********************バイオエシックスと看護 (3)******************** |
1983年2月13日 9:30〜12:00 AM 於:名古屋第二赤十字病院桑山講堂 講師:岡村 昭彦/木村 利人 |
木村; 私の友人でアメリカ人の看護婦さん (1941年生まれ) は、非常に経験豊かな看護婦さんなのですが、今、私どもの研究所の博士課程にいます。一つの例として、ちょっとこの人の話をして、バイオエシックス教育と看護教育の動向について考えてみましょう。
この人はどういうふうにしてアメリカで看護婦さんになったかと言いますと、ご主人さんはアメリカの陸軍少佐、国防総省にいらっしゃる方です。3人子どもさんがいらっしゃる。この方は、1963年に Johns Hopkins 大学病院の看護学校を出て、看護婦の資格を取っています。そして、アメリカには3つの看護婦養成のシステムがあるのです。
1つは、病院に附属している看護教育システム、これは病院という実習の場と直結していますので、アメリカでは、こういうタイプが元来はベースになって出てきています。病院附属の看護学校、あるいは、看護婦さんの養成所、それから次は、大学に附属している看護婦さんの養成機関です。看護学部というのがあります。スクール・オブ・ナーシング、それはいわば、アメリカの連邦教育局担当のカテゴリーに入る大学附属の看護学校、それからもう1つは、同じ教育機関なのですが、コミュニティーにあるジュニア・カレッジ・レベルの看護学校、と病院附属の看護学校と大学の看護学部と3つの流れがアメリカにありまして、このような看護婦養成のシステムというのは時代によって変わってくる訳です。それで今、非常に大きい変化が起こっています。
アメリカの看護教育については、看護の理念の変化というのは勿論、これは根本の変化です。つまり、独立した判断の主体としての職業としての看護婦さんの育成機関という考え方、philosophy の変化、女性中心の看護婦さんという考え方についての変化ですね。それと同時に、病院附属の学校で看護婦さんになるための資格を得るというのは段々減ってきまして、大学附属機関での資格取得のシステムがどんどん増えていっています。さらに、コミュニティーのレベルでのジュニア・カレッジの教育システムで看護婦さんになる人たちが随分増えてきてました。そこに入って来る人たちの年齢が、今までのように若い人が看護婦さんになるというのではなくて、かつて看護婦さんの資格を持っていた人を含めて、年齢層が上がりつつあります。また、子育てが終わって、長年、看護婦さんになるのを夢みていた人、従って、年齢が30歳以上になってから、このような看護学校に入って、看護婦さんになる人がどんどん今増えているのです。先ほど申し上げました私の友人は、最初に、Johns Hopkins 大学附属病院に行って看護教育を、それから、South Carolina 大学に行って Bachelor of Science (理学士)、Master of Science (理学修士) を取り、それから、Georgetown 大学に来て、Master of Philosophy (哲学修士) を取りました。
つまり、バイオエシックスのコースは、ジョージタウン大学のバイオエシックス・センターのスタッフにより行われていますが、バイオエシックスの学位それ自体は、ジョージタウン大学の哲学科が授与する形になっています。従って、ここに医学部の人も来れば、色んな学部を修了した人も来て勉強している訳です。教授陣スタッフにも色々な学問分野の先生方がいます。ただ、ここに入って来る人は、少なくとも、アメリカの現在の状況では、理学士または理学修士を持っている人で、数年間の実務経験を持っている。この人の場合でも、15年間くらいの実績のある人が、ジョージタウン大学のバイオエシックスのコースへ来て、さらに博士課程でバイオエシックスを専攻しているのです。ですから、小学校、中学、高校のレベルで色んなプログラムが出ている、行われている、バイオエシックスに関連したライフ・サイエンスを中心にして、色んなプログラムが行われている一方、この大学のカリキュラムの中での哲学科、バイオエシックスの博士コースというのは、ある程度のキャリアを積んだ、現場の第一線を踏まえた方々が、非常に厳しい試験を通って来ているという事なのです。そういう意味では、希望者がいっぱいいるのですが、バイオエシックスの博士コースを設置している大学は、アメリカではまだ3つくらいしかありません。
しかし、一般教育でのバイオエシックス・コースはかなり多くある訳です。大体、バイオエシックスに関連して、全米でほぼ1,000の講座やコースがありますし、科学技術の価値観、及び、倫理とかの問題については、色んな所で色んなプログラム・カリキュラムがあります。
