不妊治療へのクローン技術適用の問題について
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「不妊=医療の対象」という発想から即「治療すべき状態」と短絡的に考えてしまうことは、絶対避けなければならないことであると私も思います。不妊の問題に限らず、何らかの身体障害や疾病に苦しむ人々の幸福と安寧は、確かに臨床医学的な介入のみによって保障されるものではありません。その問題に苦しむ当事者の側に立ったケアの概念を柔軟に考え、心や社会的な面までも含めて対処していく必要があります。
クローン技術の適用の問題についても、ただ一義的に「最も有効な治療手段」として捉える発想は医学研究における専門家サイドのエゴに迎合する結果を招きかねません。とりわけ、生殖医療のような我々人間の生命に直結する臨床の場においては、その治療を実際に受けようとする当事者にとって本当に必要であるものは何であるのかを、身体的な背景のみならず、問題を構成している様々な要因から見極めていく態度が必要であると考えます。
健康という言葉は今日、広く普及し使用されていますが、最も一般的な定義としてWHO憲章の前文に書かれているものが挙げられます。そこには「健康とは身体的、精神的および社会的に完全に良好な状態であり、単に病気や病弱でないことをいうものではない (Health is a state of complete physical, mental and social wellbeing and not merely the absence of disease or infirmity.)」と記されています。
さらに、「到達し得る最高水準の健康を享受することは、人種・宗教・政治的信念・経済的ないし社会的地位のいかんにかかわらず、何人もが有する基本的権利のうちの一つである (The enjoyment of the highest attainable standard of health is one of the fundamental rights of every human being without distinction of race, religion, political belief, economic or social condition.)」とも明記されています。
この健康の概念定義は、健康を身体的側面のみならず、精神的側面や社会的側面から包括的に捉えた上で、その実現を万人の基本的な「権利」としたことにおいて大変意義深いものであると思いますが、「到達し得る最高水準の健康 (the highest attainable standard of health)」なるものこそ、本質的に各人が有する価値観によって当然異なるものとなるということを我々は忘れてはいけないと思います。
つまり、個人が人間としての尊厳と自律に基づいて、幸福に人生を過ごすための「基本的条件」としての健康概念を支配する「絶対的な価値観」はあり得ないということです。個別な健康状態に対する相対的な評価による一つのアプローチとして、臨床医学的介入はその役割を果たしますが、終局的に当事者本位の恩恵享受の権利からの要請によってのみ本当の最高水準の健康は実現し得るものと思います。
しかしながら、不妊に苦しむ人がヒトクローン技術を当然享受すべき恩恵として捉えることは、本当の健康状態を実現させるための権利の在り方の問題と一線を画しておく必要があると考えます。何故ならば、まず、不妊は一概に不健康とは到底定義できるものではありませんし、もし、その問題を構成する諸要因の中に不健康の要素が存在したとしても、その要素を断ち切る解決策としての多様な選択肢と、それらについての適切な選択の方法はクローン技術導入以外にも必ずあるはずです。短絡的に唯一の選択肢はクローン技術導入であるとする傾向にこそ多くの問題が生じる原因があると思います。
したがって、ヒトクローン技術を最高水準の健康を得るための当然享受すべき恩恵として捉える考え方は至極、本末転倒な発想であると考えます。直接に先端医療技術を適用されるということは必ずしも適用される側への恩恵の享受にあらず、先端医療技術は無条件に人を救うものであるという過信によって、それを実際に臨床の場に受け入れる人は、むしろ医学的発展の指標となって医療サイドに「恩恵を供与する」立場にさえあるということを認識しておく必要があると考えます。
私見ではありますが、クローン技術関係の全ての研究を廃止すべきであるとは私は考えません。「おせっかいに人権を侵害する」人為的な利用を排除した、厳格な規制と審査による研究ならば、基礎医学の範疇において実施していく余地は見出せ得ると思います。
しかしながら、何よりも今我々に求められていることは「不妊」に代表される一つ一つの臨床的問題対処の観念に逐一囚われ、そこに急いで新しい技術を当てはめていく「即効性」ではなく、更に高次な研究対象 (病態の発現メカニズム等)を念頭に置いた、じっくりと「クローン研究」などの新しい先端技術そのものを考えていく深謀遠慮な科学的態度であるように思います。そこから人間と、その知恵が産み出す科学との新しい関係が見えてくると思うのです。(終)
(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)
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