人間はこの世に生まれてきたからには、誰しも自らが「生きる」権利を持っており、また誰もこの権利を剥奪することはできないはずである。ところが日本においては、例えば自分が病によって死ぬか、生きるかという重大な瀬戸際にあっても、医者は患者である自分に対して正確な情報を与えず、「まぁ、まぁ、大丈夫ですよ、頑張りましょう」というような曖昧な言い方しかしない傾向が強い。人間は、自らが生きる権利を持っている以上、当然自分の病名や症状、治療法や予後などの情報について知る権利をも持ち合わせているはずである。
この論文では、人は皆自分が「生きる」ために必要な情報を得ることができ、また自己の意思によって生き方を決定することができるということを一貫して述べている。医療従事者と患者との関係において参考にすべき点が多いアメリカと比較をし、患者が「生きる」ことができる新しい医療への方策を論じる。
第1章 日本における末期患者の現状
現在日本の患者が置かれている現状について述べる。とりわけ末期状態にある患者は、病との命がけの戦いに置かれることになり、医療従事者との関係が鮮明にあらわれやすい。そこで、末期状態の患者がどのようにして病と立ち向かっているのかを実例で紹介し、医者との関わり方に注目する。
また、章の後半では、欧米における伝統的医療倫理について述べ、患者の自律性が新しい価値観を生み出したことについて触れる。
第2章 アメリカにおける末期患者の現状
日本での患者と医療従事者との関わり方を比較するために、アメリカでの患者主体の医療を眺める。具体的には、筆者が昨年訪れたワシントンのホスピスを末期医療の一環として取り上げ、日本との比較を行う。
また、章の後半では、パターナリスティックな医療に対する批判を交えながら、医療従事者が身に付けなければならない要素について述べる。
第3章 感性と教育
両国間の現状の違いを把握したところで、なぜこのような違いが生じるのかを「いのちの意味」という角度から考える。具体的には、日本と西洋における「愛」に対する思想の違いについて論じ、他者を自己のごとく理解することの大切さを述べる。
患者を主体とした医療を実現するためには、まず現在の医学教育を見直さなければならない。それは医者や看護婦が、患者の気持ちを自分のことのように理解するための感性を身に付けさせる教育を意味する。
医学を学び、これからの医療に携わろうとしている者に対して、「死の体験学習」をデス・エデュケーションの一環として行うことを章の結論として述べる。
第4章 結論
第3章の内容を踏まえた上で、端的に結論を述べる。
日本において、患者主体の医療を実現し、患者の権利と呼ばれるものを獲得するために、筆者は医学教育機関が現在の科学一辺倒の教育を見直さなければならないと考える。
しかし、教育によって人間の感性がどれほど深まるものかは分からない。そこで、筆者が最低限期待することは、医療は科学の考えだけで成り立つものではないということを医学生に認識させることである。