遺伝子組換え食品をめぐる情報開示の問題について


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 遺伝子組み替え技術等、新しい技術を応用して作られた食品の安全性評価の原理の一つに「実質的同等性」という概念があるといいます。これは、OECD (経済協力開発機構) の報告書の中で確立したものだそうですが、これに基づいて現在では、新しい技術を応用して作られた食品の安全性評価において既存の食品と「実質的に同等」かどうかを考察し、同等とみなされた食品は、既存の食品と同様の方法で安全性を評価していくという方法が行政サイドに定着しているようです注1
  従って、導入された遺伝子の起源や特性がよく知られており、既存の食品と同程度に無害であるとの科学的根拠がある場合には、その遺伝子組換え食品の安全性は、既存の食品と同等と考えられているわけです。確かにこの観点から考えれば、これらの新しい食品は従来の農作物と「実質的に同じ」ものであり、遺伝子レベルまで再び遡って明確な区別をするのは困難なものと考えられます。
 しかし食品衛生法注2 では、こうした食品の安全性の確保は第一義的に製造者または輸入者の責任において行うものであるとし、遺伝子組換え食品の安全性についても、厚生省が作成した安全性評価指針に基づいて、開発企業が自らの責任で安全性の実施することになっています。これを受けて厚生省が、各開発企業から提出された資料を「確認」する作業を行っていくわけです。
 この安全性確認のプロセスを考慮すれば、まず開発企業が遺伝子組換え食品を作り出す段階で、厚生省に提出する資料に基づいて一律に製造過程の表示を行うことが望ましいと思われます。実質的に同等な製品であっても、この段階ならば否応なく区別できるのではないでしょうか。また、現在の流通実態がそのような表示作業を困難にさせていても、一旦製品を市場に送り出して妥当と確認・判断した以上は、国の責任において表示を義務付ける事に行政サイドとしては吝かではないはずです。
 さらに、こうした表示の義務付けの問題のみならず、食品衛生法において明確に使用基準が規定される食品添加物と同様、食品製造過程において用いられた遺伝子組換え技術の適用範囲についても、消費者側とのコンセンサスに基づいたガイドラインの確立が望まれるところです。
 しかしながら、何よりも一番問題なのは「必要だから行う」、「必要ないから行ない」という極めて事務的かつ単純な行政の発想なのだと私は考えます。科学的に表示を義務付ける根拠が乏しいから表示しないのでは、消費者側の信頼を失うばかりです。むしろ逆に、リスクに対して科学的に安全性が証明され、表示する根拠が乏しいからこそ自信をもって表示を行うべきではないでしょうか。
 勿論、従来のように表示を義務付けない方が、流通動態も従来通りの経費でスムーズに運営管理することができるでしょう。面倒で必要性に乏しい安全性監査は行政サイドから見れば不合理以外の何物でもないかも知れません。
 しかし、行政上の不合理性は必ずしも、社会的な不合理性につながるものではないと私は考えます。特に、消費者による需要ニーズに依拠する性質の強い「食品」製造物が対象ならば、まずは消費者側の信頼に基づいた形で、彼らの需要を喚起していく方策をとることが必要不可欠なことではないでしょうか。新しい製品に対して、少しでも消費者側の信頼を失うことがあれば、とりわけ直接的に健康に影響を与え得る「食品」が対象ならば、例え、それが行政上の合理的プロセスによって従来通りスムーズに市場に出回っても、終局的に消費者側全体に慢性的な不信感を植え付ける結果に陥りかねません。これでは、せっかくの実質的同等の原理も広く理解されぬまま、ただ疑心暗鬼を生み出すだけの代物になり果ててしまいます。
 遺伝子組換え食品の情報の表示だけではなく、こうした公的な安全性情報を公開するということは、消費者側の知る権利の問題のみならず、狭義の合理性を採るか、広義の合理性を採るかという問題にまで関わってくるものであると私は考えます。仮に、一見わざわざ公開する必要があるとは思われない情報が存在したとします。行政上の意思決定プロセスにおいては、この情報を開示し、公開することは無駄なエネルギーと考えられるかも知れません。つまり、この場合の情報の公開は狭義の合理性に反するわけです。
 しかし、社会全体の市場原理においては、この行政サイドの負のエネルギーを、正のエネルギー、すなわち、製品そのものの質の維持エネルギーとして効果的に転換させ得ることも十分に考えられます。この発想から考えれば、安全性の情報公開は、消費者の当該製品への安定した購買動機を維持させ、需要を従来の製品と同様のレベルにまで保持させる大きな要因になり得るものと考えられるわけです。
 つまり、こうした安全性の情報の公開は広義においては、合理的な経済促進活動と考えられるわけです。こういった多極的な「道理の流れ」を長期のスパンと広い視野をもって考えていく政策こそ、特に行政サイドに現在強く望まれていることであると私は考えるのです。
 確かに消費者側の「知る権利」は、情報の公開を求められている側の「知らせない権利」と必然的に対立します。しかし、問題となる「情報」の対象が基本的に市場を媒介して流通するものならば、消費者側に少なくとも安全性の情報は十分に納得させ、場合によっては多くの選択対象を用意すべきであると考えられます。これによって初めて経済的に「公正な取引」と、それに基づく流通の健全な活性化が図れるものと考えられるからです。
 つまり、ここにおいて「知る権利」は、いわば「経済的なインフォームド・コンセント」のコンセプトを大前提とした必要不可欠の事由となり、逆に対象となる情報を消費者側に知らせないという事は道義的責任の問題を論じる前の現実的問題として、健全な流通動態の重大な阻害要因とさえなり得ると考えられるわけです。
 この問題について、経済全体に求められる効率性と合理性には、一見相反する質の高いサービスへの消費者側からの達成動機の発現装置のようなものが隠されているように私は考えています。経済における供給を運営管理するところの行政サイドと、その恩恵を受けるべき消費者側との利益関係は相互に連動し合っており、一方向的な情報統制が如何に両者の連鎖的な恩恵享受の動態に悪影響を及ぼすかを我々は見極めていく必要があると考えられます。
 従って、消費者側に立った正義なる方策と、広義の経済そのものの功利追求の合理性には実は深い関連性があるように考えられるわけです。誤解を恐れずに言えば、このような経済的な側面から、与える者・与えられる者の互いの「権利」の在り方を捉えていく発想は、製品の安全性の表示、ひいては全ての公的な情報の開示の問題解決のためにも極めて有効なことであるように私は推論しているのです。(終)

(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


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