1-2. 本論におけるバイオエシックス諸原理の捉え方と高齢化社会への適用可能性

 バイオエシックスの重要な4つの視座としては、まず、基本となる<自己決定の視座>、そして、当事者の<恩恵の視座>、また、特定の個人の価値判断や道徳的・倫理的基準をふまえつつ、その個人の生活している社会における合意や、公共政策に関連しての<公正の視座>、さらには、医療のサービス等に関して差異を設けてはならないとする<平等の視座>があげられる32
 本項では、まず、バイオエシックスの基本となる<自己決定の視座>の基となる、自律尊重原理について、これを高齢者ケアにおいて如何に捉えていくべきか、考えることからはじめてみたい。

1-2-1. 高齢者ケアにおける自律尊重原理の捉え方

 そもそも「自律」とは、他者による支配的な介入と、自らの意味のある選択を阻む個人的限界とから自由な、自己の個人的支配の概念33と捉えられるものである。
 この観点において、高齢者ケアにおける「意味のある選択」とは、高齢者個々人が自らの主体的な意思に基づき、自分にとって何らかの利益や不利益をもたらすであろう対象 - 例えば、自らのケアを構成している医療や福祉関係の従事者個々人や、彼らがそれぞれに行う具体的な支援の内容、あるいは、そのケアの在り方自体を成り立たせている制度や政策、ひいては、その根幹にあるべきケアの思想や哲学といったものを、あくまでもケアの当事者たる高齢者本人が、他者からの制約なく選ぶという権利であると捉えられ、この権利が制約されることのない自己の在り方こそ「自律」といえるだろう。
 さらに、それを阻む「個人的限界34」について考えれば、それは上述したような様々なケアの場面における諸対象と、当事者自身との関係によってもたらされる利益や不利益についての価値判断が、主体的に為され得る選択の範囲、と考えることができるのではないだろうか。
 従って、この「個人的限界」とは、そのときどきのケア場面において高齢者個人が主体的な意思による選択が可能な範囲を意味し、この範囲によって、個人の真意にに基づく自己決定の際の選択の幅は限定されてしまうことが考えられるだろう。そして、この個人的限界が設定されない状態にある時こそ、個人の自律は保持されているものと考えられる。特に、自己の利益については、自分こそが最善の判断者であるといえるならば、本人に判断能力が備わっている限り、まわりから選択を強制したり、選択の幅を認めるべきではない35だろう。こうした当事者の選択に基づく自律的な行為は、如何なる制約からも基本的に自由であるべきではないだろうか。
 しかし、自律的行為とは、他者の統御的拘束に服従するものではない36概念であると同時に、「個人の思想や行動が他者に重大な危害を<与えないかぎり>、その個人の見解や権利を尊重しなければならない」と表現されるものである37。また、自己決定を尊重するということは、まず、その前提である自律を目的主体として尊重することである38
 しかし、この自己決定に基づく個人の自律的「行為」- 例えば、自らがその主体的意思によって "必要だ" と判断したニーズの要求等、が「個々人の自律性」として社会に顕在化されれば、それを取り巻く様々な価値概念との競合が必然的に生じてくることが考えられるのではないだろうか。ここにおいて、個人の「自律」そのものは普遍的に尊重されるべきであると考えられるものの、それが行為化された状態の自由、すなわち、個々人の「自律性」は、他者による介入や「社会における他の価値概念」 - 例えば、仁恵や正義との競合を経て、はじめて「自律性」として承認、あるいは一定の制約を受け得るものと考えられるのではないだろうか。

