死の概念に関する一考察
J94B043-3 木下幸紀

Japanese | English

[ 序章 ]

 序章においては、何故、人間は「死」に興味を持つのか、更に「死」という言葉の起源をめぐって神話などを例にとり考察した。
 神話は世界中どこでも似た構造をもっている。「死」に関しての構造をおおまかに見ると、ある人物が死に生き返りたいと願うが、別なものがはねつける。そして死が決定となる。そのはねつけるという行為は、未開民族では踊りなどの儀式となるし、現代の日本では葬式となると考えられる。

[ 第一章 ] 現実から考えた「死」の恐怖

 本章では、末期患者の声、そして戦地へ向かう若者の手記などを手がかりに「死」の恐さを考察した。
 「死」は人間にとって根本的な恐怖の対象である。現代でも、日本の法律のもとでは犯罪者に罪を償わせるために死刑制度が存在しているということがそれを示しているだろう。これまでの人類の歴史は、「死」への抵抗という側面もみられる。

[ 第二章 ] 形而上的「死」の捉え方

 本章では、何故「死」は恐怖とされているのかについて、ハイデッガー、ソクラテスなどを例にとり哲学的推論を行い、また、仏教、儒教、キリスト教などを例に宗教的推論を行った。
 死が恐い、恐くないの観念が何故広まるのだろうか。それは「死」が社会にとって必要だからではないだろうか。「死」とはもともと人間ならば誰しも通過しなければならないものである。つまり、自然の一環として受けとめれば良いだけのものである筈である。多くは「死」を人間の有限性と認識することによって、「生」を満喫できるという。死の概念を動物の中で唯一獲得した人間だけが生きる楽しみを味わえるのである。

[ 第三章 ] 殺人者の「死」の観念

 本章においては、さらに、一般的ではない「死」の捉え方の例として、神戸の酒鬼薔薇事件、フランスのピエール・リビエール事件について検討を試みた。

[ 終章 ] 「死」を平穏に迎えるために

 結論においては、前述したことをふまえた上で、どの様に「死」を理解すれば、来るべき「死」に対面できるかについて考察した。
 人間が「死」を特別な現象として捉えてきたということは、「死」を恐いと捉える方が人間に便利であったからであろう。例えば、中国の道教が追求してきた不老不死が存在するとすれば、生きる目標もなくなり、惰性の命をなぞるだけになってしまう。しかし、実際には「生」は終わり、つまり目標があるからこそ、真剣に生きることができる。また、「死」が人間の自然のプロセスにすぎないとすれば、余計な不安などに固着せずに「生」を謳歌できる。色々な死の概念が存在するが、人間個人個人は自分にとって有利な死の概念を選択すればよいのである。どの概念が広がってゆき、どの概念が衰退していくかは、その時代時代の世相が反映される。食糧難や戦争とは無縁で、直接の命のやりとりに関わることなく生活することもできる現代の日本では、死に対する感覚が狂っているのかもしれない。
 特に近年起こっている様々な事件や自殺の増加などを考えあわせると、現代人の命に対する感覚は異常である。人間の本能はかなり昔に進化をやめてしまい、現代の我々には合わないものなのかもしれない。我々は、生や死に関する本能に頼るよりも、生や死について考えることを重要視しなければならないのではないか。つまり、「死」を、もっといえば「生」を、原点に立ちかえり、もう一度理解し直す必要がある。


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