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人工生命に特許権 |
自然科学の歴史上、今世紀の最も重要な発見の一つは、何といっても、ワトソン (J. D. Watson) とクリック (F. H. C. Crick) による「DNA (Deoxyribose Nucleic Acid) の二重螺線構造」であった (1953年)。さらに、微生物から人間に至るまで、化学的には同じ分子構造を持つDNAが生命現象を支配していることが解明された。そのDNAを操作し、組み替える技術も開発され (制限酵素によるDNA切断技術など)、飛躍的な遺伝子工学 (Genetic Engineering) の発達をうながしてきている。
もちろん、生命の発生の仕組みを含め、まだ未解決な点も多いが、原理的には、生命現象そのものが「分子」の言葉により、物理的、化学的に証明されることになったから、生命体と非生命物質との境界線は無くなってしまったとすら主張されている。
30億年の時間をかけて、安定した「種 (Species)」をつくり出してきた「自然」は、今やその本質の根底から挑戦され、揺ぎはじめている。進化のプロセスに介入して、今まで遺伝学的にはつながりの無かった生物の遺伝子を組み合わせることもできるし、ギリシャ神話のキメラ (Khimaira) の如く、異質の動物の組み合わせで新しい動物をつくり出せることになるかもしれない。
すでに、地球上に今まで存在しなかった新種の「生命を持つ人工微生物」は特許資格対象物 (patentable subject matter) であるとの米国最高裁判所の画期的な判例もある (1980年6月16日付, Supreme Court of the United States, No. 79-136, Diamond v. Chakrabarty et al. 参照)。この人工の新生命はDNAの組み替え技術によりつくり出されたものだが、オイルを分解し、ある一定時間で死滅するということで、オイルによる海の汚染浄化に役立たせるべく開発された。
その他、この遺伝子操作技術により、インシュリン、インターフェロン等、新しい薬剤の開発、研究、遺伝性疾患の治療 (Gene Therapy) と予防、エネルギーの生産などが可能となるので、わたくしたちの生活も、また産業の構造も21世紀に向って大きな転換を遂げることは間違いないところであろう。
スイスのイルメンゼー博士 (K. Illmensee) 等により、哺乳類での最初のクローニング (Cloning) が成功したとの1981年1月5日の報道は、世界中に大きな反響を引き起こしたが、これは核の移植であって、専門家の間では、成功は時間の問題であるとされていた。ソ連では、氷原に凍結されたマンモスの組織からDNAを再生させ、象の受精卵の核と入れ替えて、象からマンモスを生ませる計画が進行中である (New York Times, March 4, 1980, p. Cl C3)。
私が今所属しているケネディ研究所の所長 (注・1981年当時) であるトマス・キング博士 (Dr. Thomas King) は、フィラデルフィアの癌研究所での胎生学研究に従事中、1956年に世界で最初に蛙の卵核の入れ替えに成功し、クローニングによるおたまじゃくしの発育に成功した。この技術の応用で、1966年にはオクスフォード大学でのガードン博士 (Dr. Gurdon) によるクローニングのアフリカツメガエルが誕生した。今年 (注・1981年) は、ネズミにより実験が成功し、さらにステップをつみ重ねて「人間」での成功に至るのも、予測されている2005年よりはるかに早まるであろうと思われる。
人間は、外界の「自然」を征服し、利用し生活環境を変え続けてきたが、このわずか二、三十年の間に遂に「自然」の手続きによらず自らのつくり出した方法で自らをつくりかえ、つくり出そうとするに至った。
