出生前診断の普及がもたらす問題について


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 かつて出生前診断は染色体異常症、および羊水細胞または絨毛細胞の活性酵素によって診断することができる一部の疾患に限られていました。しかし、近年の医療技術の革新的な進歩によって妊娠初期からの胎児絨毛採取が可能となり、近い将来、殆ど全ての遺伝性疾患のDNA診断が可能になると言われています。
 こうした状況下、ごく軽症の疾患でも「両親が望まない胎児」の出産を人工中絶によって安易に抑えてしまう傾向が生じることが特に懸念されています。すなわち、障害を否定・中絶することで、健康な胎児の出産を確実に保証する出生前の「遺伝病スクリーニング」の是非が問われているわけです。
 いずれにしても、育児プランにおける安易な効率優先主義の観点から、障害を持った胎児の生存権を否定することは絶対に避けなければならないことであると私は考えます。ここで、生命の領域に直接介入しようとしている現在の医療技術の問題について改めて考えてみたいと思います。
 まず、生命に効率性や合理性を追求する科学技術の在り方には、大きく分けて「正」と「負」の二種類の方向性があるものと私は考えています。すなわち、その科学技術の被適用体としての生命のプロセス全体において、科学技術が恩恵として活かされ続ける場合とそうでない場合が考えられるわけです。
 一時的に生命の問題を回避するだけの科学技術の適用は、結果として、生命の問題の全局的解決を見落とす不合理を生み出す恐れがあります。こうした科学技術の適用は「負」と考えられ、個別の問題に対して一定の効果を発揮し得たとしても、生命のプロセス全体における問題解決を促して恩恵を所与する性格のものとは考えられません。
 つまり、生命そのものに本当の意味での効率性と合理性を生じさせたいならば、局面的な個々の問題 (=言わば「小さな不合理」)をも包含するトータル・プロセスとしての生命の在り方 (=敢えて言わば「大きな不合理」) に対処し得る、統合的問題解決志向の科学技術の適用、いわば「正」の適用の在り方について考えていくべきではないでしょうか。
 この「正」と「負」の問題は、出生前診断における科学技術の適用についても同様に考えられます。
 つまり、出生前小児保健指導注1 の一環として、生まれてくる胎児の疾患を早期に発見し、「生きるための」対応策をプランニングすることは、生命を肯定してポジティブに個々の疾患を捉えるという意味で「科学技術の正の適用」と考えられます。この際、胎児の生存権保証は勿論、「健康権」の獲得が出生前診断によって積極的に促進され、それによって、胎児の将来のライフサイクルをも視野に入れた統合的サポートがなされることが前提となります。
 ここで評価すべきことは、もし生まれてくる胎児に何らかの疾患が発見されれば、それを「健康」という「未だ見ぬ長い線」の上に在るだけの、あくまでも「一点」として捉える科学的態度です。つまり、生命発達のプロセスの一段階として個々の疾患を捉えることで、「健康」という概念は万人が有する普遍的な「生きる態度」であって、疾患はあくまでも「健康」概念を構成する一要素に過ぎないと考えられることなのです。
 この意義に拠るところの出生前診断は、むしろ胎児の「'現在の' 健康ではない '部分'」の発見によって、結果的に長期のスパンにわたる「'将来の' 健康 '全体'」を保証することにもつながり得ます。ここにおける出生前診断の技術適用は、胎児の人生全体の長期の健康維持のための効率的かつ合理的な方策であると考えられるわけです。
 こうした出生前診断技術の正の適用に対して、「負の適用」と考えられる科学的態度が存在します。すなわち、出生前診断によって胎児の人生における「健康全体」までもを一極点的に「不健康」と捉えようとする考え方です。これは生命のプロセスを全く無視した誤った選別思想につながる危険な考え方です。「生きる態度」としての健康の捉え方は各人の自己決定によって自由に選ぶべきものですが、生まれてくる胎児の将来=「未知の生命のプロセス」としての健康そのものについては、何人たりとも判断し得ない性格のものであるはずです。
 つまり、母胎内の生命の存続が可能で、なお発達段階にある胎児の生命を人為的介入によって中絶させる技術適用は、木を見るだけで森を見ない行為であると考えられます。つまり、これは一時的な問題回避によって、胎児のその後の生命の可能性そのものを消滅させてしまう「技術の負の適用」とも考えられるわけです。
 勿論、母子の生命にとって明らかに重篤なリスクが見い出された場合は、この限りではないと考えられます。ただ、この「重篤なリスク」の該当範囲について、生命のプロセスの観点から病態のどのポイントまでが妥当であるのか、慎重に検討される必要があると思われます。この際、特に生物学的なライフサイクルの問題のみならず、社会文化的要因による胎児の「個人としての発達の可能性」の問題についても注意深く検討される必要があります。
 いずれにしても、この「重篤なリスク」の範囲についての社会的なコンセンサスが為された上で、これに該当するケースを除いて、原則として技術の「負」の適用は行うべきではないと私は考えています。明確に「何が本質的に生命のリスクとなり得るのか」理解されぬままに、その胎児が有するところの「生命の可能性」を否定してしまうことは、出生前診断技術の「負」の適用以外の何ものでもありません。
 出生前診断技術が普及することは、その「正」の適用が為され続ける限り、大いに結構なことであると私は考えます。しかしながら、こうした診断情報を万人が知り得る時代になったからこそ、その情報が各自の「健康観」によって歪曲されて捉えられることは断じて防止されねばなりません。こうした技術の適用が「正」なる行為になるのも、「負」なる行為になるのも、結局は個人と社会の間に介在する「健康」関連の情報如何によって決定されると考えられるからです。
 従って、出生前診断の結果について何らかの医療上の判断・決定を為す必要が生じた場合は、医療従事者、及び妊婦とその家族が一同に介し、生まれてくる胎児の「生命の可能性」について理解を深め、健康の捉え方を共有する態度が望まれます。こうした「個人の情報をめぐる適切な社会の態度」から、生命にとって「正」となる技術適用の「真の健康規範」が生み出されてくるものと考えられるわけです。
 このように、当該情報の共有から「生命の可能性を肯定し得る規範」を探る科学的態度は、出生前診断の問題、延いては全ての高度先端医療技術の適用を検討する際にも、重要なコンセンサスを生じさせ得る有効な方策であると私は考えています。(終)

(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


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