■『Bioethics Study Network』, Vol.1, No.2 (第2号), バイオエシックスを考える学生の会, 2002, pp. 28-33.
宗教と非宗教をめぐる日常性の中のバイオエシックス
我が国で宗教を信じている人の割合は、各種の調査結果から約3分の1であると言われている
1)
。また、あるアンケート調査によれば、大学1年生から4年生ぐらいの間で、宗教を信じているという人の割合は大体5〜6%であるともいう
2)
。この割合を多いと思うか少ないと思うかは人によって様々である。しかし、人間は皆その心の内に何らかの信念のようなもの ─ たとえ、それが意識されたものではなかったとしても ─ をいつも抱きながら日常の生活を送っているものではないだろうか。自らの人生を陶冶し、自らのアイデンティティを全うするために拠り所とするものは、必ずしも、いわゆる「宗教」として捉え得るもののみではない。自己と他者との多様な人間関係の中に、自己の在るべき生き方を学び、時に挫けそうになれば他者に支えられながら自己を見つめ直し、その生と死を全うしていく ─ この至極当たり前にも思われる日常の営みに、宗教者と非宗教者との接点があるように思われてならない。
特に、非宗教者にとっても、自己の何気ない日常生活の様々な場面に、何らかの宗教的な価値観が息づいていると思える瞬間が幾度となくあるものである。そうしたものは、例えば年末年始にキリストのミサを意味するクリスマスを祝ったり、年籠りや恵方詣に由来する初詣にこぞって出かけるといった社会大衆的なイベントの時に割合強く感じたりするものではないだろうか。非宗教者が神前で結婚式を挙げたり、神父や牧師の前で永遠の愛を誓ったりすることもまた然りである。一方で、家族や愛する人たちの死を経験すれば、その日常がおおよそ宗教とは縁遠いものであったとしても、多くの非宗教者たちは、実際に何らかの宗教儀礼や行事を執り行ったりするものである。
こうした日常生活の時空間からは乖離しつつも日常に潜在し得る特別な感覚 ─ 例えば民俗学などで言うところの「ケ (日常性・世俗性)」にあらず「ハレ (清浄性・神聖性)」であり、時に「ケガレ (不浄性)」の感覚とも捉えられ得るようなもの ─ それは、宗教者・非宗教者を問わず、私たち自身の心が織りなす事象の中に確かに存在しているようにも見受けられる。そうした不可思議な感覚は、私たちの生まれるずっと昔から一種の文化的な風土とも密接に関わり合いながら、子々孫々に育まれてきたものなのかも知れない。そして、その感覚を構成する要素の中に、多分に様々な伝統や文化に裏打ちされた宗教的価値観も当然織り込まれているだろうことは想像するに難くない。
しかしながら、宗教を信じていないという自覚ゆえに、非宗教者は自らの価値意識に潜在し得る宗教性を時に否定し、自らの依拠すべき信念を追い求めて彷徨うこともしばしばである。上述のクリスマスや初詣の時は勿論のこと、おおよそ冠婚葬祭と呼ばれる社会慣習のうちに数多ある宗教的場面に遭遇した時、非宗教者は自らの心の内に連想される何らかの絶対的存在を比較的容易に彷彿とさせながらも、それを無意識のうちに相対化し、日常場面に般化させてしまう傾向があるのではないだろうか。すなわち、自己をただ歴史の主体と導因としてのみ見て、超越的なものを拒否し、「実在」の相対性を認めることで、人間が自ら自己を作る
3)
─ こうした一種の自律的な心的作業のうちに、非宗教者ゆえの戸惑いが生じ、翻って、そこに人間精神をしてそれを絶対たらしめようとする自覚のようなもの ─ いわば、人間精神の聖性を人間自身が追求するがゆえの俗性が、自己矛盾的に生じることになるとも考えられるのである。
今や多くの非宗教者にとっても、宗教は概して日常の心象風景の中に良くも悪くも溶け込みつつあり、実に多様な宗教情報に溢れた社会となっている。当然、この中にはいのちの真理につながり得る確かな伝道情報も存在するかも知れない。しかし、場合によっては誤謬や虚飾に満ちた情報、あるいは、短絡的で興味本位の情報も多く含まれているおそれもあり得ることは否めない。特に近年では、情報化の影響により、宗教儀礼や行事の性格に、信者のみが参加する教団内完結型から、マスメディアを利用して教団外に広くアピールするような公開型への変化も一部みられるようになったという
4)
。もはや宗教は宗教者のみの領域ではなく、非宗教者の生と死をめぐる諸問題にとっても潜在的な帰属領域となりつつあるのである。
