■「imidas (Innovative Multi-Information Dictionary, Annual Series) 1993」, 集英社, 1993, pp. 685-688.

バイオエシックス '93

(バイオエシックス用語集 1993)


木村利人 (早稲田大学人間科学部教授)
 1992年は、バイオエシックスをめぐって具体的な問題解決への報告や提言、法律改正、立法運動が相次いだ。日本医師会、脳死臨調、医療法の一部改正、患者の権利法を作る会などの動向に見られるように、医療職業集団はもとより、政策担当者、国会も対応しはじめている。もっとも重要なことは市民や専門家が協力しあって80年代初頭から始まったわが国のバイオエシックス運動をさらに展開していくことだ。92年から93年にかけては、特に患者を中心にした医療と臨床現場での医療従事者、国、地方自治体、医療関係とバイオエシックスのかかわりが大きなテーマとなろう。

いのちの主権者

  • バイオエシックス (bioethics)

  •  ビオス (いのち、生き物) とエシイコス (習俗、倫理) というギリシャ語に由来する合成語で「生命倫理」と訳されることもある。1960年代後半から形成され全く新しく統合された学問分野で、生命・医科学、医療、看護、法、政治、経済、哲学、神学、宗教、倫理、文学、芸術などさまざまな研究領域の枠を超えた学際的研究を展開している。遺伝子組み換え、環境、公害、臨床治験、患者の権利、女性解放、末期医療、老人看護、障害などの課題に取り組んだ、ごく普通の一般市民による地域社会での「いのちを守り、育てる」草の根の人権運動がその基盤にあり、わが国にもそのルーツはあると考えるべきであろう。各自が「いのちの主権者」として自分の価値判断やライフスタイルを大切にするとともに、国レベルでの社会的合意の形成を目指して、特に先端生命・医科学技術の急激な展開に伴う臨床研究・治療をめぐるガイドライン等「公共政策」のための理論的根拠を提示してきた。なお、UNESCO (国連教育科学文化機関; United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization) が92年に刊行した人権教材は「バイオエシックスと人権」を特集し、臓器移植、インフォームド・コンセントおよびバイオエシックスと法律について国際・国内的レベルでのバイオエシックス教育における人権カリキュラムの重要性を指摘した。従来、WHO (世界保健機関; World Health Organization)CIOMS (国際医学団体協議会; Council for International Organizations of Medical Sciences)WMA (世界医師会; World Medical Association) 等の医学国際機関が取り上げてきたバイオエシックスの専門的テーマに関連して、UNESCO が「人権教育」と「バイオエシックス教育」の推進を提言したことはきわめて注目される。

  • 自己決定の原理 (principle of autonomy)

  •  バイオエシックスの基本的原理の一つ。正常な判断能力を持った成人が自らの責任において決断することをいう。特に医療において、各個人の自由権に基づく自らの生命および身体・治療処置に関しての最終的な価値判断の主体は患者にあるという「患者の自己決定権」は、アメリカではすでに1914年の判例に示されている。60年代から70年代にかけて、インフォームド・コンセントの法理の確立、医療消費者としての患者の権利運動、医師・看護婦・病院など医療提供側の患者に対する意識の変革により、アメリカ病院協会「患者の権利章典」(73年) に見られるように治療拒否権を含めてこの原理が法的にも欧米医療先進諸国では定着した。一方、わが国のように個や自己の強調よりも家庭・親族・仲間内の人間関係に重きを置く傾向のある社会でのバイオエシックスの原理としては「和」や「協調」を目指す「関係の中の自己 - 決定」が展開されているといえよう。

  • 医の倫理 (medical ethics)

