医の倫理の課題と展望
-バイオエシックスの視座から
1. はじめに |
"医の倫理 medical ethics" には長い歴史がある。それは人々の病を癒すという専門的医業の始まりとともにあったといえよう。
医の倫理とは、基本的には医学・医業専門家集団の一員としての使命と義務を宣言し、社会的・倫理的責任を公的に表明したものをいう。これは、その専門的医業集団の一員である個人の倫理や信条を基礎づけるとともに、その個人の価値観をも越えた共通の医の倫理原則なのである。したがって、その違反者に対しては除名、処罰など、なんらかの制裁が加えられるのが当然のことなのである。ここで1980年に23年ぶりで改定され、国際的にも評判の高い "米国医師会・医の倫理原則" を典型的な現代の医の倫理原則の一つのモデルとしてあげておきたい (表1)。米国医師会の解説によれば、この倫理原則は法律ではないものの、医師に対しては法律と同等もしくはそれ以上の強制力をもち、その違反は会員資格の剥奪を意味するものとされている。
表1 米国医師会・医の倫理原則 (1980) |
医業専門家集団は長い間にわたり、主として患者の利益のために展開されてきた倫理宣言の総体を承認してきた。この専門家集団の一員として、医師は患者に対する責任のみならず、また社会や他の保健職業専門家及び自己への責任を認めなければならない。米国医師会により採択された次の諸原則は法律ではなく、医師の名誉ある行動にとって本質的なことを定めている行動の基準なのである。 1. 医師は人間の尊厳への同情と尊重の念を持って適切な医療を与えることに献身しなければならない。 2. 医師は患者及び同僚医師に対して正直に対処し、人格またはその能力に欠陥を持った医師及び詐欺または欺罔に携わる医師を明らかにすべく努めなければならない。 3. 医師は法律を遵守するとともに、更に患者の最大の利益に反するような諸要件の変更に努力すべき責任を認めなければならない。 4. 医師は患者の権利、同僚医師及び他の保健職業専門家の権利を尊重しなければならない。また法の制約の範囲内で患者の秘密を擁護しなければならない。 5. 医師は科学的知識の学習、応用を、推進継続しなければならない。また相互に関連する情報を一般の人々に得させ、必要に応じ他の保健職業専門家の持つ能力を活用しなければならない。 6. 医師は患者に適切な看護を供与するに当たり、救急の場合を除き、業務を遂行する相手方、共に業務を行う者、及び医療を提供する環境を、自由に選択できるものとする。 7. 医師はコミュニティ(地域共同社会)の改善に貢献する諸活動に参加すべき責任を認めなければならない。 |
日本においても勿論のこと、人間の生と死と病に直接に関わる職業専門家としての臨床内科医にとって新しい時代に相応しい医の倫理原則の理解と遵守が求められている。これは厳然とした社会的要請であり、現代において "医の倫理があってこそ真の医療が存在しうる" という考えがようやく人々によって受け入れられつつあることは注目に値する。
本項では、このような医の倫理をめぐる時代的変革の背景とその意義に焦点を合わせつつ、バイオエシックス bioethics の視座から現代の新しい医の倫理の課題を論じ、その展望を試みたい。
2. "医の倫理の伝統" への訣別 |
歴史的には、伝統的な医の倫理の原型はギリシアの医祖と伝えられる Hippocrates (B.C. 460頃〜B.C. 375頃) の "誓い" にあるとされている。その具体的な内容としては "患者に害を与えない"、"患者との間の秘密を守る"、"積極的に死をもたらさない"、"堕胎を行わない" などがあげられ、これらの基本原理が医の倫理概念の形成に与えた影響は大きい。
その後、ごく近年にいたるまで世界の諸国において欧米諸国ではキリスト教のアガペの愛、イスラム世界ではシャリア、中国文化圏では仁などの行為により、病者を癒すための献身的医療の倫理性を説くなど、医療の実践が宗教的、倫理的基礎づけの中で行われてきた。
日本においては、現存する最古の医書『医心方』(984年) の安政6 (1859) 年版2ページに記載のある "大慈惻隠をもって医を行うべし" という仏教的・儒教的倫理表現にみられるように伝統的に "仁術としての医" が展開され、憐れみ思いやる立場からの父権的な医師-患者関係が当然のこととなってきた。また、幕末には蘭学者杉田成卿により訳された『医戒』(1849年) が版を重ね、当時の人々は勿論その後も注目されてきた。
1951年に日本医師会により公表された "医師の倫理" は、全44項からなる倫理綱領で "仁" を基本におき、"ただ患者のためということあるのみ" としているのは伝統的な日本の医の倫理に沿ったものであるといえよう。
