7. バイオエシックスの考え方 - その4
3) 方策の共有 |
生物・医科学・技術発展の特色 |
1) スピードの超加速化 発見・研究・応用・実用化のテンポが極度に加速化されつつある。安全性の保障よりも企業利益最優先 (資金の提供による) の産業化を目指し、研究・実験室と企業が全く直結・癒着する傾向。新薬開発 (インターフェロンなど) やバイオテクノロジー産業の加熱現象。 2) 全く未知の新しさ 人工生命の開発 (遺伝子組み換え技術による)、遺伝子治療、体外受精など道徳、倫理、法律の面での対応の遅れによる不安や恐怖の存在と軍事利用の可能性 (生物・化学兵器の開発)。 3) 広範囲への影響 未来の世代を含めての社会的、経済的、文化的影響の範囲の広さが予想される。食糧、エネルギー、情報、医療、ライフ・スタイルの変革。政治・経済・社会構造の変化が、生命や心理操作により容易となる。権力の集中 (コンピュータの利用) とプライバシーの権利の侵害の可能性。 4) 不可逆性の増大 工場廃水、化学製品廃棄物に汚染された生態系の原状復帰困難性。これらによる疾患での死亡、後遺症に苦しんでいる患者の増加。その他、除草剤 (先進国での使用禁止品目が開発途上国に向け輸出され多量に使用されている)、食品添加剤、有毒物質混入食品などの遺伝子への影響の可能性と実害の発生の阻止。 |
このような傾向がますます強まってきますと、個人としての専門家の倫理やモラルによる行為基準、自己規制ではどうにも解決できなくなります。
したがって、バイオエシックスは「生命」をめぐっての「科学・技術」の大きな成果を正しく評価しつつ、人類が他の生物や自然と調和して生存し続けて行くために、どのような「方策」(Strategy) を立てたら良いのかを「公共政策」(Public Policy) としても明確にしようというわけです。
「科学・技術」のあり方を、専門家と称する人たちのみに任せるのでなく、それにより最も大きな影響をこうむることになる一般の人たちこそが、その正しい方向付けをするべきなのだという考えが受け入れられるようになってきました。特に医療・生命の問題を、それだけで切り離してとらえるのでなく、社会、経済、政治、法律、文化などとの相互作用のメカニズムの中で、考え直そうとするわけです。悲惨な犠牲や経験の反省の中からいろいろな運動が生まれましたが、その中でも、米国の消費者運動は「自分たちの手で生命を守り、豊かに育てる」ことを目指してユニークな活動を続けています。
医療と消費者 |
医療の局面で従来当然とされていたような、専門家としての医師の権威に信頼してすべてを任せる傾向は少なくなりました。患者は、自分の生命に最終責任を持つ法的・道徳的主体 (Moral Agent) として、自己決定権を行使できるのです。アメリカ病院協会 (AHA : American Hospital Association) による「患者の権利章典 (A Patient's Bill of Rights)」が今から10年前に作られている (1972年提案、1973年採決) のは注目されます。
米国の消費者運動は、医療費負担の増大への批判をはじめ、医療財源の公正な配分への提案や、欠陥薬品、欠陥医療サービスなどを問題として取り上げてきました。医療を「病気の治療」のわくから更に広げて、日常的な「健康管理・維持・増進」へと方向づけ、消費者の立場から医療の内容に発言し貢献していると言えます。例えば、米・英・カナダなどの国々で刊行されている各種の「消費者ハンドブック」には、自動車、住宅、家具、日用品の上手な買い方、修理の仕方などの章に加えて、必ず医療や健康管理、HMO (Health Maintenance Organization - 契約加入方式による医療・保健組織) などについての解説があります。
また米国では、消費者センターによる次のようなラジオのコマーシャルをよく耳にします。これは気の弱い患者とやや尊大な医師との会話のやりとりをドラマ形式で演じ、その後に続いて「お医者さんが、このように、尊大に構えたり、面倒くさそうにしたりして、あなたの病名、診断結果、予測される治療期間、医療費などにつき、あなたの質問にはっきり答えない場合は、私たちの消費者センターにすぐ連絡して下さい。電話番号は次のごとくです。」という具合です。
