Wact, 4 (2), 早稲田大学, 1997, pp.2-7.

バイオエシックスの世界
見つめよう、「いのち」のクオリティー
Prof. Rihito Kimura wearing a smile


木村利人
人生八十年、いや九十年。
できるものなら最後の最後まで、
健康でいきいき暮らしたいと誰もが願う。
そしてフィナーレは、
にっこりと満足して安らかに旅立ちたい。
そんな人間らしい「いのち」のあり方を
実現させるキーワードが、
バイオエシックスだ。

バイオエシックスの考え方

 バイオエシックスというのは、いのちの始まりから終わりまでを豊かに充実して過ごし、尊厳をもって完結させる術を探る学問です。
 "バイオ" とは、生命や生物、あるいは生活のことですし、"エシックス" には、倫理とか、風俗、習慣、道徳といった意味があります。このため日本語では「生命倫理」と訳されることが多いのですが、それですとあたかも倫理学の一分野のように解釈されがちであるため、私はあえてカタカナで「バイオエシックス」と呼ぶことにしています。
 バイオエシックスが扱う範囲には、非常に幅広いものがあります。例えば人工妊娠中絶の是非。遺伝子組み替えの問題。あるいは、人生の最終ステージで、どのように末期を迎えるか。はたまた脳死になったらどうするか。安楽死や臓器移植についてはどうなのか。医療はもとより、環境、公害、人権その他、人の生まれる前から死後に至るまで、人間をめぐるおよそあらゆる問題が含まれてきます。
 この分野の研究がバイオエシックスの名の下に確立されたのは、1960年代の終わりのことでした。医療問題をめぐっては、それまでにも「メディカル・エシックス=医の倫理」という学問分野がありましたが、バイオエシックスがこれと最も大きく違うのは、特定の学問領域に縛られないという点です。
 六十年代はご存じのように、人権運動、女性解放運動、ベトナム反戦運動、公害反対運動、そして医療の世界では患者の権利運動など、改革を求めるさまざまな社会運動のうねりが一挙に高まった時代でした。一方では科学技術が急激に発達し、その功罪も真剣に議論されるようになっていきます。
 こうした背景のもとに生まれたバイオエシックスは、それ自体が、人間の尊厳と人権に根ざした公共政策づくりを目指す一種の社会的な運動であると言ってもよいでしょう。一般の人々、患者とその家族、さまざまな社会運動をベースに、新しい時代にふさわしい新しい価値観や生き方を希求する。そのためには、今までの学問の領域を取り払い、法律、医学、そして宗教学から哲学まで、あらゆる分野の知恵を出し合っていかねばなりません。音楽療法などもありますから、私は芸術もバイオエシックスと深い関係があると思っています。