世界でも、カナダ、ドイツ、イギリス、フランス、オランダなど、色んな形でバイオエシックスの研究プログラムが展開されてきています。さらに、この看護婦さんが、こういうふうにして、Degree Orientation、つまり、アメリカでは資格が何よりも重要な訳ですが、どんどんと上に行って、Degree (学位) を取っていくような Orientation (方向付け) の他に、色んな流れが今、アメリカの看護婦さんの中に変化として出てきていることに注目しなければならないと思います。その流れは、現場の中で、自分自身が多様な対応を迫られているという中で、自分自身を変革して、新しい看護婦としての役割を見出してきているという事です。
それでは、具体的には、例えば、私のよく知っている看護婦さんの例を挙げてみましょう。この人とは今から5年前に、患者の権利を守る会議がテネシー州のナッシュビルであって、初めてお会いして仲の良い友人になりました。どうして、この会議が開かれたかと言いますと、患者の権利を守る委員というのが病院などでスタッフとして任命されていて、患者の人権を守るための仕事についている人がアメリカでは大体3,000人以上いて、そういう人たちの会議が開催され、それに参加しました。約300人以上の専門委員が集まりました。
これは、この全米第1回の会議でした。300人くらいの内の270人くらいは看護婦さんの経験を持った女性でした。そうして、勿論、会議会場も約500人は入る広さでしたが、前列の左の方には車椅子に乗った身障者の方がおられて、その方々も専門の患者の権利を守るための委員として、お仕事をなさっているとの事でした。そういう患者の権利を守るという専門の担当スタッフが全米に広がっている訳です。
ところで、この看護婦さんはテキサス州から来た人ですけれども、元来、バレリーナ。私は大変驚いたのですが、はじめ、私は最初から看護婦さんとしての教育を受けた人かと思ったのでしたが、「いや私は最初はバレリーナだった」との事でした。つまり、バレー・ダンサーとして小さい時から教育を受けて、名声を博した方なんです。年齢の限界を自ら感じて、自分としてはダンスの才能を何とか生かす方法はないかと考えたというのです。ただ、自分の踊りを観てもらうだけでなく、自分が、かねがね関心を持っていたダンス・セラピィー、踊りによる治療を勉強し直そうと決心したというのです。そのダンス・セラピィーという領域が、アメリカでは確立した領域としてあります。とてもこれは治療に効果をあげている訳です。例えば、セント・エリザベス・ホスピタルの創立者である、ディックスという御婦人がいますが、この御婦人の伝記の劇を、創立150年を記念して行われた祝典の折に、その精神病院の患者さんたちが配役を担当して、踊りを中心に、それをドラマにして好評を得ています。
ダンスというのは、病気の治療に非常に効果があるという事で、この看護婦さんは、ダンス・セラピィーの資格を取りにハーバードに行ったのです。そうして、心理学とか、演劇概論とかを学び直して、ダンス・セラピィーの専門家として病院で仕事をする事になりました。病院に入ってやっているうちに、どうもダンス・セラピィーの資格だけではうまく行かないという事に気がついて、それこそ中年で看護婦さんの資格を取った上で、ダンス・セラピィーの専門家としてやっている。そのうちに患者さん持っている問題に気がついて、患者の権利擁護委員として、今、専任で3人のスタッフを下に置いて、テキサスにある病院ですけれども、非常に大きい病院の、患者の権利擁護担当スタッフとしての働きをしています。
このように現場の中での新しい仕事を作って、新しい時代に対応してゆく事が重要です。この看護婦さんの大きいプログラムの1つは、ベトナムから、その地域に来た難民の健康・保健・福祉を中心においたプログラムをコミュニティの中で作っている事です。自分の病院の中の色んな問題、その経済的な問題、医療の問題、患者の権利に関する色んな問題を含めて、コミュニティの中で (そのコミュニティはベトナムからの難民が多い)、その難民のヘルスケア・プログラムを患者の権利擁護スタッフとして作っていく。つまり、アメリカというのは、自分で仕事を作ってゆく国なんです。ただ与えられた事を言われた通りやっていくのではなくって、一体そこに何のニードがあって、そして、ニードに応えるために、どういうふうに自分は自分の人生というものを作り上げてゆくのかというところで、新しい時代を創り出すためのユニークな展開をしていく訳です。