  •  医学・医業専門家集団のメンバーとしての各自の使命と義務を宣言し、社会的責任を表明したものであって、医療従事者個人の倫理や信条を超えたものとされる。そのモデルはギリシャの医祖「ヒポクラテスの誓い」にある。患者に害を与えず、秘密を守り、積極的に死をもたらさず、堕胎を行わない等の基本的な考え方が欧米における医の倫理形成に与えた影響は大きい。また、世界諸国の宗教的伝統でも医療を愛の奉仕、大慈、仁の行為として医療者の自覚、患者のための献身的行為の倫理性を説いている。しかし、旧来の医療における上下関係の中で一方的に患者を見下した父権的な温情主義 (パターナリズム; paternalism) への批判が起こり、より平等なあり方を目指しての医師・患者関係の変革が1960年代から起こった。バイオエシックスの大きな枠組みの中での現代にふさわしい国際性と公共性に根ざした「患者中心の医の倫理」が求められている。ただし、わが国では病気という弱い立場にある患者の心理的依存心や甘えの心情が、頼り甲斐のある医師にすべてを任せるという状況を今も作り出している。特に現代的課題としてエイズ患者への告知や守秘・公衆衛生上の報告義務等はプライバシーとの関連で新しい医の倫理に問題を投げかけつつあり、92年のアムステルダムでの第8回エイズ国際会議でも重要なテーマの一つとなった。

    *全人医療の考え方
    ___ 全人医療の視点 従来医療の視点
    病 気
  • 心身の不均衡も病気の大きな要因
  • ライフスタイルも重大な関係を持つ
  • 計量化され得る生物学的変異
  • 特定の原因により特定の症状
  • 患者の立場
  • 積極的に医療過程に参加する
  • 医療従事者に絶対服従が原則
  • 医療従事者
    の役割
  • 健康教育者としての役割を重視
  • 治療者としての役割を重視
  • 治 療
  • 精神と肉体のバランスの回復を重視
  • インフォームド・コンセントの原則
  • 投薬、手術を積極的に施す
  • 患者に対する不十分な説明
  • 健 康
  • 精神と肉体が調和していること
  • 病気の兆候が存在しないこと

  • 近代医学ではあまり重視されなかった、身体、精神、ライフスタイルを含めた総合的な視点から見た医療と健康についての考え方を全人医療 (holistic medicine) といい、1960年代からのセルフ・ヘルプやバイオエシックス運動の中で世界的に展開されている。

  • バイオエシックス教育と研究活動

  •  アメリカでは、医療や人権などバイオエシックスの研究テーマをめぐっての事例研究や、バイオエシックスの教科書が、小学校から大学教育まで各レベルで数多く出版され、施設での実習や病院訪問などを含むカリキュラムが設けられている。また、『バイオエシックス大百科事典』(全4巻, 1978) がジョージタウン大学ケネディ倫理研究所により編纂・刊行されている。同研究所はバイオエシックス関連の資料や文献の収集と研究・教育活動で国際的に最高水準にある。ニューヨークにあるヘイスティングス・センター (The Hastings Center) もバイオエシックス研究機関として活発な研究を行っている。現在全世界に約150のバイオエシックスの研究・教育機関があり、活発な研究が行われている。わが国では、早稲田大学人間科学部が日本で最初に大学学部4年生のための必修科目としてバイオエシックスの講義を設置し、早稲田大学人間総合研究センター千葉大学上智大学京都女子大学産業医科大学生存科学研究所、東京および神戸の生命倫理研究会などが、バイオエシックス研究と教育に取り組み始めている。なお、日本生命倫理学会が88年11月に発足し、紀要の刊行等学会活動を行っている。世界諸国にはそれぞれ全国レベルのバイオエシックス関連学会が幅広く展開されており、92年11月にはアムステルダムにおいてこれらの学会の参加者を集め、国際バイオエシックス学会が発足する。

    いのちの始めをめぐって

  • 生命操作 (life manipulation)