ところが、1960年代後半から世界的にこれらの従来とはまったく異なる発想での生命に関連する倫理の新しい基本原則が生まれるにいたり、伝統的な医の倫理との訣別が始まった。それらは一体、どのような理由により、どのようにして展開したのであろうか。
3. バイオエシックスの誕生と形成 |
伝統的な医の倫理が社会的有効性を失ったのはなぜだろうか。それは医業専門家集団の閉鎖性、独善性が無自覚なままで進行し、自己規制能力を欠き、ごく一部の集団の成員の非倫理的行為が集団全体のものとして社会的に批判されるにいたったことに一つの大きな理由が存在するからなのである。
実は、この批判のルーツはすでに第二次世界大戦終結時に遡ることができる。周知のように、ナチス医学の犯した捕虜やユダヤ人に対しての医学人体実験などの戦争犯罪が裁かれた。そして患者、被験者の同意が臨床治験を含むあらゆる医療行為を行うにあたって必要だとする原則は、"ニュルンベルクの医の倫理綱領" として広く国際的に確認されることとなった。日本でも同じような医の倫理の境界を踏み越えた医学人体実験や生体解剖などが中・米・ソなど当時の敵国捕虜などを対象に行われた。しかし、日本ではこれらに携わった軍事医学専門家が占領軍との細菌兵器情報の取り引きの結果、戦争犯罪として訴追されることなく、日本の医学界も自らの問題としてこれらの人々を弾劾、処分することもなかった。
しかし、同意がなかったり、情報を十分に与えなかったりしてのさまざまな医学人体実験や治療処置による患者、被験者への人権侵害の事例は、その後も世界の各地で跡を絶たなかった。とくに、生命・医科学技術の急激な展開の中でますます非人間化の一途をたどりつつあった医療の在り方が糾弾され、その実情が明るみに出ることとなったのは、ようやく1960年代に入ってからのことであった。それをもたらした背景には、さまざまな人権運動、消費者運動、患者の権利運動、女性解放運動などをはじめとするさまざまな "人間のいのちを守り育てる社会変革の運動" の高まりがあった。
医療先進諸国では患者が人間としての尊厳に目覚め、その人生観や価値観、人間としての権利が臨床医療の現場でも正しく尊重されるようにと主張し始めた。その患者、家族、コミュニティー一体となっての運動の展開がいちはやく医療・厚生行政、医師会、病院協会、地域社会などでの公共政策に反映されることになったのが国際的にみて1960年代後半から1970年代の初めにかけてであった。
社会の価値観の大変動を的確にふまえ、これらの社会的な人間回復の意味するところの根本に "人権尊重の運動" をおいて、旧来の学問分野の枠組みを越えたまったく新しい発想で展開されることになったのがバイオエシックスなのである。
バイオエシックスの対象とする研究分野はきわめて多岐にわたる (表2)。そして旧来の医の倫理を一部に包摂しつつ、そのいわば構成学問分野として生命・医科学、倫理、宗教、神学、哲学、法学、看護、政治、経済、政策、福祉、遺伝学、科学技術論、歴史、文学、美術、音楽、環境問題など、その始まる前から終わった後にいたる "いのちの問題" に関わりあるあらゆる研究分野を含むのである。このようないわば、著者が提唱し、名づけた用語でいうところの "超学際的 supra-interdisciplinary" なバイオエシックスという学問分野の到達点を示す成果がすでに1978年には『バイオエシックス大百科事典』としてジョージタウン大学のライク博士 Dr. Warren Reich により編集、刊行され、その第2版 (全5巻) が1995年に刊行されている。
表2 バイオエシックスの研究対象と領域 |
バイオエシックスの研究テーマは相互に複雑に関連しあっているが、一応下記のように大きく三つの領域が設定される。 1. 生物・医科学実験および人間生命の始期をめぐってのバイオエシックス - たとえば遺伝子操作、人工授精、胎児実験、体外受精、胎児の保護、妊娠中絶、遺伝相談、人口政策など 2. 人間生命の質の向上をめぐってのバイオエシックス - たとえば、自然・社会・環境と生命、生命権・健康権・医療・保健と財政・法律・政治・経済の構造、治療と看護、人工臓器とその移植、生物・医科学専門家・医療従事者・患者・被験者を含む倫理基準・指針、歴史・伝統・文化・社会・宗教・教育とバイオエシックスなど 3. 人間生命の終期をめぐってのバイオエシックス - たとえば死の判定の再定義 (自然死・尊厳死などの立法)、ホスピスなどにおける死期の看護、植物状態人間、延命装置の使用とその停止、安楽死、医療辞退など |
