修論「高齢者ケアに関する政策決定過程をめぐるバイオエシックス的考察」注釈
(第1章:高齢者ケアをめぐる価値の多様性とバイオエシックス適用の可能性/1-2. 本論におけるバイオエシックス諸原理の捉え方と高齢化社会への適用可能性)


32 木村利人:1993,『いのちを考える - バイオエシックスのすすめ』, 日本評論社, 東京, pp. 18-21
33 Tom L. Beauchamp, James F. Childress:1994, "Principle of Biomedical Ethics", Fourth Edition, Oxford University Press, New York, p. 121 (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:1997,『生命医学倫理』, 成文堂, 東京, p. 80を参照)
34 なお、上掲書によれば、'meaningful choice' (意味ある選択) の例として、'inadequate understanding' (不十分な理解) をあげた上で、自律的な個人は、自由に自己選択し、かつ、情報を得たうえでの計画に従って行為する (同上原著, p. 121を参照)、と述べられている。
35 山田卓生:1989,『私事と自己決定』, 日本評論社, 東京, pp. 335-336
36 Tom L. Beauchamp, James F. Childress:Ibid., p. 126 (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:上掲書, p. 84を参照)
37 同上, p. 126 (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:上掲書, pp. 84-85を参照)
38 莇 昭三:1993,『医療学概論』, 勁草書房, 東京, p. 237 同書では、「患者」の自己決定の前提である「自律している」とは、「自分で思考し、決断し、それにしたがって労働する能力を有するということであろう」と述べられているが、筆者は思考と決断が可能な状態で既に患者 (のみならず) 個人の「自律」そのものは成立し、且つ、労働する能力の有無に関わらず「自己決定」は為し得るものと考える。なお、同書によれば、「患者の自己決定権は患者の自律の確認」と言明した上で、医療者の責務を自律の面からみれば、それは「患者が自分で思考することを援助し、患者の決断に勇気を与え、そして医療従事者が患者とともに行動することであろう」と述べられている。
39 山田卓生:Ibid., pp. 344-345 なお、同書によれば、「自己決定は憲法が例示する諸自由の前提ないし上位概念と考えるのがよいと思われる」と述べられた上で、あらゆる事柄についての一般的な自己決定権ではなく、私事であるという点で一般の基本権とは異なるとの見解が示されている。従って、「他人に危害を加えるおそれのある場合は、制約を受ける」とされる。また、同書では、危険行為や生死の問題をめぐって、「生命保護的な観点からする自己決定権の制約がなされるだろう」と述べられた上で、「生命の処分をまったく本人の自由とすることは、おそらく、そう近い将来には実現しないであろうが、生死に関しての自己決定権は、徐々に尊重されるようになるであろう」という展望がなされている。
40 Tom L. Beauchamp, James F. Childress:Ibid., p. 125 (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:上掲書, pp. 83-84を参照)
41 同上, pp. 127-128 (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:上掲書, p. 86を参照) なお、原著では、仁恵と自律の衝突をめぐって、正当化され得るパターナリスティックな介入についての議論においても、非自律的な人を保護する天蓋 (canopy) として自律尊重原理を用いるべきかどうかの問題が扱われている (pp. 271-291)。
42 Jacqueline Singer Edelson, Walter H. Lyons, 長谷川和夫, 浅野仁監訳:1988,『痴呆性老人のケアの実際 - 人間性に基づく理念とそのアプローチ:職員・家族・ボランティアのために』, 川島書店, 東京, pp. 3-9 なお、同書によれば、「重度の障害によって、生活面でのほとんどを職員に全面的に依存している老人であっても、人間関係および情緒的なニーズは健常者と同じように残っているのである」と述べられている。さらに、同書によれば、「たとえ、その人の常同行動が器質的な要因でひき起こされたものであっても、それはその人にわずかに残された表現の手段であるという理由で、無意味であるなどとはけっして解釈してはならない」とされる。
43 「特異なタイプの非自律的行為者」本論において、たとえ、個人の記銘力や理解力などの障害の大きさによって、その自律性が極めて乏しい状態であったとしても、自律そのものは皆無ではなく、それらが自律的な「行為」として個々の場面で十分に発揮し得ないだけである、と考える場合の行為者を指す。この場合、それぞれの痴呆の程度に応じて、自律の概念にも何らかの「程度」が存在することは考えられるが、筆者は、あくまでも人間存在が本質的に有するべき「自律」の普遍性に期待したい。例えば、痴呆性老人の行為自体は非自律的であったとしても、その本人の情緒面、あるいは「人間らしさ」自体は、必ずしも、非自律的とはいえないのではないだろうか。この場合において、自律の概念定義は、限りなく「人間の尊厳」の意義に近似していくもの、と筆者は推察している。
