1998年6月23日 読売新聞朝刊 (p. 15)
生殖医療と生命倫理 (論点)
木村利人
バイオエシックス (生命倫理) の視座から生殖補助医療の問題点を指摘し、今後の課題を述べてみたい。
まず今回、日本でも明らかとなった「非配偶者間の体外受精」の問題を病気の治療という医学的問題だけに矮小 (わいしょう) 化してはならない。
一定期間内に妊娠しない女性たちを定義して作り出したのが「不妊症」という「病気?」である。それに悩み、何らかの「治療?」の可能性にかける女性たちも少なくはない。この現象の背景にある事実は、単なる医療の問題なのではなく、グローバルな価値観の変動の中で人間の生命、家族、結婚、性などをどう考えるかという深刻な問題だ。生殖補助医療と人間の価値観の変化について、私は次のような問題点と課題を指摘したい。
第一に、最近では子どもを「授かる」とはあまり表現されない。子どもを「つくる」「産む」という使い方へと変化した。かつて子どもは夫婦に与えられ「授けられる」宝であった。しかし、今や子どもは夫婦が「つくるもの」という表現が当たり前のこととなり、産むか産まないかを決断することも社会的には受け入れられる変化が起きている。
夫婦で子どもを「つくれない」なら専門的な科学技術を利用し、他人の善意によって、また海外に出かけ高いお金を払ってでも、何とか子どもをつくろうということになる。そして、子どもを産むこと、産まないことについては、成人の女性が自ら決めることとして他者が、特に男性がとやかく言う筋合いのものではないという考え方も出てきた。
第二に「いのち」も「からだ」も利用価値のある資源となり得ることについての価値観の変化が起こった。臓器移植、ヒト組織の利用、精子・卵子銀行など人間の身体は部品化され、場合によっては商品化されつつある。
また、先端的な生殖医科学技術の適用をめぐって医学的・社会的・倫理的、法的な偏向も指摘されている。つまり、医療や科学技術、専門的知識などの制度面での力関係が男性中心主義的だからである。子どもを産み、母親となる当事者は女であって男なのではない。そして女も男も自分自身のいのちとからだに関し、最終的な価値判断をするのは専門家ではなく自分自身なのだという考え方への変化が生まれつつある。
第三に、人間関係が血縁や親族など家族を中心としたハードな枠組みからソフトなネットワークへと変化しつつある点が指摘できる。何らかの理由で生殖医療技術を積極的に利用したい人々にとっては、自発的な選択肢の拡大を意味する社会へと変化が起こりつつある。
このような社会的な大きな価値観の変動の中で生殖補助医療の問題への取り組みが求められている。仮に前述のような非配偶者間の体外受精で関係当事者同士が自分たちの都合で勝手に同意していても社会的・制度的な合意形成の無いところでは無知と、技術の暴走による悲劇が起こりかねない。医学専門家の個人としての使命感や、特定の学会等、いわば同業者集団の倫理基準などだけでは対応できない事態が起こりつつあることへの認識が不十分であれば、臓器移植、生殖医療、輸入血液製剤の利用など、私たちがかつて経験したような医療に関しての様々な過ちを繰り返すことになろう。
このような新しい先端医科学技術の適用には社会的、文化的な混乱を回避するため、立法を含め公正で厳格なルールをどうしても必要とする。実際に、多くの医療先進国では国レベルでの一般に公開された審議会の論議に一般の国民も参加し、専門家や保健医療行政の担当者たちとともに「バイオエシックス公共政策」作りの共同作業が行われている。
昨年来、日本でも生殖医療技術の問題点に取り組んでいる厚生省 (*現・厚生労働省) の厚生科学審議会・先端医療技術評価部会の公聴会や会議議事録、生殖医療関係の資料がインターネットで全面公開されている。国民からの意見のインターネットでの提出も可能で、既に様々な意見が寄せられている。ちなみに、医療、健康情報への関心の高さを反映し、厚生省ホームページへのアクセスが昨年度は六百五十万件を超えている。
具体的な今後の課題として、この審議会・部会への国民の意見のインプットにより更に幅広い国民的論議を蓄積し「バイオエシックス公共政策」が公開、公正の原則に沿って形成されるよう心から期待したい。
please send your E-mail torihito@human.waseda.ac.jp
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