このような遺伝子工学に象徴される生物、医科学、技術の急激な進歩と発達は私たちの「生命」と「生存」の本質に根源的な脅威を与えずにはおかないだろう。したがって現代を「生物学革命の時代」と特徴づけ、あくことなく「自然」とその「創造の秩序」に挑戦しつづける人間の立場を、西欧のユダヤ・キリスト教の歴史のコンテキストの中で把握すると「人間は神に代り得るのか」という深刻な問いとなってでてくるのである。
西欧世界では、未だかつて考えられたことの無い新しい思想の展開が求められ、そのための試みが「神」をタイトルにした数多くの文明論、科学論の著作として刊行されてきているし、さらに東洋思想への関心も高まりつつある。つまり「西欧型の科学的世界観」や「神」を前提にした発想への批判や再評価が起こり、事態は「科学者」や「専門家」だけにゆだねるにしてはあまりにも重大な展開をみせている。特に一般の人たちにとっては、自らの「生命」に関する事柄につき、専門家に判断をゆだねるのではなく、自らが決断するのが当然という発想が定着しているだけに、これらの生物・医科学技術の発達を前に、深刻なバイオエシックス上の問いに直面せざるを得ないわけである (拙稿「バイオエシックスを考える ─生命・医療・未来─」日本医事新報2964号・1981年2月14日・日本医事新報社・参照)。
これらの数々の問いへの回答のための一つの手がかりを、この連載では、�教育、殊に日米の法学教育のあり方、�国内レベルでのバイオエシクッス市民運動の展開と行政の対応のアメリカでの事例、�国際レベルでのバイオエシックス・ガイドライン作りとそのための発想の転換、等々をめぐって論じてきた。本連載の最後にあたり、今回はこのような生物、医科学技術の提起する諸問題が私たちに迫る「困難な選択」について「遺伝子と人権」の問題に焦点を合わせて論じてみたい。
ハード・チョイス 困難な選択 |
ところで、前稿でレポートしたメキシコでの国際会議を終えてワシントンに帰ってきた私を待っていたのは、研究室の机の上にあった一通の手紙だった。差出人はマグナソン上院議員 (Senator Warren G. Magnuson) で、封を開くとブルーでプリントされた "Hard Choices" の字がまず目に入った。このテーマでのテレビ番組完成記念レセプションへの招待状だった。場所はキャピトル・ヒルにある行政ビル3階とあった。その日約2百人近くの参会者の顔ぶれは、国会議員、科学者、医師、法律家、バイオエシシスト、ジャーナリスト等々多彩であった。当日のマグナソン上院議員の話しによると、この「ハード・チョイシズ」というバイオエシックス教育TVプログラム製作計画は、1976年2月からスタートし、約3億7千万円の予算でワシントン州立大学 (シアトル) 教育テレビ局が1時間番組6回分を完成させたということであった。その財源は米国連邦政府「人文科学基金」から全額出資し、1981年1月2日から全米の教育テレビ網により放映され、大きな反響をよびつつある。
6回の放映テーマに沿ったテキストブック、討論用教材も作成されているが、その内容は具体的な事例をめぐって次の如く展開する。�親には、生まれてくる子供の性を選ぶ自由があるのか ─ 出生前胎児診断技術の開発と、人工妊娠中絶に関する問題。�有害とされる遺伝子の選別と予防医学の目標。�人体実験の是非とその基準。�人間行動のコントロールの問題点。�死とその過程 ─ 死の定義と医師、患者、家族の立場。�米国の健康保険制度の未来像と財源の配分、等々であって、このような問題が何故とりあげられるのか、ある意味で米国と共通の問題を抱えている日本のわたくしたちにも非常に参考になる。教育マスメディアが連邦政府と積極的に協力して、このような形で「バイオエシクッス」を公共教育TVプログラムの一環にとり入れるべく5年以上も前から着実に計画は進行していたわけである。
遺伝子と人権 |
1973年にチューリッヒでの「遺伝学と生命の質」というテーマの国際会議に参加して以来、わたくしの研究テーマの一つとなったのは「遺伝子と人権」をめぐる諸問題である。それは遺伝研究の急激な発達と、その医学への応用が、患者一個人の治療の枠を超えて、未来の世代への責任という考えを導入しなければならない事態をひき起こし、したがって「人権」もその意味でかつて考えられなかった新しい展開をしつつあるからである。