44 Tom L. Beauchamp, James F. Childress:Ibid., pp. 259-260 同書によれば、「危害を加えないことと、利益を供給することとの間は連続的であって、明確な区分が存在するわけではない」とされた上で「仁恵原理は、可能性としては、無危害原理 (他者に危害を加えないこと) 以上のもの - 他者への援助に積極的に踏み出すこと、を要求することになる」と述べられている。特に同書では、<無危害原理>の適用として「危害の '防止' や有害な状態の '除去' は、'他者を助ける' という積極的な行為を要請する」ため、利益の提供に加えて、これら防止や除去についても「<仁恵>に含まれる」ものとされる。従って、本論では、<無危害原理>と連続し、且つ、それを包摂する価値概念として<仁恵原理>を捉えるものである (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:上掲書, p. 231を参照)。
45 同上, 'Case 2: Nondisclosure of Prostate Cancer', pp. 512-513 例えば、精神病歴をもっていて非常に脆弱ではあるものの、自らの医療上の情報を要求している69歳の癌患者に、医師が「10年前と同じくらい健康です」と告知をした場合、その行為は、この患者の自律的な選択能力を失わせないように保護するための医師のパターナリスティックな嘘といえる。情報を要求するという点では、この患者は自律的に行為しているといえるが、もし、彼に情報が与えられたならば、彼は自律的に行為できなくなると医師は確信している。この事例は、当事者の自律を<無危害原理>、あるいは<仁恵原理>によって、保護あるいは補完しようとする意義において、自律尊重原理に則ろうとする医療者側の意図がうかがえる。しかし、果たしてそれが本当に当事者の自律を尊重した判断であったかどうかは疑わしい。いずれにしても、<無危害原理>や<仁恵原理>による「自律尊重原理へのパターナリスティックな介入」は最小限に止めるべきである、という事だけはいえるだろう (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:上掲書, pp. 264-265を参照)。
46 同上, pp. 259-260 (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:上掲書, p. 231を参照)
47 同上, p. 283 (訳書は、永安幸正, 立木教夫監訳:上掲書, p. 263を参照)
48 厚生省社会・援護局/児童家庭局監修:1995,『社会福祉用語辞典』, 中央法規出版, 東京, p. 393
49 厚生省:"平成8年訪問看護統計調査の概況" (last modified Jul. 14, 1997) <http://www.mhw.go.jp/search/docj/houdou/0906/h0622-1i.html>
50 三牧ファミリー薬局:"医療関係法規の部屋" '痴呆性老人の日常生活自立度判定基準' (last modified Jan. 25, 1997) <http://web.kyoto-inet.or.jp/org/kanpo/3W/houki/tihou.html>
51 George L. Maddox 編, エイジング大事典刊行委員会監訳:Ibid., p. 607 なお、同書によれば、「発達した産業社会における家族によるケアの提供に関する問題を倫理学者が考察するとき、子としての責任という伝統的な形態は、長寿化、家族構造の移り変わり、及び婦人の変化する役割をといった点を考慮するようには決して意図されていなかったことが明らかになる」とした上で、「家族によるケアの提供と公的なケアの提供とのバランス」という話題は「遠大な倫理的問題を伴うものであることが分かる」と述べる。これは本論の第3章で扱う「介護保険」をめぐる諸問題に重大な示唆を与える論点であるだろう。
52 Robert M. Veatch:1981, "A Theory of Medical Ethics", Basic Books, Inc., Publishers, New York, pp. 209-213 なお、同書によれば、「現実の世界では、全くの孤立した自律的個人、あるいは自由行為者はいない」とした上で、「教会やボランティア組織、会社、家族や民族社会といった何らかのグループの成員」として個人があるとされている。さらに、同書では、「これらのグループは、より小さな道徳的コミュニティとして個人に機能し、如何なる医学倫理の理論もこれら道徳的コミュニティの論理を含まなければならない」と述べられている (訳文は拙訳)。
53 同上, pp. 209-213 訳文は拙訳。
54 同上, p. 211 訳文は拙訳。
55 1999年11月27日・28日両日に開催された日本生命倫理学会第11回年次大会中、第2日目「ワークショップ E 高齢化社会と医療」の終盤、大井玄氏 (国立環境研究所)、新井誠氏 (千葉大学法経学部)、岡村清子氏 (千葉大学) の間で、「成年後見制度」に関する活発な討論が行われた。筆者にとって最も印象深かったのは、「当事者の能力の判定」について「果たして医の領域だけで正確に判断され得るのか」という問題をめぐる討論である。特に、法律家として新井誠氏が「当事者の能力を判断すべきは医療者ではないのか、そもそも、そうした鑑定書を書いたことのある医者は少ないのではないか」と問題提起されたのに対し、大井玄氏ら医療者側は「鑑定書を書くのは相当難しく、場面によって、また、相手によって、患者は (受診態度が) 変わってしまうので、医の領域のみでの当事者の能力の正確な判断は極めて困難である」という見解を表明された。
 なお、新井誠氏は、冒頭で、当事者の自己決定に基づく「任意後見」の導入と、当事者の身上保護をめぐる、後見 (事理弁識能力なしの場合、全ての行為対象)・保佐 (事理弁識能力著しく不十分の場合、法定の行為対象)・補助 (事理弁識能力不十分の場合、特定の行為対象) について説明された。特に、保護する範囲が格段に広がる「補助」の類型の新設の重要性についても強調されていた。また、後見制度を「医療・福祉・法律をコーディネートするもの」とする見解を表明された事も筆者にとっては印象深かった。

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