社会における個人の自律性と、それをめぐる諸価値概念の関係

図1-3. 社会における個人の自律性と、それをめぐる諸価値概念の関係

 特に、高齢者の自律に基づく自己決定という行為が、社会に混在する他の価値概念 - 例えば、社会共同体における利益の配分の問題に伴う正義 (あるいは、公正) の価値概念等と衝突する時、正当に如何なる制約を課すことができるかのかということは、未決定の問題である 。しかしながら、この自己決定を、自律的な個人の権利 - すなわち、他人に危害を与えない分野における私事として考えれば、いわゆる「やむにやまれぬ利益」による制約 - すなわち、社会的制約と生命保護による制約は可能である39と考えられるだろう。
 例えば、個人の自己決定が、当事者に償い得ない程度の質量の資源消費を要求するようなものならば、場合によっては、その個人の自律的な行為が他者 (国や都道府県、地域の各自治体等の社会的存在も含む) による介入によって制限され得ることも十分考えられるだろう。この際、個人の自律的行為への社会的な制約を保護、あるいは補完し得る、他のバイオエシックスの原理 - 例えば、後述する仁恵の価値概念に基づいたかたちで、許容される範囲内において個人の最大限の利益の享受が図れるよう考慮される必要があるだろう。
 特に、自律的行為者を尊重するということは、まず第一に、個人的な価値観と確信に基づいて自己の見解をもつ権利、選択する権利、そして、行為する権利を含め、その人の見方を認めることであるが、その「尊重」には、「行為者を自律的に行為させる、あるいは、行為者が自律的に行為し得るよう扱うこと」を含んでいる40、ということに注意しておきたい。この観点において、自律的な個人の権利は、その「行為」を通して、はじめて「個人の自律性」として社会に承認、あるいは制約され得るものと考えられるのではないだろうか (図1-3を参照)。
 しかしながら、自律尊重原理は、十分自律的に「行為」し得ない人々 - 例えば、未熟であるとか、無能力であるとか、無知であるとか、強制されているとか、あるいは、他者から搾取されているような立場にある人々、また、幼児、非理性的な自殺衝動に駆られている人や薬物に依存している患者等には、適用できないものであるため、これら非自律的な人間の行動は、その行動から生ずるであろう危害から彼らを守るために、仁恵の基礎に立って有効に統御される41必要もあるだろう。
 特に、痴呆性老人のケアをめぐっては、その自律の「程度」- すなわち、当事者の能力を如何に正しく判断するべきか、といったことが問題となってくるだろう。ただ、ここで注意しておかなければならないことは、如何に自律の「程度」が衰えようとも、高齢者は必ずしも上述したような非理性的な存在でも未熟な存在でもない、ということである。重度の痴呆性老人は、視力や聴力、体力のみならず、記銘力や見当識、理解力や言語能力等といった人間関係を築く上で大切な能力が損なわれてはいるものの、以下の理解42が、臨床の現場から為されていることは非常に興味深い。
 すなわち、(1) 恐怖心、喜び、自尊心、苦悩、不安、羞恥心、思いやりといった経験的に獲得した情緒的能力は全く損なわれていないが、それらの表現は必ずしも (老人ホーム等の) 職員に理解されているとは限らない。(2) たとえ、周囲で起こっていることを正確に、且つ十分に理解することが出来なくても、それを意識し、対応していこうとすることは出来る。(3) 他の人々に対して感心を寄せるという社会性は、痴呆性老人にも維持されていて、それは社会的経験に欠くことのできない能力である。例えば、自分のことをするのが精一杯という痴呆性の老人でも、誰かの役に立ちたいと考えているものだし、そのことを当然だと思っている。非常に依存的な老人、それも重度の痴呆性老人にも、それがあてはまるのは感動的でさえある。(4) 社交性は、認識力が損なわれている時でも失われずに持続するものである。長い一生の間に繰り返し行われている社交的な礼儀は、習慣的な行動に組み込まれて、状況に応じて適切な社交性を発揮するものである、といった実際のケア提供者側からの理解である。
 こうした意味において、重度の痴呆の状態に陥った高齢者が、特異なタイプの非自律的行為者43として捉えられる場合もあり得るだろう。次節では、こうした当事者の自律尊重の原理との関わりに照らして、仁恵の原理をめぐる高齢者ケアの問題について考察してみることにする。