さらに、患者の権利擁護スタッフとして、既にアメリカでは1972年に正式に全国レベルでの組織が形成されている訳です。御存知のように、患者の権利宣言というのを出しても「人権」が、それはただそこに権利があるとか、尊重されなければならないといっても、紙の上に書いてあって、それが壁に貼ってあるだけでは何にも役に立たない訳です。ですから、患者の人権が実際に正しく守られているかどうかという事を病院や医療の課程の中や、コミュニティの中でいつも確かめる専任スタッフが必要になるのです。しかも、このスタッフは院長に直結して、病院の行政の機関の中で、特定の部とかに属するのではなく、院長に直接電話でいつでも話せるし、退院についての最終決定権限を持っているし、退院する事について患者の希望があれば、自分がそれでいいという納得する権限を持っているのです。例えば、私たちが入院した時に、患者に一番最初に告げられる事は、この病院には患者さんの権利を守る専任のスタッフがいるという事です。勿論、看護婦さんではない場合もあります。コミュニケーションやサイコロジーの専門家や、あるいは、ソーシャル・ワーカーの専門家もいますけれども、このような患者の権利を守る委員や看護婦さんへ用事がある時ならば、電話番号は、自宅はこれ、オフィスがこれ、と知らされます。そして、提案や希望や不満などがあったら、どうぞそちらへと言われる訳です。すなわち、患者の権利宣言を一番最初に渡されるのです。
このような1つの患者さんを中心にした医療の展開と同時に、患者教育のための専門家としての看護婦さんの新しい職場が増えています。つまり、看護婦さんは医師の下にひたすら医療処置を行う看護婦さんであれば、それでいいんだというふうに、単純明快に1つの職業に、1つの機能という時代は過ぎ行きつつあるのです。1つの職業には、多面的な機能があるのですから、看護婦さんであって患者教育担当専門スタッフなどがどんどん出来ているのです。例えば、患者教育という部門が非常に重要になってきています。それは今まで病院というところは病気を治すところでありました。病院で病気を治すのですけれども、家に帰っていけば、色んな病気を作り出した原因というものは残っている訳です。家庭の問題、それから、コミュニティの問題、それから、健康管理の問題、それをソーシャル・ワーカーなどがやっていたけれども、ソーシャル・ワーカーはソーシャル・ワーカーの視野からやるとして、患者教育というプロセスからやるとすれば、コミュニティの中で、例えば、糖尿病患者のアフター・ケアをやるとか、自宅でやっている腎臓の透析の患者のアフター・ケアの問題とか、子どもの食事の問題、あるいは、健康管理の問題、色んな問題を患者教育の一環として、病院はコミュニティのヘルス・センターとして考えていこうという方向がはっきり出ています。そういうところで看護婦さんは第一線に立っているのです。
日本でも、おそらく色んな形で、この間、厚生連の佐久総合病院に行きましたが、「病院祭」というのをやって、コミュニティとのつながりを深めているところもあるようです。地元の人たちと交流して病院のお祭りをやっているのです。例えば、展示をしたり、展示は農家の方々が分かりやすく、色んな野菜の食べ方とか、お薬をこんなにして飲んだらダメですとか、そういうパネルの展示をやって、しかも、専門家が描くんじゃなくって地元の子供たちが描いた絵もあって、そういうのを展示したりしていました。つまり、病気になったから病院へ行く、病気になったからお医者さんの診断を受けるというのではなくって、日常の生活の中で教育プログラムが色々行われている病院に足を踏み入れるという方法がアメリカでは出来ていますし、日本でも、こういう方向が出てきているという印象を受けました。
私の子どもたちがあまりひどい風邪をひくものですから、お医者さんに診てもらったら、アデノイドを摘出した方が良いだろうって言うので、ハーバードの附属小児病院へ連れて行きました。そして、手術をした方が良いという事になったのです。手術の日は、私どもの都合と病院の都合に合わせ、日時を決める訳です。その決めた日の約10日ばかり前に、病院の見学案内の手紙をもらいました。それで私どもはボストンの手術の予定されている子ども病院に1週間前に行って、その病院のカラースライドを見たり、この病院にはこれだけの部門があって、これだけのベッドがあって、という説明を受けたりしました。それから、病院を一巡して、そして手術に使う用具などを「あなたちょっと持ってごらん」といって見せて持たせて、そこの場所に慣れさせる訳です。それから、ぬり絵を10枚くらいもらいました。ぬり絵は、子どもがきれいな色で塗れるように、病院の解説のぬり絵のページがあって、この病院にまた行ってみたいなという感じになるんですね。それからちょうど10日後、待ちに待った病院に連れて行く訳です。そうすると、お医者さんは前に顔を合わせている。それから、こうやって手術されるという事は分かっている。終わったら美味しいアイスクリームが食べられるという事が分かっているのです。そうすると、早く良くなろうって、子どもの心はそういうふうに傾きますから、最初から病院と聞いただけでは、わめかないのです。いそいそと病院へ行く訳です。そして、治って退院してきても、お医者さんの名前を覚え、手紙を書く、そして、手紙が来る、コミュニケーションが出来る、費用は保険でカバーされますし、通常の料金で払ったら大変ですけれども、そういう中に入って、親や子どもが医療チームの方々に親しみを持つようになるプロセスが、私は非常に記憶に残っています。