  •  子供を産むか産まないか、人工妊娠中絶、男女産み分け、体外受精、精子銀行の利用や代理母の委嘱など、生命操作、生殖技術の問題が世界的に大きな関心を集めている。アメリカでは、こうした問題は基本的には女性の「自己決定権」に属するとはいうものの、パートナーの配慮と協力が必要となる。人工妊娠中絶に関してはアメリカでは1973年の連邦最高裁判所判決により、女性のプライバシー権として認められたが、宗教的事由を含め、プロライフ・グループ (生命尊重主義者) による中絶絶対反対運動が展開され、このグループによる中絶クリニックへの反対デモや破壊活動が社会問題化し、中絶選択の自由を女性の権利として守ろうとするプロチョイス・グループ (選択権尊重主義者) との対立の中で92年合衆国大統領選挙の重要な公共政策上の争点の一つとなった。また、すでにフランスで開発・発売されたRU486 (手術によらない中絶促進薬) を帰国時に税関で没収されたアメリカ人女性の返還請求が認められなかったことについて、女性の権利の侵害が指摘されている。

  • 生殖技術 (reproductive technology)

  •  世界各国で社会的背景の違いはあるが、子供をどうしても欲しいという両親のために利用可能な生殖技術として人工授精、体外受精が幅広く行われつつある。わが国でも夫の精子による人工授精 (AIH; artificial insemination by husband) により、すでに一万人以上が誕生したとされているが、いずれも法的に婚姻関係が成立している夫婦のみ、この技術を使用するという日本産婦人科学会のガイドラインに沿って行われてきた。アメリカ・バージニア州の産婦人科医が自らの精子を用いて約60人以上 (確認されたのは15人) の人工授精児を出生させたとして反倫理性が指摘され1992年に有罪となった。代理母については、90年にアメリカ・カリフォルニア州で日本人両親の体外受精 (IVF) 卵を移植してアメリカ人代理母から出生させたケースが報道された。次いで92年には日本人独身女性が人工授精で子供を産みに渡米すると報道され反響を呼んだ。同年7月にはアメリカ小児科学会は代理母の親権を一定期間認めるとの方針をまとめたが、代理出産はこれまで数千例にも及び、代理母ビジネスへの批判も多い。

    いのちの質の向上をめぐって

  • 生命の質 (QOL; quality of life)

  •  現代の医科学技術がますます複雑化、計量化、専門化する中で、医療側のみの価値判断等で治療処置が行われ、かえって「いのちの質」が失われることに対して、患者や家族の人生観や価値判断を優先させ、生命、生活、人生 (life) の質的内容を重んずべきことを、医療や福祉の現場で主張するバイオエシックスの考え方。

  • インフォームド・コンセント (informed consent)

  •  知らされた上での同意。医師が患者に病状などを伝え、同意を得ることをいう。その内容は、(1) 診断の結果に基づいた患者の現在の病状を正しく患者に伝える(2) 治療に必要な検査の目的と内容を患者にわかる言葉で説明する。(3) 治療の危険性の説明(4) 成功の確率の説明(5) その治療処置以外の方法があれば説明する(6) あらゆる治療を拒否した場合にどうなるかを伝える、等であり、単に伝えるだけでなく、患者が理解したことを確認しなければならない。つまり、医師と患者との関係は一方通行的なものでなく、少なくとも同意に基づいた平等な人間関係が望ましいという前提に立っている。治療内容については、むろん医師の裁量権が重要だが、患者の生命・身体についての価値判断の最終決定権は患者自身にあるというバイオエシックスの考え方が医療の場に受け入れられ、医療供給者である医師中心の発想が大きく変化した。医療を受ける患者側の発想を中心にしたインフォームド・コンセントは、欧米先進諸国では臨床の現場でも法的に確立した原理となっている。わが国では1992年6月19日に医療法改正案が国会で可決・成立したが、その付則第二条で、医療提供側の適切な説明と受療者の理解への配慮に関し検討し、その結果に基づき必要な措置を講ずるという形でインフォームド・コンセントについて触れている。