1-2-2. 高齢者ケアにおける仁恵原理の捉え方

 仁恵は、バイオエシックスの<恩恵の視座>の基となる、重要なバイオエシックスの原理の一つであるが、実際の高齢者ケアへの適用にあたっては慎重を要する価値概念であるといえるだろう。また、「仁恵」とはケア供給者側から受給者側へといった一方向的な利益の付与ではなく、当事者の利益を第一義に置いた上での、ケア需給関係における双方向的な恩恵の連関と捉え得るものと本論では考えたい。なお、本論で用いられる「仁恵」とは、"beneficence" の訳語(永安幸正, 立木教夫監訳:1997,『生命医学倫理』, 成文堂, 東京)に準拠したものであり、あくまでも、その本質は当事者に善い行いをする "beneficence" を意味するものとして考えるものである。
 一方、このこの仁恵原理へと連続して包摂され得る、バイオエシックスのもう一つの原理、<無危害>の観点においてさえも、当事者の自己決定を如何に、本人自身の恩恵として活かしていくかといった、仁恵と同種の問題が孕まれているといえるのではないだろうか44。この観点から、本節では、無危害原理に連続する「仁恵原理」の捉え方に主眼を置いて、その自律との関係性についての考察を試みる。
 ここで、自律的行為を行うことが困難な高齢者のケアにおいて、当事者が「非自律的行為者」として周囲 (ケア提供者を含む) からみなされた場合を仮定しよう。その際、ケアを実施する側からの一方向的な父権的温情主義 - すなわち、パターナリズムによって、当事者側の自律そのものが否定される事態は起こり得ることだろう。その時、仁恵原理は、果たして本当に当事者の<恩恵の視座>を成立せしめているのか、という疑問が生じてくる。つまり、時として、当事者の自律を保護するという目的において、無危害原理や仁恵原理に立脚したケアの在り方のみが強調され、実質上は肝心の当事者の自律そのものがケアの当初から、ないがしろにされ得る事態45も起こり得ることが考えられるのである。
 この時、仁恵原理において扱われる行為とは、道徳によって要請された行為 - 人を自律的なものとして扱い、しかも、危害を加えることを慎むだけでなく、さらに、その人の幸福に貢献するような利益をもたらす行為である46、ということを前提として考える必要があるだろう。例えば、ミクロ・レベルの臨床/技術のケア場面において、痴呆の高齢者が上述の「非自律的な人間」としてみなされ、そこに仁恵原理が適用される場合、あくまでも彼らの残存能力として見出される克服要因に着目し、そこに当事者の何らかの主体的意思が汲み取られる努力が為されることを期待したい。
 ただ、仁恵原理をケアのミクロ (臨床/技術) から、メゾ (制度/政策) を通して、マクロ (思想/哲学) のレベルにまで適用していく際、必然的に「パターナリスティックな行為」についての問題が浮上してくることに注意しておかなければならない。つまり、次のような場合にのみ、パターナリスティックな行為は、ヘルスケアにおいて適切とされる47ということに留意する必要があるのである。すなわち、(1) 怪我もしくは病気のために、患者が危険な状態にある場合、(2) 患者に対するパターナリスティックな行為 (例えば、介入や非開示) のリスクが実質的でない場合、(3) 患者に対しパターナリスティックな行為が与えると予想される利益の方が、リスクを上回っている場合、(4) パターナリスティックな行為に代わる、実行可能でしかも受容可能な方法がない場合、(5) 自律尊重原理の侵害が最小限の場合、(6) パターナリスティックな行為が、その状況下で必要とされる最小限の侵害しか含んでいない場合、である。
 これらの場合において、自律的「行為」の尊重によるところの自律尊重原理が、例えば、痴呆性老人に適用されない状態であったとしても、痴呆の高齢者を自律的存在たらしめる、その残存能力が正常に発揮されるべく「行為」の保護、あるいは補完は十分に為されるように図られるべきであるだろう。そして、当事者の判断能力が著しく失われ、非自律的とみなされる場合においても、仁恵の「自律へのパターナリスティックな介入」は最小限に止め、あくまでも当事者の自律的行為を保護、あるいは補完する意義を前提とした上での、付与的なケアの価値概念として、仁恵が強調されるべきではないだろうか。
 なお、痴呆性老人のケアに関する自律と仁恵の捉え方の問題に関して、次の政策決定は重要な示唆を与えてくれるものと考えられる。すなわち、1993 (平成5) 年10月に「痴呆性老人の日常生活自立度判定基準」が以下のように作成され、それぞれのランクに見られる症状・行動の例や判定にあたっての留意事項及び提供されるサービスの例が示されたことである (表1-2を参照)。これは、地域や施設等の現場において、痴呆性老人に対する適切な対応がとれるよう、医師により痴呆と診断された高齢者の日常生活自立度を保健婦、看護婦、社会福祉士、介護福祉士等が、客観的且つ短時間に判定することを目的としたものである48が、ケアにおける当事者の自律性に仁恵を介入させる際、当事者の自律的行為の程度、ないしは段階別の適切な評価が如何に大切なものであるか、を示す良い例ではないだろうか。さらに、当事者の日常生活における行為を生じさせる、本人の自律性そのものを個別に評価して支援していく意義においても、上述した自律性への仁恵の介入は必要最小限に止めることが可能となるのではないだろうか。

