インフォームド・コンセントの法理の形成過程

森川 功 (ジョージタウン大学ケネディ倫理研究所客員研究員)


1. はじめに
 日本でも医療に関する報道などで「インフォームド・コンセント」という語が日常的に用いられるようになった。しかし、残念ながら、日本の医療現場で医療者が患者またはその家族から得ようとしている「同意」はインフォームド・コンセントと呼べるようなものではない。日本の医療現場におけるインフォームド・コンセントなるものの現状は、ひとことで言えば、日本医師会が与えた「説明と同意」という簡単な訳語に相応しいものとなっている。最近では、患者が開示された情報を理解できることの重要性が一般に認識されるようになってきた。しかし、どれほどの医療者が、どれほどの患者に対して、どれほどの情報を、患者がどれほど理解できるような方法で、提供しているであろうか。
 1995年4月25日の最高裁判所第3法廷判決に至るまでの一連の判例を順を追って見てみると、日本でも、判例上、医師の説明義務と患者の自己決定権の存在が一応は認められるようになっている。しかし、特に、説明を受けることにより患者が重大な害を被ることが予想される場合の医師の治療上の特権という名の下に、医師の説明義務を軽減または免除して、患者の自己決定権の行使の機会を奪ってしまうほどに広範に医師の裁量権を認めているのが現状である。
 近年、日本の文化に馴染むインフォームド・コンセントの確立などということが言われている。それはパターナリズムを温存したいという医師の願望の表明にほかなるまい。医師と患者との間の強固な上下関係の中で患者の自由意思や自己決定権がどれほど尊重され得るというのであろうか。そのような関係を温存した状況下での医師の説明と患者の同意は、「説明と同意」であり得ても、インフォームド・コンセントでは決してあり得ない。また、日本での最近の議論では、インフォームド・コンセントの概念は医師と患者との間で共有される意思決定とされてしまっている感がある。しかし、インフォームド・コンセントはあくまでも患者の「自律」と「自己決定」に基盤を置く概念なのである(1)
(1)Isao Morikawa, "Patients' Rights in Japan: Progress and Resistance", Kennedy Institute of Ethics Journal, Vol. 4, No. 4 (December, 1994), pp.337-343.

次頁「2. アメリカ合衆国におけるインフォームド・コンセントの概念の現状」に続く


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