いのちの問題を自分の手に取り戻そう

 バイオエシックスの二十年間の大きい成果のひとつとして、医療におけるインフォームド・コンセントという考え方があります。
 これまでは、病気になって病院へ行くと、患者はほとんど一方的に医療側の指示に従うのが普通でした。医師は「素人」である患者に対して何の説明もしないし、患者は患者で全面的にお医者さん任せで、自分のいのちをめぐる決定になんら参加しなかったわけです。薬の内容ひとつとっても、余計なことを尋ねると医者が怒る。患者もこんなこと聞いては悪いのではないかと黙っている。
 インフォームド・コンセントでは、診断や処置の内容を、患者に正しく伝えることが第一義です。医療処置には、化学療法、外科療法、レントゲン療法、それらのコンビネーションなど、さまざまなものがあるでしょう。「治療を受けない」という選択肢すらあるかもしれません。医師は患者さんに対して、それらの選択肢を正しく伝える。リスクがあるなら、予後のことも含めて相手が理解できるわかりやすい言葉で伝え、患者が納得するところまで説明しなければなりません。
 患者さんは専門家の見解をよく聞き、選択肢をはっきりさせ、どういう方法を望むか、最終的には自分で決めます。自己決定が原則ですから、患者自身にも当然それなりの心構えが求められてきます。「いのちに関わる医療判断など、素人にできるわけはない」と思われる方も多いでしょう。しかし、ここで問われているのは、医療措置そのものではなく、その人の人生観や価値観なのです。
 私の友人に、脳腫瘍と診断された75歳のアメリカ人男性がいました。「治るかもしれないから手術をしましょう」と医者に勧められた彼は、よくよく考えました。脳腫瘍は痛くない病気ですが、どんどん肥大して、やがては脳が圧迫されて言語障害が起きたり、体が動かなくなったりしていくのです。摘出手術をすれば、治る可能性がないわけではない。ただ、体が弱いので、手術で植物人間になる可能性も、手術そのものが失敗する可能性もある(そういう情報を、医師は全部患者に伝えるのです)。何もしなければ三ヶ月くらいは余命があり、その期間内であれば言語障害もなく過ごせるだろうが、それから先は保証できないということでした。
 彼は熟慮の末、手術を受けない選択をしました。そして残された三ヶ月の間に、世界中に散らばっている子どもたちや孫たちを集め、心ゆくまで話をして、もう葬式には来なくていいからと言いおいて、やがて穏やかに亡くなりました。
 さて、今まで日本でこのインフォームド・コンセントがどう機能してきたかと申しますと、日本医師会がいう「説明と同意」の範囲内では、医師がやりたいことについて説明し、それに同意してもらうだけというのが実情でした。ですから従来は選択肢もなければ、リスクの説明もなく、手術などの成功率や、薬品の副作用の説明なども何もないことが多かったのです。一切説明しないよりはましですが、まだまだ今後大いに改善の余地があると思います。
 このように、自らの価値観に従って人生のあり方を決定するというのが、バイオエシックスの発想です。つまり、医者や専門家(あるいは医療に限らず政府などの権力)の言いなりにならないで、一人ひとりが自分のいのちを自分の手に取り戻し、それを豊かに展開させていこうという考え方です。
 「いのちをめぐる選択と自己決定」は、人生のあらゆる段階で求められてきますから、いざというときの意思決定のためのガイドラインを、個人個人が自分なりにつくっておくことが望ましいですし、その選択を可能にする社会的な支援体制や施設はあるのかなど、法的な整備や公的システムの整備も必要となってきます。
 例えば今の医学では、植物人間状態になった人を四十年近く延命することが可能です。本人や家族にとって、あるいは社会的な負担を考えたとき、四十年近く水分と栄養の補給を受けて植物人間として生命を維持することが、果たして本当によいことなのかどうか。
 アメリカなどではそうした状態に備えて、事前に文書によって何らかの指示をしておくという考え方がすでに出てきています。「患者自己決定法」により、所定の文書に署名し、緊急事態に陥ったときに、どういう措置を受けたいか、または受けたくないか、臓器提供の諾否など、さまざまな項目について自分の意思で指示しておくのです。九十代の患者さんの病室の入り口に、「今度心臓が止まったら蘇生しないでください」と大きく書いてあるのを、私も見たことがあります。

日本でも臓器移植が可能に

 今年最大のバイオエシックス関連のトピックスは、何といっても臓器移植法が通ったことです。バイオエシックスをやっているというと、きっと臓器移植には反対だろうと思われがちですが、そうではありません。
 日本には日本独自の遺体観などもあって、心臓が動いていてまだ温かい肉体から臓器をとるなどということは、とても考えられないことでした。それが今年、事前に脳死を死として認めた人に限り、臓器を提供してもらうことが可能になる法律がつくられたわけです。
 これは画期的です。脳の機能が元へ戻らない状態が現在の脳外科の最新技術をもって確認されたら、自分としては臓器を提供してもよいという人が、日本にもいるわけです。現に二人に一人が、脳死状態になったら臓器提供をすると言っている。
 そういう人たちの善意を、臓器移植を待っている方々のために活かせるようにしたというのは大きな進歩ですし、バイオエシックス的なポリシーがひとつ確立されたことになります。そのポリシーの中には、嫌だという人の臓器をとることは絶対しない、脳死と判定されたくない人には脳死判定は行わないということも当然含まれます。
 ちなみにヨーロッパの約十ヶ国では前提が逆で、「自分は臓器移植をしたくない」と証明書に明記していない限り、自動的に臓器提供の意思ありとみなされてしまいます。スウェーデンなどがそうですが、これはどうしても需要より供給が圧倒的に少ないからで、フランスやベルギーなどでも同様です。
 それに比べれば、日本の臓器移植法は臓器移植禁止法といわれるくらい基準が厳しいという批判もありますが、少なくとも人々の意識を変えるうえでの意義は大きいと思います。また、法律家や医療関係者のみならず、いろいろな分野の方々が脳死臨調などで論議を積み重ね、議員立法で成立したという点でも評価されるでしょう。この法律は三年をめどに見直すことになっていますので、三年たってみてどういう形になるか、引き続き注目したいところです。

