■「病院」, 41 (10), pp. 52-53., 医学書院, 1982. 10.

バイオエシックスと医療

Prof. Rihito Kimura wearing a smile
10. バイオエシックスの思想と文化 - その3
 「全人医療」のための指針 

木村利人 (早稲田大学人間科学部教授)
 1960年代には、主として若い世代の人々によって、既成秩序・価値の否定 (Counter-Culture) が主張され、体制への徹底した反抗が世界的に共通して認められました。
 更に、一般の市民たちによる数多くの人権と生命を守る運動や実践活動が、政治的・社会的・経済的社会変革へと展開されました。しかし、その一方で、人間の内面の変革を制度の変革とともに重視する運動も生まれ、いろいろなグループやプログラムが、米国では今も活発な活動を続けています。
 例えば、その一つの大きな影響は、東洋思想の研究の深化やその実践へと及びました。人々は今までのライフ・スタイルや食生活を変え (簡素な生活、自然食の採用など)、医療や保健の分野にもその大きな影響が見られます。
 このような時代の動きの中で展開されたバイオエシックスの思想や文化も、欧米中心主義の価値観のわくを越えて、世界の諸文化、哲学、倫理、宗教、価値意識、医療思想などを平等に抱え込む形で、大きく未来に向けて構想、展開されつつあるのです。
 「全人医療」(Whole-Person Medicine あるいは Holistic Health とも表現されますが、その内容やアプローチは多様です) という考え方も、このような世界の同時代史の文脈の中でこそ正当に評価されることになります。
 もちろん、「全人医療」の考え方のルーツは、東洋のみならず、欧米の伝統の中にもありました。しかし、近来、欧米医学・医療は一段と「科学・技術至上主義」「非人間化」の様相を呈し、一個の人格を持った「全体としての人間」(Whole-Person) としての患者が無視されがちとなる事態を招きました。このような状況への批判と反省の中から、「全人医療」のアプローチが東洋や非西欧思想を媒介にして起こってきたのです。これはまた、ある意味では、人間についてのデカルト以来の心身二元論的発想への西欧内部からの批判でもありました。
 次に、このような「全人医療」の考え方と従来の医療にとかく見られがちだったと思われる傾向とを私なりに整理し、あえてその相違を対照的に浮かび上がらせ、要約してみました。

  [全人医療]    [従来の医療]  
 1. 病 気      
  • 病因は一つだけではない。人間と自然・文化・社会など環境との調和の乱れや個人の内面の分裂をも大きな要因とみる。
  • 個人のライフ・スタイルが病気に重大な関係を持つ (喫煙、夜更し、偏食、精神の不安定など)。
  • 病気とはある程度計量化され得る生物学的・身体的変異による常態よりの逸脱。
  • 化学物質やバクテリア、ビールスなど、特定の病因子により引き起こされ、特定の徴候を示す。
  •  2. 患者の立場      
  • 患者は病気の原因に直接、間接に責任がある。自らの健康増進保全の主体として、自覚的、積極的に医療過程に参加し、自ら判断を下すための詳しい説明を受ける。
  • 患者は医療従事者に絶対服従・協力が原則。専門家への信頼・依存の強調。詳しい説明や真実は伝えられず、医療従事者との交流が十分に行われない。
  •  3. 医療従事者の役割      
  • 医師は医療チームの平等な一員として協力しつつその責任を担う。医療専門家は患者個々人に適した健康保全・増進・病気の治療をするため患者の言葉に十分耳を傾ける。
  • 健康教育者としての役割の重視。
  • 治療に必要な最新の知識と技術を持つ医療チームの中で、全権を有する専門家としての医師が指揮・命令を発する。医療チームとしての対案や患者の発言を十分に考慮しないケースも多い。
  • 病気の治療者としての役割の重視。
  •  4. 治 療      
  • 治療は、精神的・身体的バランスの調和の回復が根本。治療者と患者との人間関係の重視。患者の独立心、自助精神が治癒を効果的に早めるとし、なるべく薬剤の使用を控え、手術入院を避ける方向で検討する。
  • 治療における選択の余地と患者・家族の意向の尊重 (Informed Consent の原則)。
  • 病気は征服されるべき対象であるので、治療に当たっては科学的な一定の手続きに従って、積極的な薬剤の使用、手術及び入院が当然とされる。専門家としての医療従事者への全面依頼が前提とされる。
  • 治療方針に選択の余地がほとんどなく、説明不十分なまま同意書に署名を求められる。
  •  5. 健 康      
  • 自分の精神と身体が "良い状態" にあるという「心持ち」を大切にする。精神と肉体の調和、内面的安定性を健康に重要な要因とみる。
  • 病気の徴候が存在しないことで健康を意味させてきたケースが多い。精神的・心理的要因 (病因と関連ある場合を除き) は余り重視されない。
  •  このような「全人医療」の発想に対してはいろいろな賛否両論がありますが、従来の医療の良い点はもちろん積極的に評価しつつ、医療の変化の方向を見極めねばならないと思います。つまり「全人医療」の提起した「病気の治療」から「人間の健康」への方向転換の重要性の認識が必要なのです。

