■「病院」, 41 (12), pp. 52-53., 医学書院, 1982. 12.

バイオエシックスと医療

Prof. Rihito Kimura wearing a smile
12. 未来からの教育
木村利人 (早稲田大学人間科学部教授)
 バイオエシックスは未来からの呼びかけに答えて形成されつつある超学際の研究分野です。それはまた、市民による様々な活動、運動により支えられ、未来に向けますます大きく展開されていくでしょう。
 急激な生物、医科学技術の発展に直面して、私たちは「今、ここで何を選択し、決断すべきか」という問いに答えるためにも、将来の見通しや結果、その未来のイメージを描かざるを得なくなっています。
 そこで、本シリーズの最終回に当たり「未来からの教育」としてのバイオエシックスについて考えてみたいと思います。

  イマジネーションを育てる  

 米国オハイオ州に、世界の最高水準の研究所の一つとして有名な「クリーブランド・クリニック・人工臓器研究センター」があります。所長の能勢之彦博士 (・現在テキサス州 Baylor 大学医学部教授, Houston Biomaterials Research Center Advisory Board 所属) と研究所員たちにより開発された人工臓器が牛や羊に移植され、その効果や機能の解明が進みつつあります。人工心臓の初期のモデルは巧みに本来の心臓に似せてつくられたのですが、現在のモデルはむしろスマートで小さな合金製の機械の部品といった感じでした。なるたけ同じ機能を持たせるためでありさえすれば、むしろ本来の心臓とは全く異なったモデルでもいいはずだというイマジネーションから考案されたとのことでした。
 ところで、能勢博士は大のSFファンです。未知の世界や生命へのヒントを得たり、柔軟な思考とイマジネーションを養うのにSFは大いに効果があるとのことでした。また、同博士とも語り合ったのですが、現在の「制度としての教育」は、私たちのイマジネーションをなるたけ働かせなくするための知識の詰め込みと暗記、合理性偏重に陥っていますし、未来を作り出すための豊かな創造的イマジネーションはますます貧困化していきつつあるように思えてなりません。一方、それを補うための未来への教育も、着々とバイオエシックスや価値観教育のコースにより進行しています。それらのコースの中でも、現実にSFを教材にして徹底的な学習をさせる例も増えてきているのが注目されます (例えばウィスコンシンのアルヴェルノ大学の価値観教育やハーバード大学法学部の憲法ゼミ「生物医科学技術と生物幻想物語・SF及び法律」等々 (・法学セミナー「人権とバイオエシックス (1)」参照) )。
 臓器移植の法的倫理的問題はもちろんのこと、クローン人間の人権、地球外生物・動物と人間の合成生物、大脳機能操作、生命・死・人口コントロール、中性人間 (性転換)、試験管内受精、超人間計画、疫病の人為的流行計画、細菌戦用遺伝子兵器等々についてのかつてのSFのテーマは、ほとんど現実の問題として取り上げられ、詳細な法律論、立法論、医療、道徳、倫理的見解がこれらのコースでは討議されています。
 バイオエシックスが未来からの教育であり得るのは、SFをはじめ様々な素材 - 小説、映画、演劇などを積極的に用いつつ、このように大胆なイマジネーションの展開を意図しているからなのです。

  市民のイニシアティブ  

 ここ十数年にわたるアメリカでの上記のようなバイオエシックス教育の展開や諸々の市民活動のケースから、明確に認識し得るのは、生物、医科学技術の高度でかつ急激な展開に対しての「市民のイニシアティブ」による方向付けです。専門家を平等に抱え込んでの市民の立場から、これらの「政策」をまとめてみました。

市民によるバイオエシックス政策
 1) 権力を集中させない政治機構の形成。
 2) あらゆる高度の先端科学技術研究とその応用、産業化を市民のイニシアティブにより地域コミュニティがチェックできる方向付けを確立する。
 3) 情報の完全な公開、地域の安全の確保、バイオエシックスに関する事項についての市民の決定過程への参加等、及びコミュニティによる公正な技術評価のシステムの立法化。
 4) 一つの問題への複数の問題提起と選択の幅のある解決方法の呈示と対案。
 5) 専門家と市民との平等な立場での情報の交換及び専門家の職業集団への帰属に優位する地域コミュニティへの責任感の必要性と教育及び市民教育。
 6) 仮に間違う可能性はあっても、問題の解決にあたり市民のイニシアティブにおいてコミュニティが最終決定権を持つこととする。ただし、そのプロセスでの専門家の役割は十分に評価すべきこと。

 これから未来にかけて、ますます多方面の専門家が必要となってくる時代ですので、かえってこの大綱の政策面での方向付けは非専門家がしなければならないという、今までの常識とは逆の発想が現実のダイナミズムの中から生まれてきたのです。要するに、専門家としての権威や知識を持つとされた人々による問題提起や解決の方策とその判断が、しばしば間違っており正しくもなかったということが、市民たちにはっきり見えてきたということなのです。1960年代以降の公民権運動にはじまる一連の社会変動やDNA論争の中で、非専門家にも、外交政策や先端科学研究開発の是非をめぐっての大筋は判断可能であり、本質を見誤ることは、かえって少ないという事実がいろいろと生まれてきています。
 この意味で、バイオエシックス政策は、個々人や専門家集団の「良識」「行動規準」「倫理」を前提としつつ、更にその次元を超えて民主主義社会における公共のルールとして機能し、社会の中に組み込まれたシステムとなっています。したがって既にバイオエシックスは未来に向けての重要な方向付けをしていると言えます。我が国でのその展開に当たっても上記の諸要素を未来への方向付けの基礎とするべきでしょう。

