第1. 2回バイオエシックス研修会講演録 (1)


21世紀の医療を展望する
- ダーウィンから、バイオエシックスまで - (4)
1983年12月15日 13:00〜17:00 AM
於:愛知厚生年金会館
講師:岡村 昭彦/木村 利人

岡村; 始めます。最後の部分を私が担当しますけれども、こういう会合を持つ時に、皆さんに考えていただかなければならないのは、何に間に合うために、こういう会合を持つのかということです。
 それで、そのために緊急に開いたので、こういう欠点を持っているのだという事を承知の上で会合に望む必要があるのですね。何故ならば、未来を語るために集まったにしては、時間が少ないです。非常に時間が短いのですね。京都のセミナー・ハウスでやった時も、時間が短かったのです。
 僕が、今、諏訪の日赤で教えているのは、毎月一週、土曜、日曜と2日かかるんですけれども、土曜の夜6時から9時までに、予習のセミナーをやって、明くる日、朝9時から6時までです。そのぐらいやらないと、現場の人の知恵も意見も吸収出来ないし、私の方から話が出来ないですね。だから、今日は、緊急に木村利人先生に来てもらいました。木村利人はお母さんが一人東京にいるものですから、いつも心配で本当はマニラに直行するのに、昨日帰ってきて、2日ばかり東京にいてマニラに発つというのを、僕は知っていましたから、先月、私がワシントンで会った時に、今ませせっかく積み上げてきたんだから、名古屋の看護婦たちの集まりに、もう1回参加して、そして、顔を合わせて話をしておいて、そして今度は、2日なり時間をとってやろうではないか、と話し合いました。
 資料を会場で渡すというのは、いけないんです。資料というのは、大体3ヶ月ぐらい前に参加者の手元に届いておらなければいけません。それで、先に読まなければならない本も、ちゃんと指定しておいて、それで、ある程度の共通の部分をもって集まらないと、日頃からフラストレーションがたまった人たちばっかりだから、これで意見を言うと、自分のフラストレーションを発散させるために、それを述べちゃうんです。そうじゃなくて、もっともっと我々は、未来を語り、未来に参加していく権利を持っているんだから、その点を考えて、賢い集まり方をしなければいけないというふうに僕の考えを述べました。
 しかし、今日は、集まる事が大変必要だったから、皆さん、集まられたんでしょうし、しかし、今日の集まりには、いくつかの欠点がありますね。その欠点は、皆さんが今度は何とか工夫出来ないか、そういう事をアンケートの中に書いて下さると有り難いと思います。それから、看護学会なんかがあるのだけれども、学術雑誌というのは、まだないのですよ。つまり、あなたたちの学問としての業績を発表する学術雑誌がないのです。こんな恥ずかしい事をしていてはだめですよ。例えば、私が『看護教育』に今、連載しているでしょう。
 僕が10ページとるわけだ。そうすると、修士課程を終わった人が、論文を『看護教育』に発表しないと、講師になれないんです。そんなもの、学術雑誌に発表すればいいんじゃないかと言ったら、学術雑誌がありませんと、看護婦の学術雑誌がないのです。だから、『看護教育』なんかに6ページ発表する事が必要なのです。それで、そういう人は、大変僕のような連載には反対でした。岡村昭彦が10ページも取っている、直接看護に関係ない記事なのにというのが、理由のようです。12回の連載で終わるはずだったのか、12回で終わらないでしょ。杉浦民平さんが、『朝日ジャーナル』に渡辺崋山を書いた時には、1年という約束が、3年半になったんです。まだ終わらないもんだから、『朝日ジャーナル』の記者が、お酒を持って、渥美半島のところまで行きました。玄関へ入ったら、民平さんが出てきて、「心配するな。まだ半年は続くから大丈夫だよ」と言われたんですね。じゃあ、お願いしますと言って、それで、4年続いた例もあるのです。
 未来を語るというのは、当然はみ出してくるんですから、それはしょうがないんだけれども、結局13回で僕のは切れて、6ヶ月経って、後まだ3回?ぐらい続くでしょうか。
 それから先ほど、哲学の話が出たけれども、フィロソフィーというのは、大切なんでして、澤潟先生といって、医学概論をお教えになった方がおられます。先生のところに、木村利人と二人で行った時に、澤潟先生は、哲学というものをどういうふうにおっしゃったかというと、「今日に対する反省が哲学ですよ」と言われました。毎日毎日に対する反省が、哲学なんです。哲学というのは、哲学史とは違います。そんなに難しいものではありません。だから、哲学をやらない人間はだめですよ、と私は言っているのです。
