死刑制度とバイオエシックス
─新たな価値システム構築への可能性を考えて─


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 バイオエシックスを考える際の重要なポイントとして、「人権」を守る運動の視座が挙げられます。それは、バイオエシックスそのものが、生命や人権を守るための様々の運動のルーツと連動して発展してきた学問だからです。
 そもそも、人権は実定法上の権利のように自由に剥奪または制限され得ず、何人も生来有する基本的権利です。従って、人権は本質的に法律によって賦与される性格のものではない「人間の尊厳」の具現化された権能であると考えられます。
 いわば、「人間の尊厳」は人間社会の前提として個々人が有する規範的価値であり、これを社会全体が如何に捉えるかによって「人権」の在り方自体も大きく変わるものと考えられます。
 この人権を尊重・擁護する社会体制を公共の政策によって実現させたいと望むとき、私たちは多くの矛盾を孕む問題に直面してきました。その一つの重大な懸案として死刑制度の問題が挙げられます。
 死刑の問題は、米国立バイオエシックス参考図書センターの分類表中にも明示されている通り注1 、我々バイオエシックスを学ぶ者にとっては避けては通れない重要な研究課題です。
 言うまでもなく、これは人間の生命に直接に関わりのある重要な問題であり、法律や刑事政策のみならず、「人間の尊厳」の価値観念を左右する「重大なジレンマ」とも考えられるからです。
 死刑は「生命刑」とも表現されるが如く、人間の生命を奪い去り、その全ての存在を未来永劫に消去することを目的とした刑罰です。従って、いつの時代においても、その存在意義が問われてきました。
 現在、死刑廃止に依然として躊躇する国も多いようですが、死刑の存廃については概して世界的に廃止の方向にあり、我が国でも、最近は死刑の判決は極めて少なくなっています。しかしながら、我が国の死刑廃止が完全に実現・制度化されるのは、しばらく時間を要するものと考えられます。近い将来における死刑存廃の問題について、直接関わり得る法曹関係者・有識者の大多数が死刑存置を正当化し、支持しているからです注2
 そもそも、「生命刑」たる死刑のみならず、刑罰の正当化問題については伝統的に、犯罪を犯したことに対する当然の報いだとする「応報刑論」と、犯罪を抑止する効果をもつからだとする「目的刑論」が対立してきました。
 前者が、過去の行為に対する非難として事後的に刑罰を科すこと自体に道徳的価値があるとみる義務論的立場であるのに対して、後者は、犯罪の一般的な事前予防、犯罪者の教育・改善など、刑罰が将来に向けてもつ効果を正当化理由とする目的論的立場です。
 刑罰という観念は、もともと一定の悪行に対して、罪のある者は社会によって相応の非難を受けて然るべきだという道徳的感情と密接に結びついており、刑罰に値するが故に処罰するという、「負の功績原理」に基づく応報的正義として、法の実現すべき正義の要とみられていました。
 応報刑論は「各人にその正当な功績 (due desert) に値するものを」という正義原理として最も古くから説かれてきている功績原理の典型的事例でした。応報刑論において、個人が行ったことに応じて一定の賞罰によって報いるという、個人の行為に定位された過去志向的なこの功績原理は、個人を責任ある選択・行為の主体として公正に扱い、「自律的人格の自己決定を尊重する限り」で、自由な社会の存立にとって不可欠なものであったといえます。
 ところが、インマヌエル・カント(Immanuel Kant) が「道徳の形而上学」において明言した「応報の権利のみが刑の質と量とを明示し得るものである」というような「絶対的」応報刑論は、法的モラリズムの正当化にもつながるものとして現在では支持されなくなっています注3
 また、カントと並ぶ古典的リベラリストであるJ・S・ミルも、その著書『自由論』において所謂「危害原理」、すなわち「文明社会の成員に対し、権力を彼の意思に反して正当に行使し得る唯一の目的は、他人に対する危害の防止である」という原理を提示しましたが、同時に、このような「リベラルな原理の現実的妥当条件」については必ずしも楽観的ではなく、「社会的権力」が法律や世論によって個人の自由を圧迫する傾向が強まりつつあること、集権化された政府官僚権力の増大がもたらす害悪が大きいことを挙げ、繰り返し注意を喚起しています。
 従って、現行法制は「責任なければ刑罰なし」、「刑罰は責任に比例すべし」という消極的要請を処罰の必要条件として強調する穏健な「相対的」応報刑論へと移行する傾向にあります。
 このような「責任主義」は、刑罰の目的・効果や人権保障への配慮とも両立するものであり、応報刑論の立場をとらない論者によっても広く支持されており、現在のほとんどの文明諸国の刑罰制度は、この「責任主義」を基軸に運用されているのです注4
 以上の観点から考えれば、如何なる刑論においても、その大前提としての法理が内包するジレンマは「人間の尊厳を如何なる権利問題注5 として、自然必然的な事実問題注6 であるべく‘生命’の存在様式に適用し得るか」という、所謂「実存主義注7 」型の法律問題注8 として帰着し得るものと考えられます。
 つまり、人間の尊厳に対する価値の見極めにおいて限界性を有する「生命の存在様式」としての人間主体的な価値判断とその在りように、本質的な自己矛盾注9 が含有されているものと考えられるわけです。
 振り返れば、人類が実存注10 としての生命観を有するに至った時から、「人間社会の不幸」、すなわち、法システムのジレンマとしての死刑制度の歴史が始まったものと考えられます。それは常に「人を殺すな」という人道主義注11 との対立の歴史であり、これを超えるべきものであるとの運命を背負わされた人間社会の不条理の過程であったと考えられます。
 我々人間は必然的事実に基づく価値システムを構築して一定の成功を収めると同時に、ジレンマの悲劇にも遭遇しました。ここにきて、人間的認識の普遍的妥当性を見い出すのは不可能なことか否か、改めて問い直されているような気がしてなりません。
 問題解決の鍵は‘生命’の存在様式が有し得る、もう一つの可能性〔偶然性注12 〕に依拠した価値システムを如何にして構築し得るか ─── 全ては、この命題に拠るものと私は考えています。(終)

(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


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