  • 患者の権利法

  •  医療に参加する主体としての患者の基本的な権利を実現するためのよりどころとなる法律。世界的には、患者の権利の確立を目指しての立法化の傾向にある。アメリカでは1973年にアメリカ病院協会「患者の権利章典」を採択、マサチューセッツ州等で、患者の権利立法も行われた。各病院独自に患者の権利宣言等の文書を配付しているケースも多い。わが国では、70年7月、和田心臓移植手術への批判に関連して「病者のための人権宣言」がなされ、84年には「患者の権利宣言」が出された。その後、インフォームド・コンセントを中心に、日本病院協会では勤務医師マニュアル、日本医師会では生命倫理懇談会が「説明と同意」についての報告を出している。91年5月には、日本生協連合会医療部会総会患者の権利章典をわが国の医療機関としては初めて正式に採択した。さらに、91年7月には「患者の権利法をつくる会」により患者の権利法要綱案が提案された。なお、アメリカでは連邦政府による患者自己決定法 (Patient Self Determination Act 91年12月より施行) により、入院時に病院等で、患者に生命についての価値判断をめぐって自己決定権のあることを告げることが義務づけられた。

  • 臓器移植の倫理 (ethics of organ transplantation)

  •  先端医療技術を患者への臨床治療に適用するに当たっては、IRB (Institutional Review Board; 施設内倫理委員会) での審査が必要とされてきた。ただし、実験段階を経て確立した医療処置と認定された場合は個々の審査を必要としない。臓器移植のほとんどは、欧米医療先進諸国では、臓器移植以外に患者の生命を救うことができないことに加えて、次のような事情をふまえた上で通常の医療処置として定着している。生体からの場合は、(1) 腎・肝臓部分移植のようにドナー (提供者) 本人の自由意思により患者を救いたいという倫理的決断が明確・強固であること(2) 患者本人の延命および生命・生活の質の顕著な向上が大きく期待されること(3) 提供者にとってのリスクが最小限であること、などによる倫理的正当性が指摘される。提供者が脳死の場合も、前記と重なり合うが、(1) 患者を救う最終的手段は臓器移植しかないこと(2) 患者の治療が目的であって実験が第一目的でないこと(3) リスクを含めレシピエント (提供を受ける患者) がインフォームド・コンセントの内容を納得、理解し、処置に同意すること(4) 患者、家族関係者、特にドナーの臓器提供意思表示 (カード等文書による) の確認、近親者の同意、脳死判定などをめぐって、患者の権利の擁護について万全を期すること(5) 極度にリスクやコストが高く、さらにQOL (生命の質) が低いと予想される場合の評価をあらかじめ考慮すること、などの倫理的正当性が挙げられている。
     次に倫理的に問題となるのは、臓器の調達、配分、レシピエントの決定などである。アメリカなどのように、臓器提供に同意する意思表示があるドナーからの自発的なオプティング・イン (opting in) 方式では、臓器の絶対的不足が補えないので、ベルギー、フランスなどヨーロッパ15カ国のように、臓器提供を拒否する意思表示がない場合はあらかじめ臓器提供を承諾 (presumed consent) したとみなすオプティング・アウト (opting out) 方式へと変化する動向も国際的に見え始めている。アメリカでは臓器の提供を増加させるために、患者の死後に臓器提供の有無を近親者等に必ず確認することを義務づけた「Required Request Policy」が、連邦の保険の適用を受ける医療機関について1986年から実施されているが、結果はあまりはかばかしくない。その他の移植医量先進諸国でも、外国人への臓器の提供や移植への批判が臓器摩擦を生み、自国民や居住者を優先するようになりつつある。
     移植のための臓器の絶対数の不足を補うこともふまえた、ヒヒやチンパンジーなどの臓器を利用する異種間臓器移植も免疫抑制剤の進歩により実用化の兆しが見え始めた。92年6月28日には、世界初のヒヒから人間への異種肝臓移植手術がピッツバーグ大学で行われた。患者は35歳の男性で、これまでの異種肝臓移植の最長生存記録14日を大幅に更新したが、71日目に死亡した。調査の結果、死因は拒絶反応ではなかったため、今後も移植を行う方針。
     ただし、動物の権利を主張する立場や人間の固有性の見解、さらにヒヒが持つウィルスが人間に有害である可能性などの否定的な意見もかなりある。

