国連とNGOによる旧ユーゴ難民の保護に関する一考察
J2B043-9 尾川治子

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 戦後50年を迎えた今年の夏、私は民族紛争の続く旧ユーゴスラビアの難民キャンプでのボランティアを体験した。多くの人々の平和が奪われ、数え切れない人の血が流され、難民の人々の苦しむ姿を見た。それでもなぜ戦争をするのだろうか。過去の悲惨な戦争体験から人類は何を学び得たのか。第二次大戦における戦争犯罪と同じことを、我々先進諸国は繰り返さないであろうし、少なくともなぜしてはならないかを理解している。それを支えるものは、「人命」が最も優先されるべきであるとする考え方、そして「人権」尊重の概念であろう。
 しかし、彼らには「人命」・「人権」より大切だと信ずるものがある。我々には理解し難いが、民族・文化・宗教を共有する共同体の連帯意識、人々の意識の底を流れる「誇り」が命を懸けられるほどのものである、ということは否定し難い事実のようである。過去の戦争と、同時進行で起きている民族戦争。この決定的相違は、我々先進諸国が、国連の平和憲章などの一定の「規約」に従うことによって対立を避けうるのに対し、民族間対立の場合は、強硬なナショナリズムに裏打ちされており、従うべき「規約」の枠がないということである。ここに正に私が探ってみたい深い淵がある。
 我々が正しいと信じ、先進諸国の「平和」が立脚しているところの「人権」の概念は、国家、文化、宗教、政治形態などあらゆるイデオロギーの枠を超えては、成立し得ないものなのであろうか。
 エンゲルハルトは著書『バイオエシックスの基礎付け』のなかで、「倫理性のもっとも根本的な原理は「平和」である。これは国家間の平和という意味ではない。価値観の対立が、ある契約や規定によって解決されることを、対立する当事者の双方が期待している、という意味である。」と述べている。
 今や世界中の難民の数は3千万人にのぼるといわれる。そのおよそ10分の1を占める旧ユーゴの難民の実態は、様々な意味で、これまでの国際社会の基本的な保護政策のあり方を揺さぶっている。国家という枠組みと人道介入の問題は、まさに異なる価値観をもつ者同士が、問題をある「契約」によって解決する事を、対立する両者が期待しているかどうかによるのである。
 難民問題の原因は、多くの場合単純な一点である。つまり、難民発生と言うのはその発生する国の内外において、強力な力を持つ個人や組織の下した決定がもたらす当然の、予測しうる結果だということである。従って、根本的な解決というのは、「いかなる個人も集団も、他人に及ぼす結果を考えずに、自己の利益だけを追求する権利はない」という原則を改めて確認することから始まる。私は、結局はこの「契約」とは、この原則に則った「人権尊重の概念」であるべきであるというスタンスで、難民問題の解決の道を探ってみたい。
 まず第一章の「難民と国際安全保障」において、現在の国際社会が受け入れている「難民」や「難民の保護」に関する原則を探る。第二章の「旧ユーゴ難民保護戦略」では、国連機関の原則論的保護の下におかれている旧ユーゴ難民380万人の状況を述べた上で、現在の保護政策に見える弱点・問題点を検証する。
 第三章「国際人道援助のあり方」では、国家主権と介入の問題に焦点をあてながら、ユーゴ難民に展開されている国際機関による援助活動について述べ、第四章「人権保護の視点から見た国際機関の取り組み」では、紛争地域、難民キャンプなどで起きている多様な人権侵害の実例を挙げる。そして、これら被害者の救済のための措置および、国家の指導者の加害者としての責任の追求について述べる。第五章「難民保護におけるNGOの役割」では、国家間レベルでの政策に携わる国連機関と、人間中心の活動を現地で行うNGOとの役割分担と、その根底に流れる人権思想について述べる。


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