日本における医の倫理の問題性とバイオエシックス
■特集 周産期における医の倫理
---仁術とヒポクラテスからの脱却---
私が、かつてヘイスティング・センターでの「重症遺伝欠陥児のケアとバイオエシックス」をめぐる国際会議に招かれ報告をした時のことだった。周知のごとくこのセンターは1969年に世界で最初に設置されたバイオエシックスの研究機関である。
私の報告 (The Hastings Center Report, Vol. 16, No.4. 1986)の後で出たいろいろな質問は「日本の医療と倫理をめぐる問題」について集中した。その過程ではっきりしてきたことは、いろいろな国々での医療と倫理の問題にきわめて類似した共通の要素があるということと、現在日本に特有と思われている現象も何年か前の特定の国の状況に似ているということであった。そこで一体どの点で同じか、またそうでないのかについてふれながら三つの点に問題を絞り私の考えを述べてみたい。
第一に、日本の医療における「父権的温情主義(Paternalism)」の倫理的問題性をあげたい。
ごく最近に到るまでの日本の医療は、その担い手である医師により意識されていると否とを問わず、きわめて温情主義的であった。ほとんどの場合、病状、治療の処置、予後、薬剤の内容などについての詳しい説明もなく、また患者の同意もなく、仮に手術が必要になれば「一切の異議を申し立てない」という医療側からの一方的な文書に署名捺印を求められた。医師は専門家としての教育、知識、経験を持っているわけであるし、患者や家族は黙って医療側のいうことに従うことが求められていたといえよう。
これはある意味で日本の社会における人間関係の反映であり、専門家のいうことに黙って聞き従うというパターンは、特に医療の分野では病気という弱い立場に立つ患者の側からは、さして疑問に思われないできたのも当然のことであったといえよう。
今から、11年前、大阪、北海道、大分、兵庫、東京などの医師会をはじめ、慶応大、北里大、帝京大などの医学部の招きによりバイオエシックスの講演会をした折りに私の受けた反応は、日本には日本のやり方があるので欧米諸国のように「インフォームド・コンセント」や「倫理委員会」「患者の権利」などはまったく問題にならないし必要もないとの批判であり、いま思うと隔世の感を深くする。
もちろん、臨床の現場で患者・医師関係にどれだけの変化が本当に起こったかについてはかなり疑問もあるが、少なくとも日本医師会がその生命倫理懇談会の答申を受け入れ「説明と同意」についての公式の見解を表明 (1990) したり、ほとんどの医科大学や医学部に倫理委員会ができたり、患者の権利にしてもここ数年来、ガンの告知などをめぐっての医療のありかたとの関連でいろいろと話題になり、裁判でも取り上げられてきた。
これらのことから分かるように、日本的と思われ、変化しないと考えられてきた医療のあり方も、日本が世界の同時代史を歩みつつあるという現実のなかで変わらざるを得ないことが明らかになりつつある。
欧米先進諸国での状況も、1960年代までは、パターナリスティックな医療そのものであり、伝統的にむしろそれが当然のこととして受け入れられていた。つまり時代的、社会的相違を越えて、医療文化の本質のなかに共通する要素として「父権的温情主義」が洋の東西を問わず組み込まれていたのだともいえよう。上からの惻隠の情をもっての仁術としての医療や患者のために不利なことは告げないとしたことに象徴されるヒポクラテス的医療の発想は、ある意味で歴史的な役割を果たし終えたのだ。
では、何故これがいけないと批判されるに到ったのか。いうまでもなく、人間としての尊厳をもった患者自身を中心とする医療へと1960年代に医療の本質に根本的な変革が起きたからである。医療側から診断、処置、予後、危険度についての十分な情報と説明を受け、その同意に基づき医療処置を行う原則が法的にも確立されるのは1970年代の初めのことであった。米国病院協会・患者の権利章典が生まれたのは1972年、ヨーロッパ評議会(CE) のバイオエシックス委員会(CAHBI) が医療における患者の積極的参加の意義と加盟諸国でのその法制化などの取組の徹底を採択したのが1980年、さらに世界医師会・患者の権利リスボン宣言は1981年に出されている。
患者の人生観や価値観を一切無視し、「患者の利益」のために一方的な医療側の価値判断に合わせることを当然とした時代は欧米医療先進諸国ではすでに過去のものとなった。
この意味では、わが国の状況は著しく遅れている。日本文化や伝統の名のもとに患者の人としての尊厳や基本的な権利が痛ましくも侵害されている現状を肯定することがあってはならない。いうまでもなく旧来の「権威服従型」の患者を望ましいとしてきたイメージを、新しい未来を作り出すために徹底して打ち破らなくてはならない。
現実に世界の各地でのバイオエシックス運動はさまざまな1960年代からのコミュニティのなかでのホスピス・ケア、女性の解放やセルフ・ケア、老人・障害者・医療・福祉のボランティア運動などと連動して「自分の命をまもり育てる」運動の一環として展開されてきている。日本の医療が21世紀の未来にふさわしい「患者中心の医療」に生まれ変わるためには、仁術やヒポクラテスの医の倫理を越えた「バイオエシックス」の基本の考え方を学び、その発想を、ちょうど20年かけて西欧の4000年の医療の本質が変化したように、これからの10年で国民のコンセンサスとせねばなるまい。