  • 生体部分肝移植 (segmental liver transplantation from live donor)

  •  生体から肝臓の一部を移植する処置は、現段階ではまだ実験的な意味あいを持った移植技術とされるが、脳死体からの移植が行えないわが国ではすでに1992年5月20日現在50例を数え、そのうち39例が生存しており、臨床医療の技術として定着しつつある。92年8月には健康保険の給付による高度先進医療制度が初めて適用された生体肝移植の手術が行われた。アメリカでは脳死体からの臓器移植が定着しているが、生体肝移植もシカゴ大学で行われている。しかし、近親者がドナーとなることを申し出ないケースや、両親や近親者に対する心理的圧迫が問題となっており、プロジェクトに対する批判もある。

  • 人体実験 (human experimentation)

  •  臨床治療研究、臨床治験とも言い換えられる。医学と医療には必要不可欠なものであるが、被験者に詳しい情報を与えた上での同意は無論、「ヒトを対象とする医学実験」の立法やガイドラインが存在しないわが国では、患者や被験者の人権、生命権が侵害される事態を招く一方で、「人体実験」という用語自体もタブーとなった。国際的には、第二次世界大戦中のナチス・ドイツでの医療従事者による非人道的な行為に対する反省から、ニュルンベルク綱領 (1947年) によって人体実験を厳しく規制しており、WMA (世界医師会; World Medical Association) は医師および医の倫理基準や臨床実験綱領をジュネーブ (48年)、ロンドン (49年)、ヘルシンキ (64年)、東京 (75年) などで宣言している。
     また82年には CIOMS (国際医学団体協議会; Council for International Organizations of Medical Sciences) が「ヒトを対象とする臨床研究・実験」の国際ガイドラインを作成したが、92年2月には、10年ぶりにこの全面的見直しのための国際会議がジュネーブの WHO (世界保健機関; World Health Organization) 本部で開催された。

  • IRB (Institutional Review Board)

  •  施設内倫理委員会ERB (Ethical Review Board; 倫理審査委員会) とも呼ばれる。アメリカで制度化されたもので、世界的に定着しつつある。1974年にアメリカで制定された。被験者、患者等の人権を守ることを主な目的とした「研究・実験規制法」で制度化が義務づけられており、連邦政府管轄下の施設およびその資金による臨床・治療研究等に適用される。同法によると、IRBは少なくとも5人から構成されねばならず、男子または女子のみ、あるいは1つの職業によってのみ独占されてはならないと定められている。さらに、少なくとも1人は非科学者、例えば、倫理学者、法律家、宗教家でなければならず、また当該施設に所属しない人を含まなければならない、などの規定がある。このIRBに提出される研究計画提案文書を臨床研究プロトコル (research protocol) という。HEC (Hospital Ethics Committee; 病院倫理委員会) もほぼIRBの基準に沿って設置されている。IRBに象徴されるバイオエシックスの制度化は、生物・医科学の発展の過程での研究・業績至上主義を人権・生命権尊重の立場から厳正にチェックする役割を効果的に果たしている。なお、わが国の医学部倫理委員会は、80の全医科系の大学に設置されているが、ほとんど同一学内の委員で構成されている。91年11月に設置された東京都病産院の倫理委員会は、わが国で初めて全面公開の委員会として活動している。

    いのちの終わりをめぐって

  • DNR (do not resusciate)

  •  蘇生を望まないという「尊厳死」の意思表示。患者の自己決定権を法的、社会的に尊重し、定着させているアメリカでは、「蘇生を望まない」と本人が主張し、決断した場合、医療側はこれに従うことが求められる。病院等では入院患者の診療カルテの表紙に、目につきやすいようにDNRのステッカーが貼られてあり、医療スタッフはそのことを知った上で対応する。

