Canterbury事件判決以降、インフォームド・コンセントの法理における主たる問題は、医師による情報開示の範囲に集約されているように思われる。Truman v. Thomas, 611 P.2d 902(1980)においては、治療を受けないという決定のリスクについて医師は患者に対して情報を開示するべきであるとされた。現段階で、医師が開示しなければならない情報は、法理上、患者が医学的処置を受けるか否かを決定するのに必要な情報である。しかし、医師の開示義務の範囲に関する争いは今も続いている。例えば、Arato v. Avedon, 858 P.2d 598(1993)においては、患者の死後の財産処分や事業経営のために弁護士や会計士に相談するといった患者の非医学的利益を考慮して、医師は患者の求めに応じて余命などに関する情報を提供しなければならないか否かが争われ、中間上訴審では原告が勝訴したものの最終上訴審では敗訴している(4)。アメリカ合衆国の医療の現場では、そのような情報を含めて、個々の患者が特定的に求める情報を医師が提供することはむしろ常識化している。この点では、法理よりも医療現場の実情の方が進歩しているのである。しかし、医療現場にも問題は残されている。医師は患者にはあらゆる医学的処置を拒否する権利があるということを理解していても、しばしば、医学的見地から患者にとって最良のものと考える一つの治療法しか推薦していない。
インフォームド・コンセントについてはまだまだ論じる余地がある。例えば、責任論である。近年のアメリカ合衆国の判例において適用される責任論はほとんど常に「ネグリジェンス」である。しかし、患者の同意またはインフォームド・コンセントの法理は、元来、「不法な身体的接触」という責任論の下で発展した。この理論はいまだにしばしば用いられており、結局のところ、インフォームド・コンセントの基礎となる統一的な法理論は存在していないのである。これについて論じるのは別の機会に譲ることとしたい。
(4)森川 功「アレイト事件判決はインフォームド・コンセントの法理の後退を意味するのか」国際 BIOETHICS NETWORK No. 16 (早稲田大学人間総合研究センター, 1994年9月), 2-5頁 。