■「病院」, 41 (5), pp. 60-61., 医学書院, 1982. 5.

バイオエシックスと医療

Prof. Rihito Kimura wearing a smile
5. バイオエシックスの考え方 - その2
 1) 情報の共有 

木村利人 (早稲田大学人間科学部教授)
 バイオエシックスは「生命」、「医療」に関する事柄について、当事者と関係者の「人権」を尊重する立場から、ある一定のプロセスや安全確保のためのシステムづくりに貢献してきました。この場合、生物・医科学研究や臨床の現場、更に直接に利害関係を持つコミュニティ (諸施設の建造などに関連して) の中で、研究の対象となる人、患者、地域住民などと専門家との間に、どれだけ正しい情報が共有されているかが重要なポイントです (Informed Consent の論理の展開が Public Informed Consent という形で、医療の分野から DNA 産業などの先端科学技術研究と地域住民の対応へと援用されていった。これについては Southern California Law Review, Vol. 51, No. 6, 1978 参照)。
 医療における患者と医師の関係のコンテキストで言えば、診断についての医学的情報が正しく当事者 (近親者を含む場合もある) に伝えられ、理解されなければなりません (本誌41巻1号「バイオエシックスと医療」参照)。それは、当然のこととして「医療の論理」とは全く異なった構造を持つ患者の「価値観」や「倫理意識」についての情報が医療従事者と共有されているかどうかが、「医療行為」それ自体にもある意味で大きな影響を与えるからです。そして、言うまでもなく、医療従事者の医学上の専門知識に基づいた判断としての治療処置、延命やその人為的終結の行為自体が、ある特定の人生観、価値判断、倫理意識の反映であることが多いからなのです。

  情報共有の目的  

 専門家と非専門家が本質的に同じ質の情報を互いに分かち合うことは至難のわざであり、また専門の教育と訓練を受けていない非専門家に詳しい事実は理解できるはずがないというのが、旧来の考え方でした。それに医療について言えば、病気を治すことのみに精力が費やされ、人としての患者の人格と尊厳がとかく無視されたことも事実です。このような医療のあり方の根底が揺すぶられ、関係者の救済を求めての運動や判例、立法などにより、情報の公開と共有がプライバシーの権利に抵触しない限り、当然のこととして認められるようになってきています。それは何よりも「生命」、「医療」に関しては、その当事者 (患者) の自律性 (Autonomy) と意志に基づく最終判断を尊重しようということの現れです。そのためにこそ「情報の共有」が本質的な重要さを持つのです ()。

図・情報の共有

 最終的な健康の回復と保持を目標としての「患者とともに」の医療が行われるためには、「情報の共有」が必要条件です。米国の病院では、それらの具体的内容を納得行くよう説明するコミュニケーションの専門家をスタッフとして置いているところもあります。「患者の権利擁護担当スタッフ」の大きな役割の一つとしてこの「情報の共有」のための仕事があるのです。

  情報共有のプロセス  

 このような情報の共有は、特定の医療従事者と患者との閉ざされた個人主義的な関係の中では不可能です。病気のよりよき治療のため、患者の全体像の把握が必要ですし、更にそのためにはその当事者はもちろん、その人とかかわりを持つ各専門スタッフを含めた「バイオエシックス対話」方式が必要となるのです。もちろん患者自身が患者の権利擁護スタッフの助力を得て中心的な対話・討論の参加者となる場合もあります。患者の不利になる情報は知らせないというヒポクラテスの誓い以来の医の倫理の基本原則はもはや、その有効性を失っています (患者が知りたくない場合は例外)。
 現在、このような「対話」のプロセスをシステム化して、特に延命装置の取り外し、臓器移植、臨床研究実験などをめぐっての倫理問題を中心課題として取り上げる「委員会」(例えば ERB - Ethical Review Board) などを常設している病院、研究機関も増えてきました。その委員会の構成員は、通常直接当事者にかかわりを持つ医療従事者の他に、言語療法専門家 (Speech Therapist)、哲学者、聖職者 (牧師、神父など病院勤務のケースもあり、患者の精神的ケアを担当する)、心理療法専門家 (Psychotherapist)、バイオエシックス専門家 (Bioethicist)、法律家、社会福祉司 (Social Case Worker) などが含まれる例が多いようです。また緊急の場合には、これらの委員との電話による接触や、裁判所による法的判断の要請も可能です。これらは現代の複雑多岐化した医療の構造の中で、一個の人格として患者の人生観や価値観を積極的に評価しようという一連の動きの一つの現れです。