  • 死の再定義

  •  欧米諸国では、脳の機能が元に戻らないことが確定的であれば、単なる生命体としての人間存在に意味を認め難いという考え方が一般的であることから、旧来の死の定義に加え、「脳幹を含む脳の全体の機能の不可逆的停止」をもって死とする判例や立法が定着している。しかし、アメリカの一部には脳死反対のグループもあり、1991年4月にニュージャージー州で、脳死を人の死と認めない良心的拒否条項 (Conscientious Objection Clause) の立法が成立した。また一方で、脳の高位中枢の機能停止をも人の死として選択できるようにすべきであるという少数意見も唱えられている。わが国では、伝統的な遺体観、生命観、人生観などさまざまな理由から、欧米諸国における脳死、臓器移植に対する考え方とは異なったアプローチがなされている。
     90年3月に発足した政府の「臨時脳死及び臓器移植調査会 (脳死臨調)」は、92年1月最終答申を行った。多数意見は大筋で脳死を社会的・法的に人の死とし、臓器移植を容認するとした。併記された少数意見は、脳死を人間の死とは認めないが、ドナー (臓器提供者) の提供意思の確認、「脳死」の確実な診断等を条件として移植を認めるとした。この答申後、日本弁護士連合会は3月に脳死移植に反対する意見書を公表した。5月には超党派の国会議員による生命倫理研究議員連盟の役員会が衆院法制局の提示した「臓器移植に関する基本的事項 (検討メモ)」をもとに臓器移植法 (仮称) 制定をふまえ協議を行ったが、国会での法案提出は見送られた。92年秋の臨時国会での提出は確定しておらず、移植施設、財政、患者の人権擁護、移植サポート・システムの整備、国民の意向などについての公開の議論をふまえての法案の早期成立が望まれている。なお、日本移植学会を始め9の関連学会からなる移植関係学会合同委員会が92年4月に発足した。また、7月には臓器移植全国ネットワーク連絡会議が関東、信州、近畿、西日本の各臓器移植ネットワークの代表を集めて初会合を持った。

  • 尊厳死

  •  意味のないと思われる延命処置を拒否するリビング・ウィル (living will; 生前の意思表示) や、これを法制化した自然死法 (カリフォルニア州、1977) もDNRと共通する考え方で、本人が判断力を失った場合に備えて、あらかじめ文書による意思表示をしたり、代理人に生前の意思に沿った法的な処置を行わせることを認めている。なお、これらはあくまで本人の意思を尊重しての「尊厳死」につらなる考え方であり、自分の生命の終わりは自分で決めるという事前指示 (advance directives) として全米各地に広がりつつある。91年11月のワシントン州における第119提案「医師による末期患者の安楽死」は州民投票により否決されたが、92年秋にも同様の提案がカリフォルニア州でもなされる予定である。91年4月に東海大学での事件として報道された医師による安楽死が、92年6月に起訴されることになったが、このケースは積極的安楽死という。92年3月18日、日本医師会生命倫理懇談会は「末期医療に臨む医師の在り方」について報告書をまとめ、延命処置などについての患者の意思表示の尊重や自己決定による尊厳死の考え方を容認しつつも、安楽死の立法化は不適当とし、医療現場への具体的提言を行い注目された。

  • エイズ患者と末期のケア

  •  従来、ホスピスケアは末期がん患者のためのものとして展開されてきた。アメリカでは1989年度中に死亡したエイズ患者の33%にあたる約8万人の死をホスピスケアがみとった。これはホスピスケアを受けている全患者の4.3%にしかならないが、今後この割合は大きく増加すると予想されている。わが国ではホスピスの理解もまだ十分に行き渡ってはいないが、今後間違いなく増加するエイズ末期患者の医療と看護について、在宅や施設でのホスピスケアによる対応を慎重に考慮し、その実施を目指して具体的方策を立案すべきであろう。エイズ患者への身体的、心理社会的、精神的ケアを始め、患者の家族による支えが何よりも重要だ、一方で今までの人間関係から断絶され、差別され孤独になり、さらに経費の負担や新薬の臨床治験、痛みの除去等々をめぐってバイオエシックスに関連する多くの問題がある。


    please send your E-mail torihito@human.waseda.ac.jp

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