このような背景において、自己の生と死をめぐる諸問題についての非宗教者の模索は、その実存の可否をめぐりつつ、人間の価値の多様性を生み出し、やがて宗教者の価値意識とも交錯する瞬間を経験する。日常に宗教儀礼や行事を経験し、社会に伝播される多様な宗教情報に接することで、時に非宗教者は宗教に疑念を感じ、あるいは、むしろ信じることで、宗教者の価値意識におそらくは近似するような意識 ─ 言うなれば、宗教者の価値意識に相似して集約されるような自らに内在する何らかの意識に邂逅することもまたあり得るわけである。
全ての宗教は社会的状況の変化の不確定性と、その極端な場合である誕生と死とに直面させられていると捉えるならば
5)
、それはまた、全ての非宗教者にとっても然りではないだろうか。自らの平穏なる日常に培われた漠然とした生と死についての価値意識は、自らの生と死、そして、関係する他者の生と死の事象をめぐって、時に鮮烈に覚醒し得るものである。
いわゆる非宗教者である筆者自身も、このような経験をこれまで幾度となく繰り返しては、その都度、不可思議な感覚に襲われた経緯がある。例えば、平素よく知る友人に子どもが生まれ、初めてその子に出会った時がそうであった。一方で、まだ筆者が二十歳になったばかりの頃、親しかった友人が突然に自らのいのちを絶った時にも非常に強い生と死の感覚を意識したものである。交通事故で友人が相次いで亡くなった時もまた然りである。とりわけ、祖母が自宅で急死した時や父の最期の瞬間を看取った時 ─ 最近では母が急に倒れて入院した時も漠然とした死を予感し、同時にその生に愛おしさを覚えた。今、平静なる気持ちで改めて一つ一つ思い起こせば、筆者には死をめぐる悲哀の局面がそれなりに多かったようにも思われるが、他者の死を目の当たりにすることで同時に自らの生を意識したことが印象深い。いずれにしても、そうしたいのちの変動をドラスティックに感じざるを得ない局面に、人間同士の関係における死 ─ いわゆる「二人称的な」死であるがゆえの社会的状況の不確定性のようなもの、さらには、その二人称的な死の意識に即して了解される「一人称的な」死の意識
6)
のような感覚を、今こうして考えれれば、筆者自身強く感じていたようである。
今でも筆者は、自らの人生に深く関係してきた人たち ─ 特に、友人や家族の死の場面に直面した時、平素漠然としていたはずの生と死についての自らの価値意識が急に現実味を帯びたものとなったことを覚えている。その際、いわゆる「生死一如」の理念に近い感覚が心の内に想起されたのが印象深い。また同時に筆者は、深い悲哀の情動に彩られた主観とはまた別の次元に、生と死についての理性的で客観的な心的作用を感じ、やがて再び訪れるであろう「日常」へと回帰していったことも忘れてはいない。
こうした日常の中に潜在し得る非日常的な感覚は、確かに一種の宗教的な感覚にも相通じるものと考えられる。そして、そうした感覚はあくまでも日常より生じ日常に回帰していくようにも思われるのである。宗教者の感覚は、確かに非宗教者の感覚より優れて鋭敏で秩序あるものかも知れない。しかしながら、いのちの事象について懊悩を繰り返す非宗教者ゆえの感覚もまた、それなりに独特の深度をもって、主体的に人間のいのちを捉え得る可能性を秘めているとも考えられるのである。これは決して宗教者の感覚の可能性を否定するものではなく、むしろ宗教者の感覚に相応して本来発現されるべきと捉えられる非宗教者の感覚の重要性を考慮するものである。
一方で、こうした非宗教者ゆえの感覚には、Jean Calvinが預言者の言及を引用して述べる「空しいものを貪って (中略) 愚かな高慢によって破裂する
7)
」ような危険性 ─ つまり、主体的な人間精神が信じて追い求めるべき「心の拠り所」なきゆえの脆弱さのようなもの─ をも多分に孕むことを認めねばならないだろう。人間がその自律性をもって真に自律的存在たらんとすることが極めて困難であるかのように、その人間精神自体も主体的であればあるほどに、真の自覚された意識を確立することは至難の業と考えられるのである。こうした問題は、近世以来の主体的な人間の自覚ゆえに深まる虚無という問題
8)
とも密接に連動する深遠なる命題とも捉えられ、同時にそれは、宗教者・非宗教者共々の日常の場面に共通して潜在し得る根本的問題とも受け止められるのではないだろうか。
特に、多くの非宗教者たちは、こうした日常生活の諸場面から終局的には人生の総体に至るまでの虚無に対し、それについて意識される自然感覚を潜在的に有しながらも、確固たる思想体系を持ち得ない場合が多いようにも見受けられる。このような状況において、非宗教者たちは果たして如何なる心構えをもって、生と死をめぐる虚無を克服していくべきなのであろうか。
その一つの手がかりとして、私たち一人ひとりが、いわゆる「心の故郷
9)