  医療とコミュニティ  

 上記のような傾向に加えて、米国では生物医科学研究や医学教育、医療などへの連邦政府の財政支出がますます増大し、それにつれて税金負担者としての市民の発言権も強化されました。税金を払っている人こそが知る権利を行使し、その使用され方の内容をチェックし、議会や市民活動を通し発言するのが当然なのです。
 例えば、市民の知る権利と医療との関連での最近の事例としては、AMA (米国医師会) によるPMI (患者のための処方薬剤説明書 Patient Medication Instruction) の採用があります。従来は口頭での説明はあっても、実際に医師の患者への処方薬剤の内容について患者に十分知らされておりませんでした。効果や副作用を含む簡明で通常の人々に理解できる内容の説明文を処方薬剤に添付することを AMA で決定し、患者の知る権利に応ずることになり、去る1982年10月5日にこのニュースはテレビや新聞などに大きく報道されました。これは本来 FDA (米国政府食品薬剤局) が立法案を提出し、すべての医師に義務付けを計ろうとしたのですが、これは取りやめとなり、今回 AMA による PMI の自発的な決定となったものです。現在、最も使用頻度の高い20種の薬剤にこの PMI が適用され (・1982年12月現在)、今後百種になる予定です。この PMI プログラムは約40万人の AMA の医師たちの全面的支持を得て、画期的な医療の質の充実につながると AMA 副会長のサモンズ博士は語りました。
 米国にはこのような成果を上げた患者の知る権利運動などを含んだ保健や医療、政策研究調査の消費者グループや、患者互助グループ、ホスピス、ボランティアグループ、食事運搬グループ ("meals on wheels" と呼ばれる在宅病人・老人に食事を運ぶサービス) などがコミュニティをベースに活発な活動をしています。地域によっては「消費者のための保健医療年鑑」を作成し、コミュニティの医師、歯科医師、病院、HMO (コミュニティ医療保健システム Health Maintenance Organization) などの一覧を載せ、治療費やサービスの内容、診療カルテのコピーを患者にすぐ出してくれるかどうかなどがチェックできます。
 医療の面でこのような大きな意識の変革が起こったのは米国でもここ20年のことです。コミュニティを中心に自らと自らの家族の健康や医療を考え、お互いに支え合い、自分たちができる間はボランティアを続けるという老人たちも生き生きとコミュニティの活動に加わっています。

  地域コミュニティのために  

 私たちの国にも、ある意味での新しいコミュニティ作りが必要ではないかと思われます。未来に向かってのバイオエシックス教育とその展開は、コミュニティの中での医療、保健、消費者活動、病院などへの関心と協力・援助活動の中で生まれ育つと考えられます。たとえどんなに小さなグループでも、特定の問題に焦点を合わせたバイオエシックス研究や活動グループがコミュニティに生まれれば、展開に変化が起こります。
 このようなコミュニティの中での関心がやがて大きく輪を広げ、日本にアジアに、そして世界に広がるというイメージを私は抱いています。特に医療や保健、先端科学技術の様々な問題を自国だけがよければいいのだという発想や、先進国相互間の先端科学技術競争の観点からのみ考えることは、未来にとって大きなマイナスとなります。現在、世界のたった約4分の1の先進国人口が、世界の約80%の資源を使っているという現実を踏まえ、そのバランスを正しくするため、地球コミュニティの一員としての未来構想を日本は立てなければなりません。世界人口の約3分の2は今でも栄養不良、不健康、飢餓などの状態にあるのです。
 日本が生き残るために開発途上国を必要としている現実を明確に認識すればするほど、日本の国策や科学技術の発展も未来世界の5分の4の人口に寄与すべき責任のあることを感ぜざるを得ないのです。そしてその責任を果たすことが道徳的、国際的に求められているという事実を私たちは避けて通れません。そのためには、開発途上国に深く学びつつ、相互に対等の立場で協力し合う医療や保健の地球大スケールでの政策を、日本が国際社会の中でイニシアティブを取って進めるべきでしょう。極度に西欧文化圏に偏重した我が国での語学や一般教育のあり方や科学技術政策、産業貿易構造も未来からの地球コミュニティの呼びかけに答えて、修正、変化、形成されて行くべきでしょう。人的交流や相互協力プログラムなどは、今後ますます、国と国との公的な関係としての国際的プログラムに加え、更に人と人との民間レベルの民際的なプログラムとして展開されるべきでしょう。
 未来からのバイオエシックス教育は、このような「地球コミュニティ」のために、今こそ大きな一歩を踏み出すべきことを、私たち一人一人に訴えているのです。(終)


このシリーズはこれで完結です。
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