現代においてバイオエシックスとの関わりなしに "医の倫理" を理論的にも、実践的にも展開することは不可能である。著者はこのようなバイオエシックス形成の社会的要因を 表3 のようにまとめ、これらの事象の相関関係を浮かび上がらせようと試みた。次に具体的なケースによりバイオエシックスの視座から医の倫理の課題を論じてみたい。
表3 バイオエシックス形成の社会的要因 |
1. 公害 | 科学技術の急激かつ高度の発展とその弊害 -公害- 企業利益優先への批判→非人間化傾向への深刻な反省 |
2. 生命操作 | 生物・医科学研究および医療の飛躍的発達・技術化・複雑化・専門化・自動化 -生命の操作の実現- 悪用・誤用の脅威 (生物化学兵器の開発) →人間生命の尊厳と生命権の再確認 |
3. 公共政策 | 個人主義を超える発想の必要性 - 個人と社会・公共政策の問い直し→グローバルな視座と未来への責任 |
4. 医療 | 医療の社会化の動向 -医療財源の公正な配分と使用- 人間としての患者 - 医療従事者と患者との新しい在り方→消費者運動の立場からの医療サービスへの発言の強化 |
5. 人権 | 社会的少数者・被抑圧者・被差別者・弱者 (病気・身体面) の権利擁護と平等、女性の権利の主張、患者の権利宣言→立法・判例・規則・宣言の増加とその確立 |
6. 価値観 | 権威・秩序・伝統的価値基準の崩壊とその再検討 - 価値の多元化→真の人間性とはなにかの問いと模索 |
7. 超学際 | 専門領域を超えて協力しあう学問研究の定着と成果 - 学際から超学際への動向- とくに西欧文化圏に成立した学問の普遍性への問いと批判→非西欧文化の中での学問研究の独自の展開の必要性 |
4. 医の倫理と自己決定 - 日米比較 体験から |
著者には尿管結石の病歴があり2回の発病と手術を経験した。これを通してまさに医の倫理の発想とバイオエシックスの基本理念との大きな違いを患者の "自己決定" の原理の認識と実践の差として経験することになった。
1970年にサイゴン大学で教鞭をとっていたときに著者は劇痛に見舞われ、当時戦時下の危険な環境の中での手術よりも日本に帰国しての入院と手術を勧められ東京の大学病院に入院した。もちろん診断の詳しい説明や、処置の内容、予後などについてまったく告げられず、結石の写っているらしいX線写真を前にした医学生と主任教授とのやりとりの中で手術は最終的に決められ、同意書への署名捺印を求められたことをいまでもよく覚えている。医療側としては患者のためによかれと願い、専門家として最善と思われる医療処置の決断をするのが当然のことであり、まったく疑問の余地があるはずもない。しかし、著者にはもっと詳しく説明してもらいたいという不満が残った。回診のときに退院予定日のことも含め質問したが、要するに "手術跡の傷口がなおってから" と一蹴されてしまった。父権的医療システムの中で "患者は医療の単なる対象" にしかすぎないということをつくづくと感じた。
ハーバード大学にいた1979年に2回目の発病をし、泌尿器専門医のクリニックで40分以上の時間をかけて詳しく検査の結果やX線写真をみながらの診察と説明をうけ、最後に医師のいった一言にショックを覚えた。医師は "木村さん、私は専門家としてあなたの結石の摘出手術を勧めますが、それを最終的に決めるのはあなた自身です" と私に告げ、"セカンド・オピニオンということで誰か他の専門家の見解を聞きたいなら、それも自由です。もちろん、あなたが手術を拒否するのもあなたの価値観による自己決定です" と私の目をじっと見つめ "この病院の患者の権利章典を読みましたか" と私に尋ねたのだった。"患者が医療処置をめぐる価値判断の最終決定者であり、医療の中心にある" ということをこのとき私は感動をもって体験し、約15年以上も前の当時の日米の患者と医師の意識のあまりの差に愕然としたのであった。
5. バイオエシックスの原理と公共政策 |
患者への手術などの医療処置の内容につき、患者が、検査結果や診断内容を含め医療側からの十分な情報に基づき納得して自分で自分の価値判断に基づき決断することがバイオエシックス的な意味での "自己決定" なのである。バイオエシックスの視座からの現代の医の倫理の原点は、この患者の価値観に基づく "自己決定" の最大の尊重にある。患者が医療の中心にあるからなのである。
しかし、私たち各人が、"いのちの主権者" として自分の価値観、人生観、ライフスタイルを大事にし、正しい "自己主張" と "自己決定" を行う習慣を養うことがなによりも重要なことであるとの認識が日本でも常識となりつつあるであろうか。たとえば、末期医療における患者の advance directives (事前指示を意味し、患者本人にとって意味あると思われない延命の停止につきあらかじめ意思表明を行ってある文書) などは法的にも必ずしも有効とはされていない現状にも問題がある。
