以上の国際的動向と国内の状況の認識のもとに、本研究では、日本の医療事情と日本の文化的側面に配慮しながら、日本の医療現場における事前指示の具体的な展開の可能性を模索した。即ち、(1) 事前指示の日本の医療現場での必要性の検討;(2) 必要ならば、どの様な形式のものが可能か (口頭か文書かなど);(3) 代理決定者としての日本の家族の役割の検討;(4) 事前指示の法制化の必要性の検討;(5) 各疾患ごとの事前指示、例えば末期がん患者、神経性難病、腎透析患者の事前指示のありうる形態はどのようなものか、などを検討する。
研究全体の初めに、文献調査等による日本・ドイツ・アメリカの国際比較研究を行い、事前指示のあり方の各国における普遍性と多様性について検討をした (発表論文1, 19, 20参照)。
この一般健常人への調査をもとに、次に某大学病院において医師に対して知識・経験・意識を問う自記式アンケート調査を行った (発表論文 12参照)。前記一般人への調査内容に類似の項目に加え、いままで患者が事前指示を行っておけば有効であったと思われる場面に遭遇したことがあるか、事前指示が行われることの有用な点とそうでない点、医師自身が事前指示を残しておきたいか、などに回答を求めた。
アドバンス・ディレクティブ (事前指示:advance directive) とは、患者あるいは健常人が、将来自らが判断能力を失った際に自分に行われる医療行為に対する意向を前もって意思表示することである。事前指示には大きく分類して、
(1) 医療行為に関して医療者側に指示を与える (例えば終末期状態での積極的延命治療の中止)
(2) 自らが判断できなくなった際の代理決定者を委任する
という2つの形態がある。例えば (1) で文書の形で表されたものが、一般にリビングウィルと呼ばれるものである。
アメリカにおいては、現在多くの州法でリビングウィルは法的に有効な文書として扱われている。しかし、リビングウィル自体は、概念的にも実用面でも様々な問題が指摘されてきた。例えば、「積極的延命治療の中止という非常に曖昧な記述では、現場では実質的な意味をもたない」、「直前に気が変わったときはどうなるか」などである。これらの不備を補うため、上記分類の (2) に相当する Durable Power of Attorney (持続的委任権法) が制定された。即ちリビングウィルで不明確な部分は、あらかじめ指定した代理決定者が、患者の意思を尊重して実際の判断を行うという制度である。
一方ドイツでは、いまだ事前指示はアメリカほど普及していないが、1992年には、医療判断を含む財産などの代理決定者を指定することを可能にした法律が制定され、法的に有効な事前指示を行うことが可能な状況にあるといわれている。これらの国々では既に法的な問題は一応決着し、実際に現場で役に立つ事前指示はどのようなものかを模索するという、やや技術的な議論の段階に入っている。
ところで日本において、リビングウィルという用語自体は、次第に社会に定着しつつある。例えば日本尊厳死協会によるリビングウィルは、「不治の状態における積極的延命措置の拒否」、「苦痛緩和」、「数カ月の植物状態の後は、一切の生命維持装置の除去」を医療従事者側に要求する書面である。1998年2月に約8万5千人 (総人口の0.08%) がリビングウィルを所有し、日本尊厳死協会の会員登録をしているといわれている。当然、日本のリビングウィルも、他国で指摘された多くの問題点 (例えば記述の曖昧さなど) を必然的に含んでいる。また、日本においてこれらの文書の法的有効性は保証されていない。
さらに、実際の医療現場で必要になるのは、健常人が持つ終末期治療に関する一般的なリビングウィルに加えて、既に病気を持っている患者による事前指示である。つまり各疾患に即し、各疾患の特徴にもとづいた治療方針や判断に関する事前指示である。例えば、末期がん、老人性痴呆、HIV感染、予後不良の神経難病、末期腎透析などにはそれぞれの病態に即した形の事前指示が考えられよう。
本研究は、事前指示の日本国内の臨床現場での実施の可能性を検討するとともに、事前指示の今後の医療全般に対する有用性を、患者と医療従事者側の視点より検討するものである。同時に本研究で得られる成果は、国際的動向をも視野においている点で、諸外国へ日本の現状と方向性を紹介するという役割を持つ点でも重要である。日本の事前指示に対する理解、解決法は諸外国での議論に参考になることが期待される。