表1-2. 痴呆性老人の日常生活自立度判定基準49

痴呆性老人の日常生活自立度判定基準

 なお、同基準を含む厚生省老人保健福祉局長の通達50中には「処遇の決定は、判定されたランクによって自動的に決まるものではなく、家族の介護力等の在宅基盤によって変動するものである」ということに留意する旨、規定されている。また、「痴呆性老人に見られる症状や行動は個人により多様であり、例示した症状等が全ての患者に見られるわけではなく、興奮、俳徊、物取られ妄想等は、例示したランク以外のランクの痴呆性老人にもしばしば見られるものである」ということにも留意する旨についても、併記されている。ケアにおいて仁恵による当事者の自律性への過度な介入が為されることを抑止するためにも、このような連続して起こり得るケアの質の変容、あるいは、一概に判断できないケアの質の多様性についても、十分に考慮される必要があるだろう。
 従って、「仁恵」は、「自律尊重」という、バイオエシックスの最も基本的な原理を適用するためにのみ、ケアに連動させるべき原理であり、且つ、それに伴って「パターナリスティックな行為」が生じた場合は、それを最小限に止めたかたちで、当事者の自律性が評価されることが重要であり、その上で、その自律的行為が支援、あるいは補完されるケアが為されるべきである、と私は考えている。

1-2-3. 高齢者ケアにおける正義原理の捉え方

 ここで、特にメゾのケア場面をめぐって、高齢者個々人の生活している社会における合意や、公共政策に関連してのバイオエシックスの<公正の視座>について考えれば、その視座の基となる「正義」の価値概念をめぐる問題が重要となってくるだろう。本節では、この正義原理について、自律尊重の原理との関わりに照らして考察してみることにする。
 まず、高齢者ケアをめぐる配分的正義の問題 - 例えば、限られた財源の中で高齢者にかかる医療費に対処するための諸施策を考える時、高齢者本人の自律的な生活を支えるために、国家は如何に公正なる保障体系を整えるべきか、といった問題が浮上してくるだろう。この場合、全ての高齢者に自律尊重原理を適用する - 例えば、全高齢者がそれぞれに自ら労働して生活活動に参加することで得る賃金でもって、その費用を負担していく、ということは不可能である。
 このように考えれば、個々人の自律に基づき、それぞれの自己決定権が発動され、自律的行為が為されようとしたとしても、高齢者個々人の自律的行為のみでは対処し得ない問題も当然生じてくるだろう。この場合、国家が、限られた資源の中で、ある個人の自律的行為を完全に支援しようとすれば、その他の個々人の自律的行為の保障を完全に行き渡らすことが可能かどうかは疑問である。
 この観点において、公正に高齢者個々人の自律に基づく自己決定権を活かしていくには、まず、個々人に内在する「自律」が肯定化された上で、その自律が自律的「行為」を形づくる「自律性」として発揮され得る程度がよく評価される必要があるだろう。つまり、個々人の自律そのものは平等に存在すれども、それら自律に基づいて自己決定化された個々人の自律性は、国家による保障の対象としては単一に平等なものとして扱われるべきではないと考えられるのである。従って、あくまでも正義の原理に照らした上での、個々人の自律性の公正な評価に基づく、資源の配分が要請されることになるものと考えられる。
 この際、「高齢者個人の自律が期待される部分」と、その自律的行為を支えて補完するために「仁恵が期待される部分 (例えば、高齢者個人、あるいは、その家族の自律では対処し得ない問題に対し、仁恵として国家がもたらす保障の部分)」との競合 - すなわち、財政的資源の配分やケアによってもたらされる利益の配分等の問題をめぐって、高齢者の自律とそれに対する仁恵との競合も必然的に生じてくるだろう。こうした問題については、特に、メゾ・レベルにおける制度/政策のケア場面において、年齢を基礎とした資格基準や計画の効果などの問題をも包摂して取り扱われるべきであるだろう。
 一方で、こうした限られた資源の配分をめぐる正義の問題は、家族介護の問題においても浮上してくる問題である。例えば、誰が家庭で暮らすアルツハイマー患者のための日々のケアという途方もない重荷を背負うべきなのだろうか、といった倫理的な問題51を考える時、果たして、限られた家庭の資源 - この場合、人的資源としての家族の成員や、彼らによって維持されている家計の限界において、如何に重い負担を誰がまかない得るのか、が問題となってくるのである。
 特に、そのアルツハイマー患者の自律は如何なる程度にあるのか (残存能力は見出せるのか)、あるいは、その当事者の自律的な「行為」としての生活が絶望的な場合、国家はその成員たる患者個人への仁恵として、如何なる種類と範囲の保障を為すことが可能なのか、あるいは、どの程度まで患者を支える「家族の自律52」に期待できるのか、といった疑問が、配分的正義の問題をめぐって、メゾ・レベルの制度/政策のケア場面で生じてくるわけである。こうした疑問をめぐっては、当然のことながら、痴呆性老人のための福祉施設や医療施設、あるいは、在宅支援制度の基盤整備の問題も含まれてくるだろう。
 こうした事柄においても、当事者やその家族の自律と、ケア・サービス提供者側からの仁恵が競合する可能性は、あり得ることではないだろうか。次節では、ミクロ・レベルからマクロ・レベルの、あらゆる高齢者ケア場面において生じ得る、各原理間の競合について検討を試みてみたい。