次に、第二点としてわが国の医療における「独善的排他的傾向」の倫理的問題性を指摘しておきたい。これもまた、特にわが国の文化に固有な社会的・人間的なあり方の医療の世界への反映にほかならないともいえる。医療に関して「素人は黙れ」とか「専門外のことに口を差しはさむな」といったことから、学閥、派閥、卒業年度、教室、医局、指導教授が誰であるか、といったことでもいろいろと人間関係のあり方まで影響する排他的な構造を生み出してきた。もちろんすべての医業専門家が、医学・医療の分野のことに関して、その部外者からあれこれいわれる筋合いはないといっているわけではないが、実は日本以外の世界の諸国でも約20年前までは医学・医療の排他主義はごく当り前のことだった。
しかし、現在の時点で原則的にはっきりといえることは、社会的な信頼とサポートなしに医療専門職は成り立たないし、医療のあるべき方向付けは終局的には社会が決定するということなのである。
わが国の医師法にもあるように医師は公的な責任を担っている。医師になるための教育には国公立であると私立であるとを問わず、巨額の国民の税金が支出され、保険はもちろん、医学研究も国民の負担である。生命操作などハイテク医療を巡る問題も、バイオエシックスの発想による「超学際」的な立場からの多方面の専門分野の人たちの加わった学内者だけによらない開かれた「倫理委員会」が、公共、つまり国民の検証にたえるためにも必要なのである。わが国では、京大および徳島大の医の倫理委員会を除くと、そのほとんどすべてが同一学内者だけの委員構成であり、ここにも大きな問題がある。参考までに、公共的な立場を明確にしている、米国小児科学会の提言によるIBRB (小児バイオエシックス審査委員会) を含む代表的な倫理委員会の構成の根拠とメンバーについて表に示しておこう。多様な専門職業分野の人々はもちろん、病院や医療機関のあるコミュニティの代表までメンバーとなっている状況がよく分かる。
小児バイオエシックス審査委員会 | 施設内倫理審査委員会 | 病院倫理委員会 | |
---|---|---|---|
略称 | IBRB / ICRC (小児患者のため) | IRB (臨床実験のため) | HEC (入院患者のため) |
設置基準など | IBRB, 米国小児科学会提案 (1983年7月) ICRC, 連邦規則 45-CFR-Part84 (1984年1月12日) 勧告 |
National Research Act, PL-93-348 (1974年7月12日) | 各病院による基準作り(IRBのモデルによる) および大統領委員会(PCSEPMBBR) 報告書中の 米国・法と医学学会(ASLM) による提案など |
目的と対象 | ・新生児・小児患者を対象とする ・患者の家族・関係者および施設内のスタッフなどの要請による審査 |
連邦政府の管轄の医学研究・医療施設 (および補助金を受けている研究計画) での臨床実験の対象となる人の人権の保護および倫理上の問題点の審査 | ・自ら判断力を行使できない患者のために生死にかかわる医療処置をするに当たっての倫理的な問題点の審査 ・その他の患者または家族・関係者の要請による |
委員の構成・人数と専門分野など | ・最低8人 1. 医師 2. 看護婦 3. バイオエシックス (宗教・倫理専門家) 4. 法律家 5. 身障者またはその組織代表・その専門家 6. 地域 (コミュニティ) 代表 7. 院内医療スタッフ代表 8. 病院管理者 |
・5〜10人 1. 委員会は同一性別・同一職業などによる独占を避けること 2. 宗教・法律・倫理などの専門家を加える 3. 地域 (コミュニティ) からの委員を加える | ・9人 1. 医師 (内科) 2. 医師 (専門医) 3. 患者の権利擁護委員 (看護婦のケースが多い) 4. 法律家 5. 病院管理者 6. ソーシャルワーカー 7. 精神科医 8. 宗教・倫理専門家 (バイオエシックス担当) 9. 地域 (コミュニティ) 代表 |
全般的にはバイオエシックスの国際的状況から大きく立ち後れているわが国においても、個別的にみると国際シンポジウム (生命倫理学会や早稲田大学主催など) が行われてきたり、日本移植学会社会問題検討委員会、日本医師会生命倫理懇談会、日本プライマリー・ケア学会倫理委員会など法律、哲学、バイオエシックス、ジャーナリズムなど、医学外の委員をメンバーに加えての特定テーマに関するガイドライン作りが進められているのは積極的に評価されよう。もはや社会は、医療の「独善的排他主義」を許容せず、むしろ社会に大きく開かれたイメージでの医療のあるべき姿を求めているし、またそうなるべきなのだ。
最後に指摘したいのはわが国における臨床現場での「道徳的・倫理的な関心の少なさ」の問題性である。
そもそもわが国における仁術としての医術の教えや欧米でのヒポクラテスの誓いは、医療における道徳・倫理性の強調にあった。いわば医療従事者のあるべき姿を、慈愛、同情の行為として説くとともに、患者の生命維持のために尽くす医師の本分を述べたという点においてはきわめて積極的な役割を果たしたことは否めない。