  IRB の形成  

 さて、このような病院内での ERB のシステムは、連邦政府科学研究実験規制法 (PL-93-348, 1974年7月12日) で義務づけられた IRB (Institutional Review Board, 施設内設置の倫理審査委員会) にそのモデルを持っています。この IRB は、元来、政府管轄下の施設及び政府補助金により臨床研究を行っているプロジェクトに適用されたものでしたが、現在は、そのわくを越え民間機関にも当然のこととして受け入れられることとなりました。
 ヒューマニズムや学問の名による「医学実験」や「人体実験」が、弱者や被抑圧者 (小児、婦人、黒人、移民、受刑者) などに行われてきた事実が、米国では1960年代に入ってから次々と明らかになり、再びそれらの過ちを起こさぬための規制や基準が公共政策 (Public Policy) として形成されるようになってきました。生物・医科学・臨床実験・研究のために、十分な安全性と危険性の確認を踏まえて、なおなんらかの当事者への恩恵が (治療の見込みなど) あることの予想が推定されれば「人体実験」も許容されるべきであるとの公共政策を明確にして (これには倫理的立場から絶対反対の人もいることはもちろんです)、その上で「情報共有」のプロセスとシステムをつくり出そうと、米国の社会が方向付けをしたと言えます。人体実験に類することは全く行わない建て前から、かえって重大な人権侵害と生命損失の悲劇を起こすより、むしろその適用と規制を明らかにしたほうが倫理的に納得し得ると一般の人々 (Public) は考えているわけです。
 米国連邦政府保健ヒューマン・サービス省 (旧称、保健・教育・福祉省 - H. E. W. で現在は H. H. S. と略称) の規則 45-CFR-46 によれば (1975年8月8日官報及び1981年1月26日官報)、この IRB の構成員は少なくとも5名とされ、どちらか一方の性別、あるいは一つの職業集団により独占されてはなりませんし、この内の少なくとも一人は、非科学専門家、例えば、倫理、法律、宗教などの専門家であることが求められています。更にこの IRB の設置機関に直属しない部外者、例えば地域の声を反映できる人が構成員として含まれねばなりません。
 主任の研究計画推進者が「研究計画提案書」をこの IRB に提出し、厳重な審査がなされセンターの最高責任者としての所長による裁可の署名が必要とされますが、その審議の項目は次の如くです。

IRB の審査
1. 治療効果が人体において未知の薬剤の使用や特別な医療処置の場合:1) 回数、2) 期間、3) 危険度、4) 予測、5) 特別の要請 (緊急手配の必要性)
2. 上記の場合の適用に当たって:1) 危険度は最小限に押さえられているか、2) 危険度と比べてその恩恵が大きいか、3) 対象となる当事者は公平、妥当な選択によったか、4) Informed-Consent はあるか、5) 上記文書の確認、6) 安全は十分に確保されるか、7) Privacy の権利は守られているか。

 そして、大事なことは、これらの情報はすべて、当事者たる本人 (患者) と共有されることなのです。

  国内と国際情報  

 米国国内及び国外でも、コンピュータの利用によるバイオエシックス情報の検索が可能で、このシステムは、「BIOETHICSLINE」と呼ばれています。この情報はジョージタウン大学・ケネディ研究所バイオエシックスセンターが現在まで約15,000のデータをインプットし、米国国立医学図書館 (NLM-NIH) がキー・ステーションとなって米国の11カ所の医学情報センター (図書館) でだれにも利用できます。
 更に国際レベルでは、国連 UNESCOWHO・世界医師会 (WMA) に連携している NGO (非政府民間国際機構) の国際医科学機構協議会 (Council for International Organizations of Medical Sciences) が、バイオエシックスを重要テーマとして取り上げ、連続的に国際会議を開催してきているのは注目に値します (Z. Bankawski, Medical Experimentation and the Protection of Human Rights, CIOMS, Geneve, 1979 など参照)。
 欧米など先進諸国での臨床医学研究や実験などについての規制が、人権尊重の立場から一段と厳しさを加えて行きつつある折から、開発途上国での先進諸国による大規模な新薬テストや治療実験 (遺伝子治療など) が政府や民間の病院を利用して行われるケースが出てきているので、国際的なバイオエシックスのネットワークが、それらをチェックするために必要なのです。
 個人、社会、国家、国際のそれぞれのレベルでのバイオエシックスの「情報の共有」が、今ほど強く求められているときはありません。そのための「プロセス」と「システム」を日本でも早急につくり上げて行かねばならないと思います。
(つづく)


次号/
バイオエシックスと医療 (6) バイオエシックスの考え方 (その3) 決断の共有に続きます。

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