 ヨーロッパの教育を例にとれば、よく分かるのですが、私の息子が12歳で、日本でいうと中学です。今年から、アイルランドの中等教育に入ったわけです。小学生が中学1年になったのです。何が変わるかというと、毎日、哲学の講義があるのです。というのは、毎日、自分がやった行動に対する反省の仕方を教えておく。過ちから学ぶという面があるでしょう。人間というのは、必ず過ちをするわけです。ところが、それの反省の仕方を知ってないと、未来にプラスにならないです。その方法を学ぶのが、中学1年生なんです。その他に、ドイツ語と、フランス語と、ラテン語と、ギリシャ語が加わるのです。つまり、ラテン語やギリシャ語を学び、原典を自分で読めるようにならなきゃいけない。それから、英語と、ドイツ語と、フランス語は、基礎として出来ないと交流が出来ない。色んな知識の交流が出来ない。そして、あとは体を鍛えるんです。ラグビーとか、サッカーとか、水泳とか、そればっかりやっているわけです。1週間に一遍ずつ、成績は、親のところへ報告されます。
 そういう教育の仕方から考えると、やっぱりカリキュラム、さっき太田先生もおっしゃったけれども、私が、例えば、医者で「能」を知らないのは困るというような言い方をしたのですが、すると太田先生は、医者の学校でそういう事を教えるというふうにお考えになったようだけれども、そうじゃなくて、もう既に、中学とか高校の段階で、日本の伝統芸能なんかについては、基礎知識を持っていないと困るという事です。それは、看護婦でも同じなわけです。看護学校の中で、日本の伝統芸能について、別に講義を聞かなくても、既に高校までの段階で知らなきゃならないでしょう。
 ようやく、僕のゼミで教えている生徒は、英語に対する拒絶反応がなくなったわけです。と言うのは、英語の本も、フランスの本も、どんどん渡しちゃうから。目的があって、手段が生まれるんでしょう。それをどうしても読みたければ、勉強するじゃないか。それなのに、中学と高校で6年間英語を勉強した人間が、その英語が全然役に立たないというのなら、他の学問もおそらく役に立たないです。その上、専門をのせるというやり方が間違っている。だから、そういう根本から変えていかなければならない。
 それから今度は、看護学校の先生もおいでになるだろうけれども、日本の看護学校の先生の質が低いです。それは、閉ざされた社会というのは競争がないから、本当は勉強したい、勉強したいとおっしゃるけれども、外部からあまり入って来て、わあわあ言ってくれない方が楽なんです。同じような事を言っておればいいのだから。それで、看護婦の免許が取れればいいんでしょ。すると、自動車教習所の先生と、そんなに変わらないのです。自動車の免許を取りに来る人に教える。右に回るとか、左に回るとか、こういう時はどうするとか、というテクニックだけです。人間として機械を運転するという事は、どういう事を意味するか、なんていうのは、自動車教習所では教えないのです。だけれども、現実の社会に入ってみれば、人をひき殺すという事は大変な事でしょう。
 やっぱり、そういう問題をきちんと、もう1回、歴史に基づいて相互批判をし合わなければいけない。日本の社会というのは、相互批判がないのです。相互批判をしないでおいて、ご立派ご立派という話をし、後では、一生懸命、足を引っ張っているのが、日本です。そうじゃなくて、少なくとも、ここに集まっている方は、何か今の医療は変だと思うし、医者にしても看護婦にしても、みんなこれは、何かしなければいけないと思っているわけですから。その人たちが、自分がこんな苦しい生活にあるんだという事を、ただ訴えるだけではなくて、未来を創り出していくために、自分は、このぐらい知恵があるんだという事をお互いに話し合い、欠点は、堂々とみんなの前にさらけ出して、一刻でも早く治した方が勝ちだと思うようになってくれないと困るのです。
 それは、今、赤十字病院は日本中に97ヶ所あるんだけれども、諏訪日赤で、全部の日赤の入院案内を取り寄せてもらいました。私たちのゼミの看護婦の手で、入院案内の改革をやっているわけです。みんな、病院に所属しているのだけれども、自分の病院の入院案内、読んだ事ありますか? みんな相当なものですよ。皆さんたちが一生懸命苦しんでいるんだったら、あんな味もそっけもない、何々をしちゃいけない、何を持ってきちゃいけない等、一つとして今の20世紀までの間に進歩してきた状況を取り入れたのは入ってないでしょう。
 それは、今日、本を用意したんだけれども、例えば、中井さんの『精神科治療の覚書き』、これは、中井さんも、もう50歳になるから、自分の体験を反省して、お弟子さんの反省も入れて書かれた名著です。これには、看護の基本がみんな入っています。例えば、内科のナースであろうと、外科のナースであろうと、これはお読みにならなければいけない本です。私の連載にも、精神病の患者をどうケアしたんだという事をしつこく、フランスだとかね、イギリス、ベトナムとかの病院の話を書いているけれども、この『精神科治療の覚書き』という本は、是非お読みなさい。それは、例えば、あなたたちの家族に精神障害者が出たとすると、何とかして、うちの中で、その患者が落ち着いてくれるかと思って、色々工夫するのだけれども、最後にどうにもならなくなって、病院へ行くんですよ。例えば、保健所を呼んだり、警察を呼んだり、親がそんな事をしたくないですよ。それにもかかわらず、どうにもならなくなって、もう疲れ果てて、患者を連れて行った時に、病院は、どう対応するのか。
