バイオエシックス的観点からみた
障害新生児をとりまく諸問題

J2B167-8 武野亜貴子

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はじめに

 妊娠がわかったとき人々はそれを「おめでた」というように、新しい生命の芽生えとは、本来、文字通りめでたいものであるはずだ。
 しかし、実際にはすべての母親が万事無事に丈夫な子どもを産めるとは限らない。母子共に生命の危機に直面する出産のケースは少なくないのが実情だ。生まれたとしても未熟の上、重度の障害を持ち、産声をあげる間もなく多くの管につながれる新生児もいる。思いもよらぬ事態を前にして、児の両親は一体何を思うのであろうか。
 近年の医療技術の発展を背景に、「一命をとりとめる」ことのできる範囲は確実に広がりを見せている。しかし、それと引き替えに、人々は生命の尊厳の名の下に、非常に耐え難いジレンマを課される結果になってしまった。今や、生命はその始まりも終わりも選択いかんによって決められる時代なのである。危機に瀕する新生児の周りでは、両親・医師ら様々な人々達の意見が交錯している。児の最善の利益(best interest) をめぐる苦渋の決断 -積極的な治療に臨むか、治療拒否し死ぬにまかせるか- が迫られているのだ。
 バイオエシックスの4つの視座のうち、まず基本とされる自己決定権が児にはない。決断は代理決定(by proxy) に委ねるしかないのである。
 本論文では、子どもが障害を持って生まれ、蘇生手術が必要と診断されたとき、医療現場における倫理的問題を生み出す「治療するのか、それともしないのか」、障害新生児の一歩手前に位置する出生前診断により、胎児にあらかじめ障害があることがわかったときの「産むのか、産まないのか」、それぞれが抱える問題を、特に「障害観」に視点をおきながら、バイオエシックスの観点に照らして明確にすることを目的とする。

第1章 障害新生児のおかれる立場

 新生児が障害をもった故に居場所を失うことはいつから始まり、そして新生児とはそもそもどのような存在だったのであろうか。
 人々はいかに物質的な豊かさを享受しながら生きて行くかに価値を見出してきた。その結果として「障害と共に生きて行くことは、障害を持たない者の受ける福利からは到底手の届かない場所に追いやられることを意味する」と信じるようになってしまったのではないだろうか。
 ここでは西洋・日本それぞれで昔は障害を持って生まれた子どもはどのような境遇にあったのかを示し、それが現代の立場とどのようにつながって行くのかを導き出すことにする。

第2章 NICUにおける障害新生児の実際

 NICU(新生児集中治療室)は、24時間体制で繰り広げられる新生児ドラマの舞台である。しかし、多くの危険が持ち込まれるということは、その分、舞台裏での苦悩すなわち治療をめぐるジレンマもたくさん背負うことになる。ここでは、具体的な疾患を挙げ、実際にNICUではどのような治療方針をとっているのかを、倫理委員会の現状と共に示す。

第3章 障害新生児の法的立場

 アメリカで過去に起こったBaby Doe事件について取り上げ、当時治療停止をめぐってどのような法が適用され、その後の医療現場にどのような変化がもたらされたのかを述べる。そして現在の日本において、児を不当な治療停止から守るには、どのような法の適用が考えられるのか、いくつかの例を挙げて考察する。

第4章 出生前診断をめぐる諸問題

 産婦人科で浸透してきた出生前診断の現状を紹介する。その後に出産前に胎児の様子を知ることが、障害児を産まないための一つの策になってしまうのではないかという危惧を表明する。

第5章 バイオエシックスの観点から
   障害とQOLを考える

 SOLとQOLを比較して、その二つの観念の接点が見出されたときに治療への道が開けるのではないかという持論を展開する。また、治療停止の決定に両親の障害観の入る余地はあるのかを、バイオエシックスの4つの視座から探る。

第6章 バイオエシックス的観点からの結論と提言

 結論として、無益な延命治療は存在すると思われる。治療の決断の基準として、児を育てていく周囲の人々が公正の視座を厳密に加味した上で児に対してのQOLの可能性を見出せるかどうかが大きなポイントではないだろうか。
 新生児医療現場への提言として、両親がより良い決断へと進めるように、病名告知後のサポート体制を万全にすることが大切である。さらに、情報提供の際にセカンド・オピニオンを取り入れていくことと、チーム医療の実践が、このサポート体制をより充実したものにすると考える。


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