と同時に、日本でも地域と国レベルでの医療や福祉などいのちに関連する課題への合意の形成を目指して、先端・生命医科学展開に伴う臨床研究、治療、医師-患者関係の在り方をめぐるバイオエシックス公共政策の策定がなされるべきであるのに、それへの取り組みがきわめて遅れている。
現在、日本の医学会、医師会など職業専門家集団、厚生関連官公庁、大学医学部・病院などに設けられているバイオエシックス関連の審議会、調査会、倫理委員会などは委員会自体がほとんど非公開とされているのは問題であろう。
一般に公開された審議の蓄積こそが本来のバイオエシックスの在り方にふさわしいものであるのに、そうなっていないのはなぜなのであろうか。日本では仲間内の人間関係、とくに師弟などの上下関係に重きをおく "間柄の倫理" があまりに当然のこととなり、当該分野の専門外の人々や素人、あるいは地域コミュニティの代表などの発言に耳を傾けない悪習が幅をきかせてきていたからであろう。家族内や勤務先での "和" や "協調" を目指す "関係の中の自己・決定" はそれなりに日本社会の中で妥当性をもつともいえようが、その克服はバイオエシックスの視座から医の倫理にアプローチする際の大きな課題の一つであろう。このような旧来の医の倫理へのアプローチをするにあたってバイオエシックスの視座からその基本原理について著者は 表4 にまとめてみた。
ここでは、自己決定の原理、恩恵享受・授与の原理、平等の原理、公正の原理が、それぞれのアプローチにより多様な展開をするありさまの概要を記しておいた。これらは原理に基づいたバイオエシックス principle-based bioethics として、広く臨床の現場に受け入れられてきている。
表4 バイオエシックスの原理とアプローチの多様性 |
原理 | 患者・医療専門家・公共政策へのアプローチ | 正義実現へのアプローチ | 決定へのアプローチ |
自己決定の原理 | |||
恩恵享受・授与の原理 | |||
平等の原理 | |||
公正の原理 |
自然・社会環境の中での人間生命共同体における共存の原理→情報・決定・政策の共有 |
またその一方で1990年代に入ってからは、これらの原理を基本的に前提にしたうえでの批判的な医の倫理・哲学の展開もみられ、"医療者の人間としての徳目virtue" に注目し、たとえば、誠実、正直、同情、憐れみなどに焦点をあてたり、"患者への臨床面でのケア care"、たとえば患者の心や身体の苦痛への共感に基づくバイオエシックス理論も展開されつつあるのは注目される。
6. 古くて新しい課題と今後の展望 |
いままで述べてきたような意味あいをふまえながら、さらに現代日本の医の倫理が直面すべき三つの新しい課題について問題提起を行いつつ今後の展望をしてみたい。
第一にあげられるのは医の倫理における "フェミニズム" 的倫理の展開であろう。これはいままでの学問や研究全体の在り方の問題でもある。いままでの医学に関するあらゆる世界観、学問観、人間観への根源的な問い直しを意味する。とくに医療と看護の領域において男性中心主義的な価値観、論理、倫理が支配的な状況の中で、男女の平等の原理に根ざした真の医の倫理が展開されるためには、旧来の医療・看護システムの中で展開されてきた倫理原則に対するフェミニズムの立場からの大胆な挑戦が欠かせない。現在その試みが世界の各地で行われてはいるものの日本ではその問題性すらほとんど認識されず、この面からの新しい展望がなし得ない状況にある。ここではとくに看護職との関わりでフェミニズムの発想の積極的意義を新しい医と看護の倫理への課題として認めつつ表にまとめてみた (表5)。今後、日本におけるフェミニズムによる医の倫理の新しい構築が心から期待される。
表5 看護職とフェミニズムの発想 |
問題提起と対案 | 女性としての経験や関心、発想をもとにして、看護における問題点の前提や核心となっている事象、定義、枠組み、方法論、技術などに疑問を投げかけ、新しい看護の学の形成のための対案を提示する (学問の普遍性、客観性の名による '男性的論理・発想' の全面的否定と排除) |
創造性 | 女性の視点からの新しい看護カテゴリーに基づいたデータの提供と価値観の創造を試みる (フェミニズムの発想による新しい、より統合された全人間理解とその学問の形成) |
歴史的アプローチ | 比較文化史、とくに日本女性史の視座からの歴史的アプローチを看護の分野に導入し、人間観 (男性および女性)、家族、医療、看護などの史的意味と構造の新しい把握を企てる |