」のようなものを自らの心の内に持つよう心がけることは非常に重要なことであると考えられる。日常から人生の果ての果てまで、人間は何らかの相対的な関係性の中に在り続けていることを鑑みれば、自己が他者と共に生きることで育まれる日常の思索や体験の積み重ねから、何らかの絶対性を有した心の拠り所を抽出していく主体性こそ、非宗教者たちに求められているものなのかも知れない。人間はすぐれて「人と人の間」にあると考えるのならば
10)
、そうした人と人との「間」にこそ絶対的な心の拠り所が育まれる可能性があると考えられるわけである。ここに日常の自己と他者との関係 ─ いわば相対性の内に潜在し得る絶対性の発露の可能性が見出されるような気がしてならない。
日常の営みの中で、多くの非宗教者たちの意識は自他共々に交わり合い、宗教者たちの意識とも多様に交錯しながら、人間の生と死をめぐる社会意識の多くの部分を織りなし続けている。それは自ずから、宗教者・非宗教者共々に協同で多様な価値意識を社会に紡ぎ出していることになるとも捉えられよう。
ところで、宗教・非宗教の別はまた、専門・非専門の別にも通じる捉え方とも考えられる。世に専門は多けれど、専門が専門たる所以はそこに異質性を生じせしめる非専門の日常と非日常があるからであり、この場合においても、やはり両者の感覚は本質的には総じて日常から発し、日常に帰すべきものと考えられる。したがって、非専門に対する専門ゆえの優越性は存在し得ず、翻って、非専門の感覚に根ざすべき専門の在り方こそが問われることにもなり得ると考えられるのである。
例えば、「医療人は時として病者にとって神であらねばならない場合もある
11)
」といった考え方が提示されよう。これは医業は常に倫理的であり、医療者は倫理観に徹していなければならないという「医業=聖業」の主張に根ざす医の捉え方である。確かにこうした意識は、専門にある医療人の立場から見れば理想的で素晴らしいものなのかも知れない。しかしながら、この意識の行く末には、医の専門家の専門家たるアイデンティティが、非専門家たる患者に対してむしろ発揮され得ない逆説性もまた孕まれているとは考えられないだろうか。病者が神ではないように、医療者もまた神たる存在ではなく、ただ一個の人間存在に過ぎぬという専門が専門であるゆえに持つべき自覚は、医を専らに聖とする一方向的意識の内には何ら感じ取ることが出来ないわけである。この意味において、宗教・非宗教の問題のみならず医業の問題もまた然り、俗に対して聖を為すというような発想ではなく、むしろ俗より生じて自ずから聖が為されるよう心がけられていくべきではないのだろうか。
こうした専門・非専門をめぐる医の問題についてさらに言及するならば、「いわゆる医学的事実というのは生物学的近似値である
12)
」という洞察があることも、私たちが留意せねばならない課題の一つである。患者個々人を医療者自らが直裁的に知り尽くそうとする態度それ自体が、そもそも真理につながる事象から大いに逸脱した人間精神の誤差の問題ともなり得ることも考慮されねばならないであろう。この観点において、特に医療者は「何よりも患者が求めているのは、同じ人間として患者に親身に接し、患者の役に立つことを何ものにも代えがたい喜びと思う医師である
13)
」という含蓄ある言葉 ─ これは他でもない医療者自身から発せられた言葉でもあるが ─ を心に銘記しておくべきではないだろうか。
このように医療者もまた、一方向的な聖職者たる倫理的自覚のみでは、非聖職者として仮定される患者たちの虚無を癒すことなどは到底為し得ないと考えられるわけである。むしろ真に医療者が自らの社会的に特化した存在をして、真に専門家であり聖職者たらんと欲するのらば、その対象たる患者の感覚の内に自らの日常の感覚を投影させて省みる発想が必要ではないだろうか。こうした発想をもって、自己と他者との関係性の中で相対的に分析される病の場面に向かい合い、絶対的な癒しの拠り所を患者共々に追求していく倫理性こそ医療の専門にむしろ求められていると言えよう。
特に重要なのは、医療者は当然の如く医療の専門家ではあるが、それは「いのち」の専門家であることを同時に意味するものではないということである。これは聖職者と呼ばれる宗教者あるいは教職者も含めて、おおよそ社会の全てのスペシャリストと呼称される成員にも適用され得る問題ではないだろうか。すなわち、人間のいのちの専門家 ─ 言うなれば「いのちのスペシャリスト」は、あまねく全ての人間に許された可能性であり、誰もがその日常の中に自らのいのちについての専門性を有する資格を持っているとも捉えられるわけである。こうした共通認識をスペシャリストと非スペシャリスト ─ いわば社会で互いに異質なものとして区分され得る二つの群─ が共に有することではじめて、医療者も患者も、虚構のうちに設けられ演じられる神ではない、まことの神を現実に感じるものではないだろうか。
