらの間に臨機応変な不即不離注11 を生み出すのみの存在であるとも考えられます。故に、これらの規範は普遍的存在にはなり得ませんし、中立なる概念形態をとることも考えられません。
 しかし、これらの規範を構成する種々の概念は「現実注12 」を経験した状態で、はじめて相互に連動し合って普遍性を帯びるものとも考えられます。それは、可変性を有する人間精神に内在する様々な価値観念が、現実を以て相対的に自己同定され、当為注13 の倫理規範として回帰し得るものと考えられるからです。これは「正 (あるいは正義)」と「善」の関においても十分に考えられる価値体系の変容現象であると考えられます。
 勿論、上述したような「自由」という概念の適用は、ほんの一例に過ぎないものです。あらゆる倫理的規範の実社会への適用は正と善という二面性のヤヌス注14 に象徴し得る人間行為の表象に過ぎないものと考えられるからです。
 従って、中立なる存在になるべく正が善をして状況づけ得ることもあれば、反対に善が正をして共有目的と為し得ることも十分に考えられるわけなのです。
 すなわち、現実の社会共同体を構成する様々な即物的事象と、そこに介在する個人間の人間精神の複合作用が相互に影響し合って、善や正 (あるいは正義) の概念が生まれ、時にそれらの概念の分離も起こり得ます。こうした倫理規範を構成する種々の概念は「中立的」存在にもなり得ますし、「状況づけられた」存在にも変容し得るものとも考えられるわけです。
 アリストテレスは、その著書『形而上学注15 』において、同一のことが同一のものに同一の関係において属すると同時に属さないことはできない〔矛盾律〕をして、あらゆる原理の中で最も確実なる原理と規定し、けだし、この原理をその本性上あらゆる他の公理の原理をなすものと考えました注16
 善と正の関係のみならず、同一の社会共同体を構成する全ての価値規範は、人間精神の発露として絶えず同化と乖離を繰り返し、現象を肯定し続ける存在であると私は考えています。
 この際、同一の人間精神の複合観念から産生された全ての概念は、互いに〔矛盾律〕を有しながらも、認め合わざるを得ない存在であると考えられます。認め合うことで価値の「限界」が生まれ、同時に拡大化した価値の「可能性」も生まれてくるわけです。
 従って、私たちの社会が競合的で不両立な概念によって支配され、道徳上のコンセンサスの達成が期待し得ないものであっても注17 、それを調停して肯定的に発展させ得る規範の定位は、すなわち人間精神の営為にあり、この確固として超然とし得ない可変性こそ、ある意味で中立的、かつ普遍的なる概念規定 (οριζεσθαι καθολου ) 注18 であると私は考えるのです。(終)

(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


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