■「病院」, 41 (6), pp. 52-53., 医学書院, 1982. 6.

バイオエシックスと医療

Prof. Rihito Kimura wearing a smile
6. バイオエシックスの考え方 - その3
 2) 決断の共有 

木村利人 (早稲田大学人間科学部教授)
 人間は、自由と責任を持った存在であるとされています。私たちは、数多くの制約と限定の中に生きていますが、原則的には「他人に危害を与えたり、社会に害悪を及ぼさない限り」自由に、自分で決めた行動を行うことができますし、それが良いことであるとされています。
 医療の文脈の中でこれらの点を考えてみますと、一応患者が自ら医師を訪れ、診断を求めることにより、当然治療についての助言、処置を受け入れるべき関係は生じます。米国で注目すべきことは、手術を含めた医療処置や患者の身体と生命についての最終判断は、正常な成人にありとする法理 (Schloendorff v. Sciety of New York, 1914) が確立していることです。
 法定伝染病などで強制入院・隔離が規制されている場合を除き、患者本人の決断の自由とそれに伴う責任は自らにあるわけなので、患者や家族の意志 (例えば、治療拒否や治療方法についての医師団との見解の相違) に反して、なお治療を続けるべきだと医師側が判断した場合は、裁判所に判断を求め、その許諾命令を得なければなりません (拙稿, 本誌1982年1月号「バイオエシックスと医療 1.」参照)。つまり、米国の社会と一般の人たち (Public) は、このような各個人の「自己決定権」(Right of Self-determination)「自律性の権利」(Right of Autonomy) を当然のこととする法的、道徳的な方向付けをしてきているのです。
 この点に関して、米国医師会 (AMA : American Medical Association) が、1980年に改正・採択した「医の倫理原則」「医師は患者の権利を尊重しなければならない」(American Medical Association, Principles of Medical Ethics, IV, 1980) とする条項をおいたのは医学専門家集団にとって画期的な出来事でした。というのは、一般の患者にとって、法的な「自己決定権」の存在はあっても、事実上は医療の現場で、「患者のために」という医療従事者側の判断が「患者の権利」を無視する事態をもたらすことも多かったからです。
 もちろんバイオエシックスは、医療専門家の判断とその処置を最大限に尊重するとともに、当事者たちの多様な価値判断とその選択の多くの可能性を前提としていますから、ある特定の明確な基準・原理を画一的に適用することはあり得ません。しかし、社会が認めた合意の上に立った一つの方向付けとしての指針を公共政策 (Public Policy) として、つくりだしていくことは、今後ますます必要とされてくると考えられます。
 次に「自律性」の内容としての制限のための理由について要約してみます。

図・自律性の内容における成人の判断、及び成人の自由の制限

  決断のプロセス  

 さて、前号でも述べたように、ある特定のバイオエシックス的決断をするに当たっては、「情報の共有」が必要です。医療については特に、医療従事者の専門家としての判断とその情報は患者との「対話」のプロセスの中で確認され共有されねばなりません。
 その問題の多様さ、状況の異なり方に応じてバイオエシックスにおける「決定のプロセス」は必ずしも一様ではありませんし、各当事者・関係者のおかれた立場、状況、職業的責任などによってアプローチの仕方も変わってくることは明らかです。例えば近親者からの臓器移植、人工延命装置の取り外し、新薬剤の実験的使用、遺伝子組み換え実験の指針づくりなどバイオエシックスの各分野に共通の原理を統一的に適用するのは困難だと言えます。
 ここではバイオエシックスの視座からの医療の決定のプロセスを一応次のごとく示しておきたいと思います。

