性規範における「ダブルスタンダード」の問題について
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「この世で最悪の病は..., 愛のないことである」 (Princess. Diana)
性の問題は複雑です。とりわけ、我々人間自身の性の問題を考える時、そこに介在する種々の「精神的な存在」が問題を一層複雑にしていると言えるでしょう。すなわち、性の諸問題に対する「自己の絶対的価値」とそれを取り巻く「社会の相対的価値」認識の差異に起因するところの人間精神の可変性の問題と、それに伴う二重の価値規範 (ダブル・スタンダード) の存在です。
かつて、スタンダール注1 は、その著書『恋愛論 (De l' Amour)』において恋愛を情熱恋愛、趣味恋愛、肉体恋愛、虚栄恋愛の4つの種類に分け、これら恋愛の種々相を生じさせる人間精神の重要な働きの一つとして「結晶作用注2 」なる概念装置を提起しました。
この「結晶作用」とは、目の前に現れるあらゆるものから、愛する相手が新しい美点を持っているという発見を引き出してくれる精神の働きのことですが、これは他でもない、愛するパートナーに対して各人がそれぞれに抱いた「あらゆる欲望のあらゆる充足」の集まりを意味しています注3 。
ここにおいて、各人の結晶作用なるものが相互に一致して充足することがあり得ないのは自明の理であると考えられます。結晶作用とは自らの様々な精神的充足を見い出せ得ない不条理に発するところの「広義の自己満足」とも考えられるからです。
さらに、各々の自己満足が相互に衝突し合った結果、そこに互いの欲求の差異・ズレを補填し得る何らかの「虚構のコンセンサス」が形成されることも十分に考えられます。このコンセンサスは集団催眠の如く社会全体を支配し、一見秩序ある普遍の価値規範として人間全体の脳裏に出現します。
しかしながら、ふと他者の欲求の絶対性に気付き、これに比すると仮定していた自らの欲求に、ある種の相対性を見い出してしまった時、人間精神はどのような作用を発現させ得るのでしょうか。
つまり、虚に見い出し得ていた「自己と他者との精神的融和状態」を肯定し、これを現実のライフスタイルにも具現化させようとした際、自己の実際に信奉する価値規範が逆に虚なるものへと変容してしまうアノミーが起こると想定されるわけです注4 。この不条理的な価値変動に対して、人間精神はどのような自己防衛機制を発揮させ得るのかという問題が自ずから生じてくるわけです。
おそらく、この問題に直面して初めて我々人間は、社会全体を支配していた虚構のコンセンサスを否定し、現実社会と自己とを関係づける価値体系を模索し始めるものと思われます。
つまり、こうした個人における自律的な同一性への覚醒によって、相互の人間精神を繋ぎ止めていた価値規範は大きく揺らぎ始め、自己規範と社会規範の二重規範=ダブル・スタンダードの本質的な乖離が、我々人間精神の内に自然発生的に生じてくるものと考えられるわけです。
しかしながら翻って考えれば、このダブル・スタンダードこそが虚なる自己の欲求の絶対性を相対的に般化させ、実社会における他者の欲求との合致へと導く人間精神の防衛機制とも考えられるのではないでしょうか。
従って、互いの性の営みにおいて生じた「結晶作用のズレ」に起因するところのダブルスタンダードこそが、スタンダールが考えるような恋愛の諸相をも生起させ、人間の性に対する捉え方を多様なものとさせつつも、そこに一定の普遍的調和を保持させる役割を担ってきたものと考えられるわけです。
ただ、このダブルスタンダードの適用に際して、注意しておかなければならないことがあります。性の問題のみならず、我々が実社会で自己決定に基づいて自らの欲求を他者のそれと融和させたいと望む時、すなわち、自己と他者との各々の自己決定に矛盾なき互恵的連動をもたらしたいと考える時、自らのアイデンティティーの内に他者が占有し得る中立的な「親和領域」を有する必要があると考えられます。この親和領域こそがダブルスタンダードを有効に運用し得る人間精神の土壌となると考えられるからです。
つまり、触れ合う他者のアイデンティティが自己の性質の決定因子となり得る「内なる親和領域」、語弊を恐れずに敢えていわば、人間精神における「プラスミド注5 」のようなものを各々の有する価値体系の中に組み込ませていく必要があるように私は考えるわけです。これは勿論、自らの価値様式を否定するものではなく、また、部分的妥協によって他者の利益を副次的産物として捉えるものでもありません。あくまでも他者の価値観念との遭遇によって、それを自己の恩恵として主体的に同一化し、より強力な自己決定を導き出すための精神領域という意味なのです。
こうした人間精神における親和領域は誰もが生来的に有しているものであると考えられます。何人たりとも他者の影響を受けずに人格を形成することは不可能であり、各々の最善と信じるところに発する自己決定を構成する因子として、必然的に他者の恩恵に起因する価値観念が含まれているものと考えられるからです。
従って我々は、自己のアイデンティティーを構成し、決定し得る主因子としての「他者の存在」を意識する必要があるように考えられます。こうした精神作用を以て初めて、ダブルスタンダードの概念の「積極的」運用が可能となると考えられるのです。
ここで改めて性規範におけるダブルスタンダードの問題を考える時、パートナー同士は互いの人格の内に自己の人格を見い出し得ているのか、さらに自らの親和領域と他者のそれとを融和させる努力を為しているのかについて、まず考えていく必要があるように思われます。こうした前提としての精神的作業によって初めて互恵的な自己決定が生じ、やがては互いに還元し得る恩恵を補完し合う為のポジティブなダブルスタンダードが発生するとは考えられないでしょうか。
この意味において私は、自己と他者とが人間精神の親和領域においてダブルスタンダードを共有し合い、積極的に運用していく機序こそ、人間特有の性の営みにおける「愛する」という能力を陶冶する有効な方策の一つであると考えているのです。(終)
(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)
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