子供へのインフォームド・コンセント
J0B048-2 門脇 亜希子

Japanese | English

 医学において、科学技術の進歩は私たちに人間としての生と死についての考え方に変化をもたらし、また混乱までも招いている。私たちは命の主権者として、自分の生と死に関わる価値判断を他人や専門家に委ねていてはいけないのである。
   患者中心であるべきの医療が技術中心のものになりつつある今、私たちは"患者の権利"について考えなければならないのである。"患者の権利"の中で原理とも言われているのが"インフォームド・コンセント"である。これは日本語に訳すと「説明と同意」であるが、これは「告知」とは異なり、簡単に言えば、リスクが伴ったり、別の方法があったり、または成功率の低い治療や処置について患者に同意を求めるにあたっては、あらかじめ然るべき情報を提出しなければならないということである。
 この"インフォームド・コンセント"は、生死に関わるような医療において重要なのと同様に、日常の診療においても重要なのである。父権主義的な関係にある日本の医師と患者の関係の中で、"インフォームド・コンセント"を取り込むのは難しいことかもしれないが、現在、アメリカでは法律でも医療倫理においても広く受け入れられている。また、驚くことに6歳以上の子供にも"インフォームド・コンセント"を行っているのである。
 1992年9月、ジョージタウン大学にあるロンバルディ癌研究所を訪ねた。研究所であるはずなのに研究所くさくなく、大学病院の附属であるのにインターンの姿もないのである。一階には外来専門の小児クリニックがあるが、入り口の本棚が絵本でいっぱいだったり、待ち合い室には広場があったりと全く病院らしくないのだ。広場にはおもちゃやクレヨンや粘土があり、子供たちは待ち時間に遊べるようになっており、壁にはその子供たちの作品が飾ってあるのだ。また、ソーシャルワーカーが常に待機して、遠目で見れば幼稚園のようなのである。
 この大学附属の研究所はすべての患者がリラックスして、気持ちよく治療することを第一に考えているのである。治療というものは、患者やその家族の理解と協力と共に、医師への信頼と「協」(=コミュニケーション)がなければ始まらないのである。
 親は子供を傷つけたくないばかりに事実を隠したり、良い事だけを約束したりするが、子供の想像力とは大人が思いもしないもので、その自分の空想と少しの知識をつなぎ合わせた世界は、現実よりもずっと恐ろしいものだったりする。だから、親が良かれと思ってやっていることは子供を傷つけないどころか、ただ、ウソをついているだけなのである。
 ケガをして切れたところを見て"大丈夫"と大人は言うが、子供としてみれば"何が大丈夫なんだろう?"と思ってしまうのである。子供が求めているのは"大丈夫"や"平気"という言葉ではなく、"痛いけど、我慢できる?"といった心配する親の本心なのである。
 子供は大人と違って知識が少ない分、真実だけを素直に受け入れることができる。死に対しても、子供は子供なりに悲しいと感じるのである。それではいけないのだろうか。死が悲しく寂しいことだと理解できる子供に、死は残酷だから伝えないなんてとてもおかしい。子供はきっと子供なりに処理をするし、その場ではできなくても、時間が経てば受け入れられるのである。
 21世紀を前に、技術と人間の倫理が行き違いを起こしている今、現実から目をそらさずに生きていくことが大切である。無知でいることは在りのままを受容するよりもはるかに恐ろしいことなのである。
 もし、子供が"人生の出来事"(出産や死)について素朴な疑問を投げかけてきたら、大人は勇気を出して、子供の心を見つめて正直に答えるべきである。素直な心を持つ子供から学ぶことは多いと思う。


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