 僕は、今、諏訪の日赤の看護婦に、前文をきちんと付けた入院案内を作ろうと言ったのです。前文というのが入ってないものは駄目だと。前文というのは、看護教育の、僕の書いたビジョンをね。例えば、アメリカの法律というのは、必ず前文が付いているのです。長い前文が、日本でも、農業基本法案と、教育基本法案だけが、前文が付いているんです。今まで、日本の看護の雑誌の中に、農業基本法案と教育基本法案の前文が載った事などないでしょう。あなたたちが患者の入院案内を看護の立場から考えれば、当然あるべきはずです。つまり、理念がない。理想があって、それに向かって進んでいくのですよ、人間は。理念がなければ進みようがないじゃないの。紀元2000年になれば、人類はどうなってしまうんだ。だから、我々は高い理念を掲げ、どう生きればよいのか、こういう法律を作るには、前文が必要です。日本の水質汚濁法案なんていうのは、前文がない。理念がない。だから、瀬戸内海は、現在これだけ汚れている。だから、そこまでは汚していいという法律が出来るんです。そこに、どんな人間の進歩がありますか。
 僕は、今度の諏訪日赤の看護婦たちが試みている入院案内に、21世紀を目指す看護の立場から、まず前文として、私たちの病院では、入院してくる患者に対して、第1日目をどういうふうにお迎えしますという事をきちんと約束しなければなりません。患者は、不安のまま病院へ入ってくるわけでしょ。「用事があったら、呼び鈴を押して下さいね」なんて、そんな冷たい入院案内でよいのですか。あななたちが嫁に行っても、祝福されて嫁に行ったって、他人のうちへ入れば、どこがどうだか分からない時に、その亭主の妹だか姉さんが、かばってくれれば有り難いと思うでしょう。精神科では、入院した第1日目のケアによって、80パーセントが治るかどうか決まります。これに失敗すると、後は、ずるずる、ずるずる、1年経つとか、2年経っていくだけです。入院案内は、今日の日本の医療の実態をよく表していると思います。自分の病院の入院案内を是非、見て下さい。
 先ほどの質問に一つ答える形になるのですけれども、ホスピスにも関連するのですが。カトリックの修道院に附属した病院、そこには修道女が住んでいるんです。病院に附属した修道院です。そこには修道女が住んでいます。だから、ホームなのです。このようなカトリックの病院に入院してこられたなら、「さあ、よくいらっしゃいました」と心から暖かく迎えられます。だから、アイルランドでも、スコットランドでも、ホスピスのことをホームと呼びます。病棟の婦長が、患者に「よくいらっしゃいました。疲れたでしょう。さあ、もう大丈夫よ、ここにいれば」と、こういう形で迎えるのです。
 この間、日野原重明先生を、私たちジャーナリストがお招きして話をお聞きしたのです。日野原先生は、聖路加の看護大学の学長ですね。日野原さんが、アメリカのカーター大統領が来た時に、カーターがもし緊急事態になった時の緊急病院として、聖路加が指定されたので、迎賓館に待機しておられた時の話です。ところが、カーターの侍医に言わせると、聖路加は緊急病院ではない、三流の病院だと言われたそうです。何故なら、試みに5回、電話をしてみたけれどもね、3回お話中だった。もう、それだけで緊急病院ではない。役に立ちません。それから、救急車で病院に担ぎ込まれた時に、ベットに移して、臨時の処置室は1階にあるけれども、緊急で入ってきた患者をどうするかという問題は、その前のエレベーターの中で考える。それは、もう緊急病院ではない、という話をされました。
 ところが、外国の緊急病院というのは、全て緊急に間に合うように設計され、機能しているのです。つまり、理念と現実がきちんと合っているわけです。日本では、そういう違いを平気でやっているわけです。そう言われると、現実派は、こう弁明するんです、「そうはいかない」と。やはり、現実には色んな問題があるとしても、現場からきちんと一つ一つの声が出されている。受益者は患者ですから、患者へ利益になるように、どう変えていくのか。これからの医療の基本です。
 日赤の方がおられるかも知れないけれども、この間、長野の日赤へ行ったんだけれども、新しい病院は素晴らしい病院だった。ところが、完全に近代機械化されているから、その中で看護婦が振り回されている。そこに間もなくやってくるのは、人間不在の別世界です。

