脳死と臓器移植をめぐるバイオエシックス的考察
〜脳死は本当に「人の死」なのか・医療現場の密室性を問う〜
J95B185-1 山口智子

Japanese | English

(この卒論発表当時、日本国内では未だ脳死からの臓器移植は実現されておりませんでした。しかし、その後間もなくの1999年2月28日、周知の如く臓器移植法施行後、日本国内で初めて脳死された方からの提供による心臓・肝臓・腎臓の移植が実施されました。)
1. 脳死 (Brain Death) とはどういう状態か
 脳機能 (生理機能を司る脳幹部分を含む) が全て停止し、呼吸をし、心臓も動いているが、その後確実に心臓死に至る状態のことを指す。脳死の判定基準は世界でも様々である。いわゆる植物状態とは異なり、人工呼吸器で心臓が動いていても回復しない状態のことを言う。
 本来脳死は脳外科医の大きな治療テーマとされてきたが、1967年南アフリカで世界初の心臓移植手術が行われてから、新しい死の概念として様々な論議を呼んだ。第1章では、脳死の定義を理解し、現在曖昧になりつつある人間の生と死の境界線を日本人がどのように模索し、新しい死の概念として、脳死を容認しているのかを考えていきたい。

2. 脳死・臓器移植の問題点を考える
 脳死に伴う臓器移植法が成立してからほぼ1年半。未だ脳死患者からの臓器移植は実現していない。
 一体何故か。様々な論議が飛び交う中でもう一度認識しなければならないのは、この法案に見直すべき点があるということの前に、本当に「脳死=人の死」としてよいのだろうか、日本人という国民の意識の中に臓器移植というものに対する根本的な畏れの念、人間の体を資源として扱うことの是非、人体機械論への批判、そういう意識が横たわっているのではないか。
 第2章で、脳死・臓器移植法に関して、法律、文化、社会、民族、経済の各面からの問題点を挙げ、考えていきたいと思う。
 まず第一に「見えない死」という言葉に代表される医療現場の密室性の高さを問う。集中治療室や無菌室、確かに医療現場においては欠かせない存在であるが、それは医療現場を不透明なものにしている最大の原因でもある。外からはうかがえない密室の中で医師はどんな治療を施しているのか。救命治療を信じている家族、しかし中では移植の為の準備が進められてはいないだろうか・・・。事例をもとに分析していきたいと考えている。
 第二に脳死に関わる医療経済について考えていきたいと思う。「脳死=人間の死」であるならば、脳死者に医療保険は効かない。現在の法では脳死者にも「当分の間」は、治療を続けることができるだけの費用を保険から出すと定めてはいるが、果たして「当分の間」はいつまでか。
 医療経済が破綻するから脳死を人の死と認めるのか。諸外国の状況はどうなのか。脳死を論議する時にタブー視されがちな医療経済は、臨床現場において避けては通れない問題である。
 第三に、人体に対しての各国民の意識、文化的背景、民族性を問う。人間の臓器をリサイクルできる資源としてみなしてよいのか。人体機械論に対する批判、国ごとに違う人間の体に対する意識、それらを考えることで臓器移植に対する国別の意識を探っていきたい。
 第四に、臓器売買の実態をもとに、人体の価値に対する意識を引き続き考えていく。
 最後に、人の死を本当に法律で定めてよいのか、新しい死の概念として脳死は本当に容認されるものなのか、法律の面から考えていく。

3. 臓器移植の新しい道を探る
 「臓器移植が成立したのに何故?」
 「本当に移植できる日が来るのか?」
 特に、苦しんでいる移植でしか助からない患者の思いは切実だ。けれども、移植医療に大切なのは、目の前の患者を何人救えるかということの前に、これから行われる臓器移植は、その経過や問題点、意識の在り方が後世に大きな影響を与えるということを認識して実施されなければならないということだ。
 これからの臓器移植は一体どのような道を辿っていくのか。脳死=人の死として日本人に脳死が容認される日が来るのだろうか。その可能性を、その行く先を、科学、倫理、方法論として探っていきたいと思う。


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