      約束と信頼関係  

     言うまでもなく、「全人医療」のための指針は、患者が一人の人間として尊ばれ、その人権が十分に尊重されるということであるべきなのです。患者の病気が治り、仮に身体面での苦痛が治療により完全に癒されたとしても、その治療の過程で、患者の人権が侵害され、かえって精神的に大きな傷が残り、一生消えないということであってはならないのです。「患者が人として十分に尊ばれること」はバイオエシックスの根本原則です。
     患者と医療従事者とは、その人格の尊厳において対等・平等であり、相互に誠実に、病気の治療と健康の回復という一つの目標のために力を尽くすという合意に基づいた「契約関係」に入るのです。したがって、その「信頼関係」をどちらかが一方的、恣意的、意図的に破ることは許されません。患者とのこの「信頼関係」の中で、医療従事者は、患者の求める正確な情報を提供する責任と義務を持っています。もちろん、そのタイミングや告げる方法などで差異はあっても、特に生命に重大なかかわりを持つ事柄について「嘘も方便」は、成立しないのが原則です。
     たとえ、相手に対する思いやりであっても、「嘘」の上に誠実な人間関係が豊かに育つことはあり得ないとするのが当然と考えられるからです。当事者と関係者との相互の愛に支えられた人間としての信頼関係の中で、真実を共有し合い、苦しみ、悲しみ、励まし合うところから、真の意味の看護と配慮 (Care) の倫理が生まれてくるのだと言えましょう。

      医療の倫理指針  

     既に去る1978年に、米国政府の保健・教育・福祉省 (DHEW と略称, ただし現在は HHS; U. S. Department of Health and Human Services) は医療・保健業務のための倫理指針勧告書 (Report and Recommendations : Ethical Guidelines for the Delivery of Health Services by DHEW, 1978) をまとめています。これは、今までのように医療専門家集団が自らのための職業倫理基準として作ったものとは全く異なり、法律家、医師、バイオエシシスト、社会科学者、生物学者、黒人婦人人権運動家等々の人々からなる特別の委員会 (The National Commision for the Protection of Human Subjects of Biomedical and Behavioral Research) が、公聴会など一般の市民との集会を重ねることにより作成したものです。
     この結論の部で、医療の倫理指針として特に重視されているのは、�個人の尊厳、�恩恵の享受、�公正、の三つの原則です。すなわち特定の医療行為は、人権尊重の理念の上に立ち、患者が十分に恩恵を受けられる見込みがあり、不公平な取り扱いが避けられねばならないということです。また、緊急の場合を例外として、「情報を十分に提供した上での同意」が、いかなる場合にも絶対に必要とされています。またその情報を伝えるに当たっては、�分かりやすい言葉であること、�威圧的でないこと、�選択の余地を与えること、�良い結果、悪い結果の可能性を伝えること、といった点が考慮されなければならないのです。
     この医療倫理指針の勧告は、全部で8項目ありますが、特に重要な項目を要約して次に記します。

    医療・保健業務のための倫理指針
    (抜粋・要約)

     第3項:保健・医療業務の遂行に当たっての財源の配分、給付、受給の基準などについての行政決定は、医療・保健サービスの消費者と提供者、法律家、倫理専門家、社会科学者などからなる広範な公的審議を経てなされねばならない。
     第6項:患者の権利
     A. 完全かつ公正な情報を得る権利
     B. 受益者としての関連権利を否定されずに手続 (患者の権利の内容について) を要求また否定する権利
     C. 丁寧でかつ人として尊ばれて診察治療される権利
     D. プライバシーの権利
     E. 苦情委員会などを通し効果的な問題解決を求める権利
     F. 診察記録の内容を知る権利
     第8項:少数者 (Minority) が保健・医療業務に参加するための計画を積極的に推進する。また、医療従事者のための倫理的社会的問題についての教育プログラムの積極的推進を図る。

     「全人医療」は、当然のこととして「全人教育」を前提にしています。米国では医療従事者が極端に狭い専門分野にのみ閉じこもらぬような幅広い教育プログラムが高校や大学の教養課程レベルですすめられています。更に、専門家の再教育や自己研修プログラムも盛んで、州によってはそのための単位の取得が義務づけられています。したがって学会や研修会では、修了証 (単位取得証明) を発行しているケースも多いのです。また、このような集会は、すべて公開でだれでも参加できます。
     上述の要約に明らかなように、私たちは責任を持った人格的・道徳的主体として、そして何よりも自分自身の「いのち」の専門家として堂々と発言し、医療や保健の決定過程に参加する権利があるのです。時代は大きく変化しました。
     バイオエシックスは、人間と環境を全体的 (Holistic) に把握し、旧来の価値基準を問い直すことにより、私たちの一人一人がつくり上げて行くべき「生命 (ビオス)」をめぐっての全体的 (Holistic) な研究分野 (Discipline) なのです。したがって、バイオエシックスは、ビオスについての専門家を平等な構成員として含む社会一般の人たち (Public) の「運動」により支えられ、未来に向かって大きく展開されて行くのです。
    (つづく)


    次号/
    バイオエシックスと医療 (11) 病因での患者教育に続きます。

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