バイオエシックスにおける決定のプロセス
1. 問題解決のためのあらゆる可能性の検討と調査 - 特に価値観・倫理とのかかわり (社会・個人)
 1) 私はどのように考えるのか
 2) なぜか
2. 上記の推論は妥当か
 1) 事実・データの再検討と補足
 2) 正当化のための補強証拠はあるか
 3) この推論による結果は受容可能か
 4) あらゆる反論に答えられるか
 5) 論理的一貫性はあるか
3. 人権は守られているか
 1) 当事者の人権及び責任の明確化
 2) 相手の立場に身をおいた場合、人権は守られていると思うか
 3) あらゆる人がこの処置を妥当とし、更にこのように処置されることを望むかどうか
4. この問題解決は現実的か
 1) 適正な財源は可能か
 2) 多くの関係者の犠牲または援助を必要とするかどうか
 3) この決定のプロセスは、当事者、関係者の間で共有できるか

 以上のようなバイオエシックス的決定のプロセスは、更に、具体的な問題とその展開の中で相異なった結論を導き出すことになるのは言うまでもありません。したがって、ある特定のケースの中で必ずしも唯一の正しい解決が与えられるということにはならないのです。しかし、私たちが、かけがえのない人生と生命についての重大な決断をするに当たって、恣意的な利己主義に陥ることなく、理性を持ち、自由と責任に生きる一人の誠実な人間として、できる限り正しく推論し、相互にかかわりを持つ人々と信頼関係の中で「共有できる決断」をすべきことを、バイオエシックスの決定プロセスは示しているのです。

  医療の局面  

 医学・医療行為の目的は、患者の治療、健康の回復と増進、生命の保持・延長にあるとされてきました。したがって医療従事者は、全力を尽くして延命を図るのを当然のこととしてきました。しかし、現在のように、機械や技術の発達により人間生命を延長させることが可能になりますと、ますますその人間の生命の「質」が問われてくるようになりました。
 例えば、私が実際に米国のある病院でのケースとして知り得たところでは、90歳の男性が癌で入院中、肺炎を併発したのですが、「安らかに早く天国に行きたい」という常日ごろからの本人の意志と聖職者 (神父) の倫理的助言を尊重し、あえて医師団は治療をしなかったというケースがありました。このような考え方の背景には、関係者がキリスト教の信仰を共有しているということがあると言えます。すなわちこの場合は、肉体としての生命は、基本的に重要な価値を持つが、絶対で最高の価値を持つわけではなくて、「神が生命を与え、神がそれを終わらせる」というこの世の生命の終わりがあっても、「天国で生きる」という信仰があることによる決断なのだと言えると思います。
 私たちは、すべて、いつかは必ず死を迎えるわけですから、人生の終わりに当たって、死のプロセスを機械などの支えにより無期限に延ばすよりも、自らの判断 (時に家族または専門家の助言による) により、ある特定の「決断」をすることが許されるとする立場もあり得るのです。

  自己決定の不確実性  

 しかし、患者が、自らの真剣な決断であると強く主張しても、それを専門家としての医療従事者側の責任において必ずしも肯定できない場合ももちろんあります。それらの事例における判断の基準は、次のような場合にあてはめられると考えられます。

1) 心理的不安定:死にたい、あるいは生きたいとめまぐるしく判断が極端に変化する
2) 憂鬱症:著しく意気消沈し、自らの病状についての正確な判断を受け入れられぬほど絶望的で、生きる意志を失った病状
3) 恐怖感:例えば近親者が機械などによって生命を維持されながらも死亡した記憶を持っているための治療拒否など
4) 隠されたメッセージ:真実の自己の意志ではないのに、自らが心理的に拒絶されていることからの生への拒否反応を持つ

 決断ほど困難なことはありません。しかし「情報の共有」は「決断の共有」へと私たちを導きます。上記のような患者側の自己決定の不安定性のみならず、医療従事者側の善意の思い込みや自らの価値観を前提にした判断も厳しくチェックされなければなりません。
 あのときのあの決断は正しかったのかどうか、誰しも悩みを持たない人はないと思います。いろいろな過ちを犯しがちな弱い人間の力を尽くした理知的・道徳的推論と選択が、そしてその決断が悔いなきようになることを目指して、バイオエシックスによる決定のプロセスが考えられ展開されつつあるのです。
(つづく)


次号/
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