医療におけるケアとキュアのバランス
J2B078-1 後藤彩千子

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はじめに

 カルカッタにある《死を待つ人の家》は、マザー・テレサが設立した末期患者のための看護施設で、病院に入れないほど貧しい人々、特に瀕死の人々が運ばれてくる。105台のベッドが並ぶこの施設には、病院やホスピスにあるような医療機器はなく、医学的な治療はほとんど施されない。
 「私達にとって重要なのは、死の間際の救済において、現代医学で行われている"成功・失敗にこだわる" 治療を施すことではありません。見棄てられ、自分は誰からも必要とされていないと感じている人々が、ここで尊厳をもって死ぬことができるように仕えることです」とマザーは言う。つまり、ここでは死を待つ患者への奉仕は神への奉仕なのである。
 だが、マザーのこのような姿勢を非難する人も多く、同じくカルカッタで、路上病院をやっているイギリス人医師プレーガー氏もその一人である。「マザー・テレサの救済施設では、専門的な治療を充分に受けさせていない。瀕死の患者でも、治療によっては死なずに済むこともあるのに。献身的な世話だけでは不十分である。さらに、《死を待つ人の家》では重病人が目的のための手段に使われている。シスター達にとっては神への奉仕のために使われ、また職業訓練を受けていないボランティア達にとっては、経験を積むための場所になっている」と言い、自身は、投薬と医学的治療がメインの現代医療形態をとっている。

キュア概念

 「生」を基点とし、「生の原状回復」を目的とするキュア概念では、患者は健康な「生」から逸脱したものとされ、正常に引き戻されるべき存在として捉えられる。それゆえ、その関係はどうしても、健康者に対する病者、正常者対異常者、強者対弱者といった構造になり、バイオエシックスにおいてよく問題にされる「医者-患者関係」のパターナリズム、つまり、治療者を強者に、患者を弱者に位置づける「上下関係」「主従関係」などの一方的関係を生み出しやすくなるのである。また近代科学・技術モデルの医療は、多分に「男性原理」を重んじるものであり、その断片的・分析的性格は'患者にやさしい患者主体の医療' とはいえない、偏ったものであった。
 さらに、手術、薬物、放射線などの医学的治療技術を中心とする医療では、強い治癒・延命への野望が、"死=医療の敗北" という思想を根付かせた。

ケア概念

 ケア概念はキュア概念と違い、「死・老い・病いを含んだ生」が基点であり、医療者と患者が互いに有限な存在である自己を受容し、生の歩みをともにするのであり、人間存在の全体的認識と受容、相手との相互作用的認識を特徴とする。
 患者の不安や懸念なども察して、人格全体を包括的に治癒することは、思いやりや直観のようなものが必要だが、そういうものは目に見えないため、科学・医療から排除されがちであり、「看護」は医療体系にあって、医師の手足とされる看護婦達、つまり女性による副次的な仕事にすぎないと軽視されてきた。
 しかし逆に、ケアの部分だけに重きを置くことは、ケアがある意味で、医療者と患者の共同作業であり、医療内容の評価が主観に頼りすぎるので、ややもすると、一部の医療提供者の自己犠牲的行為を招いたり、逆に自己顕示的ないし英雄的行為に陥らせたり、医療者・患者双方の慈善的自己陶酔的行為に走らせてしまう危険性をはらんでいる。

ケアとキュアのバランス

 新たな医療概念として、ケアとキュアを同等に包括した「癒し」を提唱する向きは、ますます盛んになってきており、その基本となるのは、あくまでも患者自身を第一に尊重する、中立的かつ非宗教的なバイオエシックスの理念である。「ケアとキュア」の対照的な両性質は、「宗教と科学」「男性原理と女性原理」そして「生と死」のように、本来はどちらか一方の偏重ではなく、同等に活かされるべきものである。
 このような"相反する性質" "多様性" の包括には、摩擦や葛藤が避けられないが、しかしそれがかえって互いの自律性を発揮させることにもつながるのである。
 実際にボランティアとして体験してみた《死を待つ人の家》とプレーガー医師の路上病院の医療現場で実感したのも、キリスト教でいう奉仕の精神や隣人愛といった"ケア" の精神、そして医学的技術と経験を必要とする"キュア" の、そのどちらも欠けることなく両方を伴った、包括的な「癒し」の必要性であった。


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