体験と感性の重視 | 女性としての看護体験を女性の論理と感性に基づき、多様な体系化 (たとえば物語=ストーリーとして集成) をはかる |
男性中心の価値意識への批判 | 伝統的な男性中心の価値意識や役割の固定化 (男、女、子供など) の前提 (表面に出ないメッセージ) を鋭く指摘し、その批判を意図する |
第二は、"制度としてのヘルス・ケア" をめぐっての医の倫理の課題が指摘されよう。現在、日本のほとんどの医療従事者によって意識的に自覚されてはいないと思われるが、医師の処方による薬剤を医師自身の勤務、経営する病院または診療所から患者が入手する方式は、医師・患者の "利害関係の衝突 conflict of interest" として、諸外国では倫理的に問題があるとされている。医薬併業の倫理的問題点は、いうまでもなく医師の利益誘導にこのシステムが大きく貢献し、莫大な利益をあげることが可能とされてきたからなのである。
そのほか、きわめて日本的な古くからの倫理的問題点として医師への患者・家族からの個人的謝礼を当然とする風潮と慣行 (当事者双方に問題がある)、倫理問題への無関心、医療者の権威主義、待ち時間の長さと診察時間の短さ、不十分な説明、スタッフの多忙、患者の人としての尊厳・人権の無視や侵害などといった事柄への異議申し立ても表明されつつあるが、全般的な改革と変革の試みは始まったばかりでしかない。これらは古くからの問題ではあっても医の倫理の重要課題として新しく、国際的な展望において真剣に取り組まれねばならないと考えられる。
確かに世界の同時代史に組み込まれている日本においても、バイオエシックスの発想が人々に知られ始めたこの約15年くらいの間にかなりの変化がみられたことも事実であり、積極的に評価できる側面も存在する。たとえば、全国的な医療関係団体のいくつかは患者の権利宣言をしたり、医学専門学会でも専門外の人々を加え、医の倫理に焦点を合わせてのパネルセッションも開催された。地域や個人の病院でもそれなりの工夫に基づいたカルテの開示、説明と同意、入院案内、患者の権利と義務、医師・看護婦の責任といった情報をパンフレットにしたりするところが増えてきたし、患者の権利法を作る会も活発な活動を継続している。このような動向は、日本におけるグラスルーツレベルでのバイオエシックス運動の大きな成果の一つであり、今後に明るい展望の開けることを期待させる。
第三にとりあげたいのはますます拡大する "医療・健康情報" への対応をめぐる医の倫理の課題である。ヒトゲノム解析研究プロジェクトの急速な展開とその応用の可能性が示すように、遺伝子診断とその情報が現在健康で発病していない人を不安に陥れ、しかも欠陥遺伝子保因者として社会的な差別を受けないという保証もない。だれがなんのために遺伝、健康情報を管理するのかの社会的・法的・倫理的体制作りの整備がバイオエシックス公共政策の手法によりなされねばならない。
そのほかコンピュータによる医療情報の解析、病院経営やコストの削減、さらに患者の健康管理や医療事故、安全、救急、疫学、薬剤、移植などに関連する情報ネットワークなどをめぐっても医の倫理問題はますます増加の一途をたどることになると予想される。この分野で著しく遅れをとっている日本でも関連学会や公共機関、国会の委員会などによる早急な公共政策的対応が必要である。
7. おわりに - 人権尊重の医療へ |
以上、本稿で論じたように、医の倫理をめぐる古くて新しい問題はつきることがない。これらにどのようにアプローチし、どのような倫理的解答を引き出すのか、もはや一つの問いと一つの解答だけではなりたたないし、また納得できない時代に私たちは生きている。
しかし、一方で現代の多様で多元的な文化に生きる私たちを一定の共通する価値観において結びつける指標が必要となる。国際連合による "世界人権宣言 (1948年)" はその一つの手がかりとなろう。米国ハーバード大学公衆衛生学部の全学生が1990年以降の卒業式では卒業証書と "世界人権宣言" の文書を同時に手渡される。このことは、まさに人権尊重を核心とした医療と医の倫理のあるべき姿を未来に向けて展望することが期待されていることを意味する。
この約50年にわたって国際的に受け入れられてきた "世界人権宣言" の基本原則 (たとえば第25条、医療・健康・福利への権利) などが国際的、国内的にさらに充実されることにより、未来の医療への展望と医療における人権保障の平等な実現が十分になされるよう期待したい。
参考文献 |
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