更に、一般の人たちのための "TEL-MED" があります。これは、あらかじめごく平易な用語で、病状や自己診断の方法などをテープに録音しておき、消費者の疑問に答えるテレホン・サービスのシステムです。地域の病院や、医師会、医療保険会社などのスタッフが協力し合い、地区の図書館や消費者センターなどとPRのネットワークを組み、予防医学の観点から大きな成果を上げています。小児科・内科、皮膚科、歯科などの諸種の項目をはじめ、例えば、火傷、性病、癌、妊娠、家族計画、急性中毒等々約200の事項につき問い合わせができます。項目によっては、専門病院の指示や医療費節約の方法、良い医師の選び方などもあり、よく利用されています。
方策の選択 |
以上のように米国の消費者運動は、医療における「公共政策」の新しい展開に大きな役割を果たしつつあります。その他の様々な運動に加えて、バイオエシックスの方策のモデルとして次のような型が考えられます。
バイオエシックス方策 (Strategy) のモデル |
1) 自由放任 - 無規制 2) 個人倫理型 - 専門家個々人による自己規制 3) 集団倫理型 - 専門職業集団 (医師・弁護士など) による自己規制 4) 行政指導型 5) 立法府主導型 6) 専門家相互協力型 - 学際研究 7) 国民参加型 - 専門家との平等な立場での対話と政策決定過程への参加 (特定の目標を持った組織体や運動体の活動が重要となる) |
もちろん、これらはいろいろに組み合わさっています。米国では7) のモデルがバイオエシックス方策の中での「公共政策」のダイナミズムを形成していると言えます。
バイオエシックス方策の一環としてとらえられる「公共政策」は、国民 (地域住民、関連諸団体など) の政策決定過程への参加の中で形成される社会一般の人々 (Public) を対象とした政策 (Policy) を意味します。その形成の主体はあくまで国民ですが、その国民のために政府、自治体などの諸機関が立法、規則、省令などにより政策を執行することになります。
公共政策の形成主体とその受益者が国民であり、その支持と負担 (税金など) によるという点は特に明確にする必要があります。そうでないと、「公共政策」や「公共の福祉」の名の下に全く一方的な官僚の発想による、官僚に都合の良い行政指導が行われてしまうことになります。しかも、これらの政策は、しばしば特定の政党や企業・学界などの利益と結びついたり、国民と共有されるべき情報を非公開にしてきました。
既に前に述べたように、米国では、このような過りや失敗の反省を踏まえ、更に国民の力強い運動の支持により、現在あらゆるレベル (連邦・州・省・各諸機関) でのバイオエシックス関連機構・委員会・審議会などは、だれでも自由に参加できる公開の制度を取り入れ、関連文書はおおよそ政府の作成したものは国民に入手の権利があるのです。
良いことも悪いことも公開の場で論議を積み重ねるとともに、正しい批判のメカニズムを制度として取り入れることが何より重要なのです。バイオエシックスを考える上でこのことを明確に意識し、このような方策を私たちが共有すべき責任を持っているのです。
対話の倫理へ |
なんらかの原理や原則をあらかじめ定立しておき、それを応用、適合させて問題を解決する方式は、もはや通用し得ないほど変化の激しい時代に私たちは生きています。バイオエシックスは、全く今まで考えられもしなかった新しい具体的なケースや状況の中で展開されつつあります。したがって、現場での出来事に関連する当事者間の人間的交流、相互作用、対話のプロセスが重要となります。これに直接・間接にかかわりを持つ人々による「平等な参加」と「分かち合うこと」、つまり 情報・決断・方策を共有しようというのがバイオエシックスの考え方なのです。
この意味で、バイオエシックスは、大きく未来に向かって開かれています。既成の理論や原理を新しい事態、ケースにあてはめることにのみ力を費やすことなく、私たちの一人一人が、生命を守り豊かに育て上げるための日常生活の中から、専門家も非専門家も対等に相互協力し合い、新しく「バイオエシックス」をつくり出して行かねばならないからです。
私は、このようなバイオエシックスの方策を共有することが、現時点で非常に重要だと思うのです。
(つづく)