次に日本において、人間ドック男性受診者 (一般健常人) を対象に「治療に関する事前の意思表示」についての知識、経験、意識を問う自記式アンケート調査を行った (発表論文15参照)。質問内容は、(1) 事前指示あるいはリビングウィルに関する知識について;(2) 事前指示の必要性について、必要ならばどのような内容に希望を残しておきたいか、どのくらい詳細に希望を残したいか、どのくらい厳密に希望にそってもらいたいか;(3) 代理人の必要性について、誰が代理人として適切か;(4) 事前指示の適切な形式 (書面または口頭など) はどのようなものか;(5) 法制化の必要性はあるか、などである。1993年度の厚生省の全国調査で、回答者の51%は基本的にリビングウィルの考えを認めるとしておきながら、実際にリビングウィルを書いている人が極めて少ないという現象を説明する要因を探るのもこの調査の目的である。
有効回答は210部で、8割以上の者が何らかの形で事前の意思表示を示しておきたいと回答した。意向を残しておきたい内容は、終末期の治療方針、病名の告知、臓器提供の意思などについてが多かった。また、意思表示の方法は、だいたいの方針を口頭で家族や知人に伝えておき、代理の決定者は家族または親戚とし、法的整備の必要性はあまり強く意識しない、という回答が多く認められた。
一方、事前の意思表示を行っておいた方がよいとは思わないと回答した者 (2割弱) はその理由として、「具体的な場面を想像できないので、答えることは不可能だ」(44.7%)、「そのようなことは、家族や担当医にその場になって決めてもらえばよい」(42.1%)、次いで「現在健康なのでまだ考える必要はない」(5.3%)、「そもそも死ぬとか縁起の悪いことは考えたくない」(5.3%) をあげていた。
現在、日本において実際にリビングウィルを書いている人が少ないという現象には、書面による契約関係が一般的でないという日本の社会的背景、死を語ることの心理的抵抗、「予測不可能なことについては前もって意思表示できない」という事前指示の持つ理論的な限界、などの要因が関与していることが示唆された。
有効回答は72部で、8割以上の医師が患者に何らかの形で事前の意思表示を示しておいてもらいたいと回答した。意向を残しておいてもらいたい内容は、終末期の治療方針、病名の告知、臓器提供の意思などについてが多かった。また、意思表示の方法については書面によるものを望むものが9割弱で、一般健常人の多くが口頭でよいと回答したのと対照的であった。また、だいたいの方針を伝えておき、代理の決定者は家族または親戚とし、法的整備の必要性はあまり強く意識しない、という回答が多く認められた。今後、日本において書面による事前指示が必要な場面は、「残した意向に厳密に従ってほしいと患者が思う場合」「医療従事者側が、真実の意向であることを確認するために書面が必要と考える時」などがあげられよう。
さらに、各疾患別患者の事前指示のあり方を検討するために、ホスピス・緩和ケアを例に取り、ホスピス入院中の末期がん患者への構造化面接 (N=34) およびホスピス・緩和医療に携わっている医師・看護婦 (N=38) に自記式のアンケート調査を行い、アメリカ、ドイツでの調査と比較した (発表論文 2, 14参照)。医療従事者への調査では、ホスピス・緩和ケアの場面では、事前の意思表示は必要なものと捉えられており、国際比較でも大きな意識の差はなかった。このことは少なくともホスピス・緩和医療の場面において、いわゆる「international culture of medicine」が発展してきていることを示唆するものであろう。また、神経難病である筋萎縮性側索硬化症 (ALS) についての検討も行なった (発表論文 19参照)。
「事前指示」のあり方は各文化で、ある程度の差があるものの、第一義的には患者の意向の尊重、第二義的には、医療者側の行為の保護 (法的な面を含む) や家族や医療者側が判断する際の心理的負担の軽減、になるのであろうと考察された。
・・・次頁「出版論文」に続く。