こうした観点において、宗教者と非宗教者、聖職者と非聖職者、医療者と患者、あるいは、専門家と非専門家は相互に不可分な存在であり、それを不可分たらしめる日常が社会に在り続けていると言えよう。だからこそ、これからの社会には、宗教者と非宗教者との協同の営みによって、日常のうちに人間の叡智を陶冶させるという発想が求められているのではないだろうか。ここにおいて、私たちの日常には、宗教・非宗教の領域を問わず、いのちの哲学が生じ、いのちの実践が生じていく可能性が常にあると考えられるのである。バイオエシックスとは、まさにこうした境界なき人間精神の一層の発展を期すべく、私たち一人ひとりが紡ぎ出す叡智の営みであり、あくまでも私たち自身の日常とともに形成され続けるべき学問と捉えられるものである。宗教も非宗教もまた然り、両者は人間精神のうちに日常共に在るべき不可分ないのちの営みなのではないだろうか。
註
1)
井上順孝:1999,
『現代日本の宗教社会学』
, 世界思想社,「まえがき」を参照。なお、2000年3月2日付の読売新聞の日本人の宗教意識についての調査によれば、調査開始時の1979年は、宗教を信じている人の割合が33.6%と過去最高の結果を示し、その後は減少傾向にあったという。オウム真理教に関連する事件のあった1995年は最低の20.3%であったが、2000年度の調査結果では22.8%と微増に転じたという。
2)
井上順孝:2000.4.24,『若者と現代宗教』<
http://www.fpcj.jp/j/fgyouji/br/2000/000424.html
>
3)
石田 慶和, 薗田坦 編:1999,
『宗教学を学ぶ人のために』
, p. 203
4)
井上順孝:1999,
『現代日本の宗教社会学』
, 世界思想社, p. 151
5)
Niklas Luhmann, 土方昭/三瓶憲彦訳:1999,
『新版 宗教社会学』
, 新泉社, p. 86, 113
6)
清水哲郎:2000,
『医療現場に臨む哲学』
, 勁草書房, pp. 212-217「8・2 人格の死と身体の死の連関」の項、及び、村上陽一郎:2001,
『生と死への眼差し』
, 青土社, pp. 231-234「健康ブームの影で」の章を参照。
7)
J. Calvin著, 野村信訳:2001,
『霊性の飢饉 ─ まことの充足を求めて』
, 教文館, pp. 98-99 こうした批判を為すにあたって預言者が問題としたのは、この世で快楽と愉悦だけを欲し、酔いしれている人々でもなく、また自分の時間を浪費し、宗教に無関心な人々でもなく、「最も信心のある者たち」であったとしている点は当時の西欧宗教界の歴史的背景を考慮してもなお、深く考えさせられる現代の信仰をめぐる課題と捉え得る。なお同書は、宗教改革者Jean Calvinがジュネーヴで1558年7月25日に行った「イザヤ書第55章1-2節」についての説教を収録・解説したものである。
8)
西谷啓治著, 上田閑照編:2001,
『宗教と非宗教の間』
, 岩波書店, pp. 273-307「現代の虚無と信仰」を参照。なお、初出は1964年3月
『現代しんらん講座』
第3巻。本論中、近代の人間の主体的な立場をめぐり、仏教でいう絶対他力という立場について、これを自力をして真に自力たらしめるという立場に相応したものと捉え、そのような立場をはっきりさせることが現代の信仰の問題であると言及されているのが印象深い。「この世の生活というものを、どこまでも生きぬいてゆくということが、実はあらしめられているということの実現であり、人生の意味の会得である」という慧眼は、宗教・非宗教の別を超えて、人間存在についての哲学的洞察の一つの主要な指標とも捉え得る考え方ではないだろうか。
9)
土井健郎:2001,
『甘え・病い・信仰』
, 創文社, p. 147
10)
棚橋 實 編著:1998,
『いのちの哲学 ─いま生命倫理に問われているもの』
, 北樹出版, p. 34
11)
日本医師会編:2001,
『改訂・最新医療秘書講座 (6) 人間関係論, グローバル・バイオエシックス』
, メヂカルフレンド社, p. 151 "極めががたきは「道」" より。
12)
Barnard Lown著, 小泉直子訳:2000,
『治せる医師・治せない医師』
, 築地書館, p.148
13)
Bernard Lown著, 小泉直子訳:1998,
『医師はなぜ治せないのか』
, 築地書館, p.192
(河原 直人/早稲田大学人間総合研究センター助手)
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