ただ、前述のように患者と医療者とが平等の立場にたち、医療を行うにあたっても、患者の人生観・価値観を中心に置き、治療拒否も含めて医療に患者が参加するというバイオエシックス的な発想はこれらの旧来の医の倫理から出てこなかったのも事実であった。ただし、世界諸国では、現在もさまざまな直接、間接の交流が医療の現場と宗教・教会との間になされていることは注目に値する。たとえば、臨床の現場での医師・看護婦・患者・家族へのアドバイス、ホスピス・ケアなどの運動、AIDSや癌患者のサポート・グループ、前記の表に示したIBRBなど聖職者の倫理委員会への参加もごく日常化し、医療の持つ道徳的・倫理的側面への関心もきわめて深い。
一方、わが国においては、特定の病気を治療することの医科学技術的側面への関心のみにすべてが集中され過ぎ、人間も生も死も「医療化」のシステムに絡み取られてしまったともいえよう。私自身のスイスやアメリカでの入院体験からみても、病院付の神父や牧師先生の来訪は患者の予後に良い効果をもたらすに違いないという感じがしたが、日本の大学病院に入院したときにはこのような「こころのケア」を専門とする宗教者やスタッフにはまったく縁がなかった。
初めに述べたヘイスティング・センターでの国際会議で、一番強く感じたのは諸強外国の臨床医療における道徳的・倫理的関心の強さと宗教面での医療との結びつきの強さであった。上記の1. と2. の問題性においてはある意味で、国際的・歴史的な医の倫理のありかたの共通性を感じたが、この第三点、つまり医療の現場における道徳・倫理面への関心の少なさといった面でわが国の状況は、他の世界諸国におけるあり方と際立って異なっていることは特徴的である。これはおそらくは日本国民の精神的状態の反映ともいえようが、ロックフェラー研究所のボアーズ博士の調査によれば、日本の医師たちの80%が「宗教あるいは宗教に似たもの」を信じないと答え、「宗教は医に必要なし」が65%であったという。
もちろん、わが国においても特定の宗派による病院で、スタッフを置くなどの試みを行っているところもあるが、通常の官・公・私立の病院でもこれからは、このような「こころのケア」の専任スタッフ(宗教者を含む) や患者の権利担当職員、バイオエシシスト (倫理委員会などを組織しスタッフをまとめバイオエシックスのガイドラインなどを作成する) を置くようになることが望ましいと私は確信している。
以上述べてきたやや批判的アプローチでの問題性の指摘を、今度は逆に積極的な問題解決のアプローチによりバイオエシックスの述語でまとめると次のごとくである。
(1) 知る権利、自己決定の権利、参加の権利などの尊重と保障、
(2) 公開の義務と責任、公共政策としてのガイド・ラインなどの形成、
(3) 道徳的・倫理的な問題および医療における宗教の重要性の確認
諸外国での活発なバイオエシックス研究は、どちらかというと抽象的な理論形成から始まったというよりも、むしろ医師・看護婦・患者・家族・宗教家・法律家・哲学者・バイオエシシストらとの共々に開かれた形での討議やガイド・ライン作成のための具体的なケース・スタディを積み重ねることから展開されていった。その中から数多くのバイオエシックスのテキストブックも生まれ公共政策も形成された。このことをふまえて、わが国にも病院や医学研究施設などでの部外者をも加えた大胆な対話や討論の試みが、開かれた形で継続的に行われるようになる時の一刻も早く来ることを、私は心から願っている。
1) 川畑愛義:宗教と医学のはざまに立ちて- 生死一如の光を観る - 樹心社, 1990
2) 木村利人:いのちを考える- バイオエシックスのすすめ - 日本評論社, 1987
3) Kimura R:Fiduciary Relationship and the Medical Profession:A Japanese Point of View, Pellegrino ed., Ethics, Trust, and The Professions:Philosophical and Cultural Aspects, Georgetown University Press, 1991
4) Kimura R:Religious Aspects of Human Genetic Information, ed. Ciba Foundation, Human Genetic Information:Science, Law and Ethics, John Wiley & Sons, Chichester, U.K., 1990
5) Nishida H:Future Ethical Issues in Neonatology:A Japanese Perspective. Seminar in Neonatology. 11, 3, 274, 1987
6) 仁志田博司:医の倫理- その現状と問題点, ヒューマンサイエンス (特集:生命倫理とコミュニケーション、木村利人編) Vol.3 No.1, 早稲田大学人間総合研究センター, 1990