進む遺伝子研究の陰で

 最近よく耳にする遺伝子操作の問題も、無視できない大きなテーマです。
 例えば、遺伝的な障害をもって生まれてくることが想定される赤ちゃんについては、それがわかった段階で中絶をするほうが、優生学的にも社会的コストの面からみても望ましいというような議論があります。健全な赤ちゃんだけが育てばいいという、何が健全なのか疑問ですが、そういう意見です。
 これには障害者の方々は真っ向から反対していますし、私も生まれて来る段階でいのちの質を判断するのは間違いだと思っています。個人的には人工妊娠中絶にも反対の立場ですが、ただ、バイオエシックスの基本は自己決定ですから、親の苦しい決断が中絶だとすれば、その選択肢も残しておくのが正当だと考えます。
 自分の子どもが身体の欠陥を持っていては困るという考え方、生まれてくる赤ちゃんに対して完全性を求める風潮が進み、自分が許容できる子どもしか望まない感覚が普通になれば、安易な中絶が横行する可能性もあります。また、障害をもって生きることが世の中の負担だと受け止められるようになれば、障害者の人たちは非常に生きにくくなってしまいます。
 そのことを私はとても憂慮するのですが、いのちの始まりをめぐっても選別が始まりそうな時代になってきていることは確かです。
 現代医学では、私たちの遺伝子の構造や潜在する病気の因子も、容易に調べることができます。アメリカではすでに、肥料会社が女工さんを雇うにも遺伝検査をやっています。化学薬品を扱う職場で働いていて何らかの健康障害が出た場合、訴訟を起こされたときに困らないよう備えておこうというわけです。
 綿棒で口腔内の粘膜をぬぐうだけでも、四十種くらいの遺伝子の性質がわかりますが、中には、まだ発病していないけれども、遺伝的な欠陥で将来間違いなく発病することが解っている病気の遺伝子も発見されるかもしれません。そういう病気の因子をもっていることがわかった人に対して、例えば生命保険や健康保険の扱いはどうなるのか。就職などで差別されないのか。黒人特有の鎌形赤血球病などでは、酸素が欠乏するとてんかん症状を起こすことから、パイロットやスチュワーデスとしては採用しないとか、航空士官学校には入れないといった規制がありますが、場合によっては人種差別とも微妙にからんでくる恐れがあるわけです。
 こうした状況になると、医療そのものも変わってきます。病院というのは、どこか悪いから行く所であって、健康診断を受けるのでもなければ、健康な人はまず病院へは行きませんね。ところが遺伝子が対象になりますと、今は健康でも悪い遺伝子を持っているから治療が必要、通院が必要というケースも出てきます。実際にアメリカあたりでは遺伝子検査キットなども売り出されていて、それを使って自分で採取したサンプルを郵送すれば、検査をして結果を知らせてくれるなど、遺伝子産業が医療と結び付く可能性が、今ものすごく出てきています。