1-2-4. 高齢者ケアにおける各原理間の競合

 ここで、ケアの当事者たる高齢者個人が、自らの道徳的行為者として機能できない場合を例にとって、自律と仁恵の原理間の競合について考えてみたい。まず、(1) 以前に医学的決定について自らの道徳的立場を表明していた場合、(2) 本人の主観ベースに従って意思決定するための関連ある枠組みを与えるような信念や価値観、希望が、その個人によって表明されていない場合、(3) 医学的決定の能力がある間に希望についての表明をしておらず、家族が保護の役割にもっともと思われる候補者 (plausable candidates for the guardian role) の場合、といった3つのタイプにおいて、以下のことが考えられる53
 すなわち、(1) の場合において、個人の自律は、本人に医学的決定の能力のあった時に確立された枠組みに基づき、代理人が行為する事によって保護される。 (2) の場合においては、自律の原理は何ら力をもたない。我々に出来る事は、仁恵の原理に立ち返り、患者の利益に最も役立つ、最良の客観的判断に従った保護確保の選択を主張するだけである。 (3) の場合においては、目標は患者の利益になることをする事である。この場合、限定された「家族の自律」と呼ばれるものが役に立つ。
 このように、アルツハイマー等の痴呆性老人のケアを考える時、周囲によって非自律的とみなされた当事者に対し、仁恵に基づく過度にパターナリスティックな介入 - 例えば、当事者を自律的存在たらしめる、その残存能力が何ら省みられることなく、他者によっては、生活そのものが他者によって支配されてしまうような保護行為が、ケアの場面において為されるおそれが生じてくるのである (図1-4を参照)。
 ここにおいて、痴呆性老人の非自律的「行為」からの身上の保護をめぐり、仁恵原理の扱い方が問題となってくるのは既に上述した通りである。この際、特に家族は、全ての社会において重要な制度であり、判断能力の欠如した患者の代理人としての家族は、可能ならば患者ベースの最良の利益において決定を試みるべきであり、もし不可能ならば、家族の信念や価値に基づいて、客観的に患者の最良の利益と思われるものを決定しなければならないだろう54