 先ほど、あるドクターとお話したんだけれども、こういうところで理念の話をしても、現場へ戻ると、あの医者が、あの看護婦が、という形になっていって、もっと細かい現実の問題に引き戻されてしまうのですよ、というお話が出たわけです。それは、全く、その通りですね。そういう事を語っていくには、物理上の時間というのを、どうしても考えていかなければならない。だから、無いものねだりをするのではなく、我々は改革も出来るし、たくさんの過去の歴史の例も知っているし、それから、優れた知恵もあるのです。時間をかけて、皆さんの、現場にいる人なんか体験をたくさん持っているわけですから、それを持ち寄ってやらないといけない。例えば、死の臨床研究会というのがあって、この間、案内を見て、びっくりしちゃったのは、哲学を語る部門がないのです。みんな臨床例の発表ばかりです。それでは、患者がみんなモルモットになる。幼いなと思ったんです。
 基本の人間とは何か、今の社会とは何か、家庭とは何か、病院とは何か、という事に半分以上を費やさない限り、死を語ることは出来ません。そのフィロソフィーの下で、今度は、こういう例があったと個々の人間を語り合うのです。それが、全部、失敗例でなければ困ります。人間は一人一人が全部違うのです。人間の一生はみな違うことに看護婦は敬意を持って欲しいのです。マイナスの文化遺産を、どういうふうに継承していくのか、そういう事を語り合うので、僕と木村は、高いところから、バイオエシックスなるもののレクチャーをしようなんていう考えは全くありません。
 私は、毎月のように海外へ行ってるし、木村は学者ですから、世界一のバイオエシックス・センターであるジョージタウン大学のケネディ研究所にいるわけですから、資料をたくさん持っていますし、バイオエシックスの生い立ちから今日まで知っている。貴重な日本人です。そういうものと現場にいる日本のナースたちが、とことんまで話し合える場を継続して作っていきたい、それが、私たちの基本の願いです。

(以下、省略)


司会; どうも有り難うございました。

岡村; あと私は時間がありますから、ダブルヘッターでも何でも、引き受けますから。

司会; 誠に申し訳ありません。会場が5時まででございますので、もし岡村さんにご質問がありましたら、ロビーの方でお願いします。
 それでは皆さん、どうも有り難うございました。また、引き続き、こういう学習会を持ちたいと思っておりますので、その節は、是非お越しいただきたいと思います。どうも有り難うございました。



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