現在欧米諸国や日本など病因のデータを検討してみると、感染症や栄養障害等が大幅に減少し、成人病、体質性の疾患、先天異常などのかなり遺伝子の質と関わりを持つと思われる原因が増加しつつあることが指摘されよう。
遺伝子の損傷による外因性先天異常や遺伝性疾患は誰にも起こり得るのだ。それは現代のわたくしたちの生活をとり巻いている環境の汚染、医薬品、化学物質 (発癌性、催奇形性)、食品添加物、放射線等が「遺伝子」に損傷を与えるケースもあると考えられるし、また生物集団としての人類の存続のメカニズムとして全体の約5%は変異としての異常や疾患を担わざるを得ない構成になっているからでもある。そして、その遺伝子の多様性の故に生物集団としての人類は存続しつづけることが可能なのであって、「遺伝的な欠陥」とか、その「多様性の優劣」の基準は、差別を正当化するため社会が意図的につくり出してきたものであり、これほど非人間的なことはないということが理解できよう。その意味で「社会生物学」(Sociobiology) のウィルソン (E. O. Wilson) に代表される生物学的決定論者が遺伝による人種の優劣の正当化、遺伝による男女の社会的役割りの固定化、IQ遺伝説等を説いていることに対して、遺伝学の立場から、たとえばレーヴォンティン (R. C. Levontin) 等により多くの徹底した批判がなされている。
わたくしたちの「人権」の基盤ともいうべき「生命と生活の質」をまもり、上のような科学の名の下にくり返し主張される「差別」とのたたかい、「人間としての尊厳」の内容を豊かにしていくためには、今までのパターンのように専門の研究者に問題の解説をしてもらい解答を与えてもらうのではなく、わたくしたち一人一人が自分と、自分につらなる者の生命と生活をまもるための「専門家」にならなければならないというのが「バイオエシックス」の基本的な発想なのである。
たとえば、わたくしたちの生存と生活に欠くことのできない「食品」への有毒化学物質の使用 (防腐、着色等) による遺伝毒性の体内での蓄積の危険性に注目して、研究会と実践活動を続けているグループが全国各地に結成されているが、日本消費者団体をはじめとして17の団体が構成している東京の「遺伝毒性を考える集い」もその一つの例である。同団体で刊行しているパンフレット「生命を未来につなぐために ─ 法律と子孫を考える」は、民法学者と遺伝学者を招いてのシンポジウムの記録であるが、これを読んで、法律専門家の「人権感覚」のズレや「想像力 (イマジネーション)」の貧困さに問題を感じ、ますますわたくしたち一人一人が専門家にならねばとの思いを深くした。
ジェネティック・スクリーニング 遺伝子選別と人権 |
現在、アメリカ・カナダ等では、小児科病院での入浴治療を要する患者のうち遺伝病 (現在約2千種が判明している) が、約25%もあることから、出生前診断による胎児の検査や新生児の遺伝性欠陥の早期発見、早期治療の体勢づくりが、遺伝相談や遺伝教育、更に立法等により組織的に行われるようになってきている。これらは主として、染色体異常、伴性遺伝病、遺伝性代謝病、遺伝性先天異常などの発見と治療、更には異常児を産む危険のある夫婦が安心して健康な子供を産める保証をするということにもある。もちろん、どのような子供が生まれても、十二分に生を享受できるような社会の体勢づくりや、施設、病院、医療などの充実のプログラム作りを推進して行かねばならないことは当然である。
わが国でも、厚生省により1977年10月から新生児を対象に先天代謝異常早期発見のための血液検査 (申し出制) が全国的に実施される体制がしかれたのは、評価されよう。これはフェニールケトン尿症 (PKU) 等5疾患の先天代謝異常がもたらす精神遅滞発生の予防、治療対策の一環なのである。
一方、かつて1966年11月から兵庫県で施行され「不幸な子供を生まない運動」として知られた「異常児出産防止事業」の「差別」につながる発想のあり方が、日本脳性マヒ者協会等により鋭く批判・告発されたように「不幸」とか「遺伝性異常・障害」という言葉の使用が日本社会の持つひずみの中での「価値判断」に基づいた表現であることを正しく見抜く「人権感覚」を養わねばならないのである。