高齢者ケアにおける個々人の自律と他の原理間の競合

図1-4. 高齢者ケアにおける個々人の自律と他の原理間の競合

 また、バイオエシックスの重要な原理の一つである「平等」の観点から考えても、こうしたケアをめぐる人間関係が、けして不平等なものとならないよう注意しておくべきである。
 特に、2000年4月1日施行予定の成年後見制度における当事者の身上保護をめぐっては、当事者側の自律が如何なる「程度」のものか、あるいは、その自律は完全に存在し得ない状態なのか、を客観的に判断することが重要となってくるはずである。ここでも、当事者の自律の程度を正しく判断した上で、仁恵の立場から、その行為を適切に補完していくことが必要となるが、医師による鑑定書のみならず、ケアに関与する様々な領域から、多角的に被後見人たる当事者の自律の程度が評価されるべきだろう55
 以上、バイオエシックスの原理となる様々な価値概念から、高齢者ケアの諸相を考察してきたが、基本的には、いずれの場面においても、当事者の自律尊重の原理をめぐって、仁恵の原理や正義の原理、あるいは平等の原理等、各価値概念間の競合が生じていることが考えられるわけである。

1-2-5. 高齢者ケアで目指すべきバイオエシックスの諸原理間の連関と自律への寄与

 では、こうしたバイオエシックスの諸原理を、如何に高齢者ケアに適用していくべきだろうか。特に、ケアの当事者たる高齢者本人の自律に基づいた「自己決定」を活かす政策や制度とは如何なるものなのだろうか。
 前項においても述べたように、高齢者個々人が自らの主観の側からのケアの方向付けを周囲に明確に伝えるためには、当事者本人の内に、価値観の前提的な指標として自律の概念を適用することが必要であると考えられる。それによって、高齢者個々人の自律性に基づくニーズが最大限に満たされるような高齢者福祉像が望まれるところである。

高齢者ケアで目指すべきバイオエシックスの原理間の連関と自律への寄与

図1-5. 高齢者ケアで目指すべきバイオエシックスの原理間の連関と自律への寄与

 それには、競合するバイオエシックスの諸原理を相互に連関させ、それぞれの原理を個々人の自律性に寄与させるような政策を考えていくことが肝要ではないだろうか。従って、この観点から高齢者ケアを考えれば、(A) ケアへの最小限のパターナリスティックな介入における<仁恵>と、ケア関係における<平等>との間、あるいは、(B) 当事者個々人全員が自律を有することの<平等>と、その自律の「程度」に応じた資源の配分をめぐる<正義>との間に、一定の倫理的・道徳的な均衡を生じさせ、各原理間の相互連関を図ることが望ましいと考えられる (図1-5を参照)。
 その際、以下のようなケアをめぐる倫理的・道徳的関係が、社会と当事者たる高齢者個々人との間に適用されることが理想といえるのではないだろうか。すなわち、(1) <仁恵>の観点からは、ケアへの最小限のパターナリスティックな介入によって、当事者個々人の自律尊重原理に寄与し、(2) <正義>の観点からは、特に資源の配分等に関して、自律に基づく様々なニーズを最大限に容認することで、当事者個々人の自律尊重の原理に寄与するべきではないだろうか。また、<平等>の観点からも、対等なケア関係を築くことによって、当事者個々人の自律性を形成する自律尊重原理に寄与することが望ましいと考えられるだろう。
 このように、各原理間に一定の均衡と連関が形成された上で、ケアの当事者たる高齢者個々人の自律性の尊重に寄与するものとして、他のバイオエシックスの諸原理が適用される施策を考えていくことが、これからの高齢化社会において大切であると言えるのではないだろうか。この過程において、ケアの当事者たる高齢者個々人の自律からの自己決定、さらに、それに基づく自律的行為が、社会における「個人の自律性」として最大限に保障され得ることになるのではないだろうか。
 次章からは、こうした推論を踏まえて、高齢者ケアに関する政策決定過程をめぐる諸問題を中心に取り上げ、ケアの当事者、そして、利用者でもある高齢者の自己決定の捉え方の問題点について、具体的な考察を試みていくこととする。

本章1-2の注釈 (32〜55)footnotes


第2章;高齢者ケアに関する政策決定過程をめぐる諸問題の概要及び考察」へ進む。
「本論 目次に戻る。