生きる権利と死ぬ権利

 高齢化社会が進んできますと、いのちの終わりをいかに人間らしく迎えるかも、重要な問題となってきます。
 一部には、患者を安らかにさせることも医療のうちだとする考え方も、ないわけではありません。非常な苦しみをともなう末期患者では、医者に介入してもらって自殺することができる、医師による自殺介助のシステムをつくってもらいたいという声もあります。オランダでは、安楽死は認めていませんが、埋葬法を改正し、カルテを提出することで警察が起訴しない形をとっており、事実上は末期患者に注射をして死なせることが合法化しています。
 しかし医者は基本的にいのちを支えるプロフェッションですから、末期患者の自殺幇助で問題となったアメリカのキボキアン元医師のように、安楽死に手を貸すところまで行ってしまうと、医療そのものが成り立たなくなってしまいます。バイオエシックスの観点からしても、回復が絶望的な植物人間状態になったときに、本人が望まない無駄な延命措置をしないとか、癌の末期に痛み止めの処置をして、それが結果的に死期を早めるというあたりまでが許容範囲でしょう。
 少なくとも、いのちを終わらせる決断を社会的に強いられるような状況をつくってはならないとするのが、バイオエシックスの姿勢です。介護や年金など、高齢者の生活が制度的にも保障されていて、安心して充実した老後が送れるとすれば、圧倒的に死を早める選択をしない人が多いのではないでしょうか。
 「家族も大変だし、社会にも迷惑をかけてしまうから」とか、「生活に不安があるから」といった理由で、死の選択に追い込まれることがあってはならないと思います。
 いのちある限りこれを燃焼させ、自立して生きられる制度と仕組みをつくり出したいということです。

もっといのちの教育を

 私は本来法律学が専門で、もともとは東南アジア比較家族法を研究していました。ベトナム戦争のさなかには、サイゴンの大学で教えていたのですが、そんなある日学生がやって来て、「枯葉剤が近海を汚染しているから、先生の好きな海のものは食べないほうがいいですよ。そうしないと、遺伝子が侵されますよ」と言うのです。正直、愕然としました。そんなことも契機となって、科学技術と生命や人権の問題を取り上げ、バイオエシックスという学問分野の確立に取り組むことになりました。
 日本のバイオエシックスは輸入だとよく言われますが、実はこれは私が長年日本の外でつくり上げてきた新しい学問で、やっている本人が日本に戻ってきただけなのです。
 そして1987年に早稲田大学に人間科学部ができたのを機に、バイオエシックスを必修として教えることになりました。今でもバイオエシックスという科目とゼミがある大学は、日本では早稲田大学だけですし、全学部の学生が全員必修(四年次)というケースは、世界でも早稲田が初めてです。
 授業は一方的な講義ではなく、学生にとって身近な問題をあぶり出し、ディスカッションすることに主眼が置かれます。すると、「祖母が植物状態になった」とか、「父が四十代の若さで癌で他界した」などといった話が出てきて、誰もが身の回りでいのちの問題に直面していることがわかります。
 先日もゼミで安楽死をめぐって賛成反対に分かれて討論したのですが、「自分はこういう問題について、だいたいわかっていたつもりだが、仲間がこれほど真剣に考えているとは思わなかった」という感想を、全員がもっていたことがわかりました。真面目に考えている人たちは大勢いるのです。討論を通じてお互いの考え方に触れ、家でも親とそうした問題について話すようになったとも言っています。「家でリビング・ウィルという言葉をはやらせました」と言う学生もいます。
 「死だなんて、縁起が悪い話はやめなさい」「家族で話す話題じゃない」と怒る親もいる反面、「それは大切な問題だから」と、一緒に考えるようになった親もいるそうです。この家庭をも巻き込んだいのちの教育が、実は非常に大切なのです。学校がそういうきっかけづくりの場にならないといけないと思いますし、さらに言えば、大学のみならず、できれば小学校から教育システムの中にバイオエシックスを取り入れて教えていく必要を感じます。神戸の小学生殺人事件なども、いのちの教育の成果が上がっていれば、起こらなかったのではないでしょうか。
 私自身の死の準備ですか?さて、私は頻繁に飛行機などで飛び回っていますから、どうなることでしょうか。仮に癌などの病気であれば、自宅でゆっくり安らかに末期を迎える選択をします。ちゃんとリビング・ウィルも書いてありますから、無駄な延命治療は受けません。植物状態になったら、水分と栄養分の補給は止めていただく。
 臓器の提供ももちろん喜んでやりますが、ある程度年齢が高くなってしまうと、臓器があまり新鮮ではなくなるらしいので、必要ではないかもしれませんね。
 それがどういう形になるにせよ、生きている人間は必ず死にます。でも万事思い煩わず、毎日新しく生まれ変わる気持ちで、最後まで自分の責任でいのちを充実させて生きることが大切だと思います。(談)


please send your E-mail to rihito@human.waseda.ac.jp

木村利人教授・評論等データベースのページに戻る