バイオエシックスにおける自己決定と新自由主義
J9B062-5 菊池裕史

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1. まえがき
   「世界史の地殻変動」に見舞われるこの世紀末に、近代を支えてきたはずの価値や制度が瓦解しつつある。動揺させられているのは生命倫理も同じである。そこで我々はもう一度近代が生み出した原理・原則に立ち返る。自由とは放恣に流れるものであってはならない。自由とは秩序との相対で成り立つものなのである。

2. 自由の普遍的価値
 フランス革命観の再考が試みられるなか、旧態依然の革命観を絶対化するのは郷愁に浸り過ぎだ。革命の思想的基盤となった啓蒙思想にも疑義を呈するべきである。「民主主義の父」と言われるルソーは不平等、貧困、隷属がなくならない状況に対し、理性を絶対視する合理主義の思想で現状打破を試みた。その思想が革命を引き起こしたといっても過言ではない。
 理性主義的あるいは主知主義的人間観が社会に同心円的に拡大していくことを願ったミルの『自由論』は、バイオエシックスにおける自己決定を考えるときに格好の材料を提供してくれる。しかし、最大多数の最大幸福という社会的正義を普及させ、その結果、フェビアン主義に少なからぬ影響を与えたミルの言葉を信じるわけには到底いかない。また、ミルの他害原理を徹底したら、社会的慣行に抵触するのは必定である。

3. 自由主義の真髄
 新自由主義の重鎮・ハイエクは、無知を自覚せず拘束を受けない自由を徹底的に批判した。ハイエクが重視するのは理性の不完全性であり、自由とは慣習の拘束を受けるものなのである。「真の自由は生得的あるいは環境的な不平等のうちの少なからぬ部分を、むしろ自己の逃れがたい宿命として引き受けて、その宿命のうちではなおも活力ある生を組み立てようとする努力のことである。自由は秩序との相対で成り立つのであり、その秩序のうちには様々の不平等が含まれている。秩序に制約されつつ秩序と抗争するという二面的な過程こそが自由の本質である。」(西部邁)

4. 自由の変容
 バイオエシックスにおける自己決定がプライヴァシーの権利の観点から論じられるとき、自由が放縦・放埒になる可能性がある。自己決定という理念それ自体はすばらしくても、その現実態は欲望に支配されやすい。バイオエシックスにおける自己決定は他人を嫉妬させ、感情的対立を招き、さらにその行動が社会全体に蔓延することで長期的に見ると社会を退廃に導きかねない。日本は訴訟社会ではないのだ。インフォームド・コンセントは米国人ですらその不備を指摘する。また、尊厳死という奇妙な言葉でおのれの死を美化してみせるのは、生者の傲慢であろう。

5. 民主主義の過剰
 オルテガは、自分の運命を受け入れず、凡庸な人間が凡庸さの権利を押し付けることを「大衆の反逆」と呼んだ。何かと国民のコンセンサスが要求されるバイオエシックスも大衆民主主義の問題を孕んでいる。人権、平等といった原則が、欲望を満たそうとする便宜の前に倒れていく危険性がある。民主主義という理念は民主主義そのものによって、その生命を断たれる。

6. 自由のゆくえ
 自由が価値を有するのは、それが理想であるからであり、それがひとたび現実になりおおせると、取るに足りないものに変質していく。いや、そればかりか自由そのものの理念を殺してしまうことさえある。民主主義のもとの過剰な自由は全体主義をも誘発する。

7. あとがき
 バイオエシックスは価値相対主義であってはならない。価値相対主義者の言説は綺麗事に終始しがちで、心底は強固な絶対主義者であることが多々ある。議論を通じて価値の論争に挑むならば、それは絶好の生者の意思表明となる。万に一つの可能性に大きな価値を置く自由主義者は、絶対的価値に信仰と懐疑をもつ。


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