バイオエシックスの発想によると、それがどのような内容の政策、計画であっても、特にわたくしたち一人一人の生命に直接関わりを持つ以上は、行政当局や、科学者、医師の善意に対しても人権を守る立場からの批判、検討をしなければならないのは当然である。公聴会や公開された政策立案委員会等への一般市民の対等な立場での参加なしの福祉、医療、保健政策等は、今や一見どのように素晴らしく考えられたものであっても、制度上は成立し得ないというのがアメリカでの現状となりつつある。
特にこのような遺伝子に関連する政策は意図的な操作により人権侵害を起し易いので、できるだけ公開の討議をつみ重ね、万全の措置を講ずる必要がある。また、遺伝性異常の実態調査、遺伝学研究のデータの収集と分析のためコンピューターの利用が考えられ、その実施の方策についての研究も進みつつある (厚生省・母子保健・医療システムに関する研究・研究報告書昭和54年度・参照)。それらの情報の入手、利用等の過程で、患者本人、両親、家族、親族等にとって人権侵害が起らぬようプライバシーの権利の擁護が何よりも重要である。
イマジネーション 未来への想像力を! |
遺伝子工学の発達により、上に述べてきたような遺伝性疾患や遺伝子の損傷を治す目的で遺伝子治療が開発されつつある。遺伝子工学技術がこれからの医学・医療に大幅に適用され予防医学の観点からも21世紀に向って飛躍的展開をみせることは間違いがない。
しかし、患者の遺伝性疾患それ自身と、遺伝子の治療に努力を傾けるあまり、前述したような遺伝子に損傷を与えていると思われる種々の外因の解明がおろそかになってしまうようなことがあってはならない。私たちと未来の世代の生命の基盤である「遺伝子」が不必要な損傷から守られる社会をつくり出すこと、そしてその損傷の原因を私たちの生活環境から取り除くことが何よりも重要であろう。
現在、日本でもアメリカでも、バイオテクノロジー関連企業への投資や急激な成長ぶりが注目をあびている。遺伝子工学の応用による新種の農産物、医薬品、エネルギー等の研究、開発、実験が殆ど無規制のまま資本の要請に応じて暴走しつつあるのが現状である。人工生命に特許権を認めた昨年 (注・1980年) の米国最高裁判所の判決は更にこれに拍車をかけた形になり、遺伝子操作とDNA研究自体があまりにも産業と密着する一方である。
アメリカでは「遺伝子組替え論争」は、1940年代後半からの「原子力平和利用論争」とイメージを重ね合わせて、そのかつての経験を学びとる形でなされてきている。原子力の専門家より、一般の市民の方が鋭く原子力発電の危険性、経済性などエネルギーとしての問題性などを指摘していたし、事実その心配の通りになったといえよう。
規制の無い研究、開発は怖るべき悲劇をもたらす。わたくしたちの生命と人権を守る立場から、現在の企業の「バイオテクノロジー」への異常な関心に深い憂慮を抱かざるを得ない。
ここで私が問題にするのは「研究の自由」や「企業の自由」を規制しようということなのではなく、すべての人々の共有財産であるべき学問と知識の成果を、私的な利益のために開発しようとしている一部の科学者や企業のあり方への人間生命を守る立場からの根源的な問いなのである。生命を亡ぼしてまでの利益の追求は許されないからである。「生命」に関わりを持つ事柄については、プラスの面はもちろんのことマイナスの面も明らかにし、地域住民と企業、研究機関との公開の会議や、市民を加えての安全保護機構の設置・研究・開発の基準作りとその遵守が厳しく求められるのである。
特に法学を学ぶ私たちは、遺伝子工学に象徴される現代科学の最先端の研究の「人権」への数々のインパクトを鋭く見抜き、把握し、被害・災害をうけるかもしれない立場から積極的に発言をしていく責任がある。
世界の破滅のイメージは、人間が手にしたあの怖るべき破壊力を持った原爆のキノコ雲か。それとも、人間の手を離れ、実験室の外に逃げ出し、一夜のうちに何百、何千億にも自己増殖した人工バクテリアの目に見えない静かな攻撃による人類の完全な死滅か。
わたくしたち一人一人の豊かな想像力 (イマジネーション) こそが、新しい「人権の世紀」をつくりだす原動力となり得るであろう。(終)