テレビの子どものための番組で「病気の子どもに正しい事を告げよう」というのがありました。このテレビ番組では、重い病気ではあるけれど、治る可能性もあるし、治ればこうなりますよ、だから、こういう治療が必要ですよ、という事を一生懸命、医者が子どもたちに説明するシーンが出てきました。癌をはっきり言って、そして、子どもの協力、子どもの人格を尊重し、子どもの協力を受けて治療する、という事が原則なんです。それじゃ何歳以上の人に言うのですか、とテレビの司会者が聞くと「何歳とかというんじゃない」とお医者さんが答えるのです。子どもは3歳だろうが、4歳だろうが、分かっても分かんなくても、とにかく、病気については全部言葉を尽くして説明するのを原則とするという事です。恐がるとか何とかじゃなくて、説明しなければ治療は成り立たないという原則です。患者の権利で一番大事なものは、自分の診断についての知る権利です。子どもは人格の主体ではないという考え方自体がおかしい訳です。驚くのは、癌だという事を子どもさんが知って、子どもはむしろ告げられた時には驚くどころか、「お父さん、お母さん、元気出してね、僕大丈夫よ」という子どもが多いという事でした。これは本当に日本で考えなくちゃいけない事です。子どもの人格を尊重し、病気の子どもたちに医療について正しい情報を伝えれば伝えるほど、子どもは想像以上に冷静であり、むしろ親や親戚や看護婦さんに協力し、そして、その人たちを慰めるほど、素晴らしい人格の主体なんです。我々は、子どもに対してあまりに人格を無視した医療行為をしてきたのではなかろうかと反省させられました。
私は実際にそういう看護婦さんに会えば会うほど、どんなにか子どもがそういう事に耐え抜き、わがままを言わず、そして、自分で自分の限界をわきまえ、しかも、病気と闘うという精神にのっとって生きているという生きざまを、これは想像も出来ないほど素晴らしい事ですね。それだけ一生懸命尽くした子どもが死んでも、やはり親がそれによって生かされている。子どもは一生懸命やったよという事で親が生かされている。むしろ、病気で子どもが死んだ事により、親が生かされるという現実を目の当たりにしました。かわいそうだから子どもには言わないというのは親の思い過ごしかもしれません。むしろ、子どもによって支えられるという現実を何回も目の前にし、また実際に聞きました。その子どもの適応力の素晴らしさ、自ら治ろうとする子どもの素晴らしさ、私たちは、そういう意味ではバイオエシックスの原理に従って、もし大人であろうと子どもであろうと本人が希望すれば、事実をありのままに、しかし、配慮をもって伝えるべきだと思います。勿論、私は知りたくないという人が「私は私の病気の事について知りたくない、一切先生に任せます」という人はアメリカだって今でもいる訳ですし、何が何でも全部告げるという必要は全くない事も事実です。「私は権利だなんだ言いたくないんだ。私は静かに先生の言う事を聞いて、先生が、何でも良い、処方でも一番良いようにお願いします。お任せします。」それは、ある意味では楽だともいえます。しかし、自分の将来の見通しも何も立たない、いつ死ぬか、どういう病気かも分からない。しかし、それで良いという人はしょうがない。それで痛いのに、わざわざ聞きなさい、あなたの病気は癌です、間もなく死にます、と言う必要はないのです。
アメリカの子どもの場合も、ほとんどのケースは、自分の病気ははっきり知りたい。だから、私の見たテレビに出ていた4歳くらいの子どもから18歳の子どもたちは癌の患者、白血病の患者などでしたが、そういう人たちが出たテレビ番組のまあ明るい事、ドナヒューさんという司会者が「あなたは何の癌ですか」、「私は悪性の腫瘍が出来た」、「ああそうですか」、「あなたは何の癌ですか」、「私は骨髄の癌です」。皆、子どもたちはあっけらかんとして言っているのです。しかも、自分の病気についてよく勉強しているのです。専門用語をも含めて非常によく知っています。難しい医学用語を使って、お医者さんと対話して、何故この治療が必要なのか、こんな苦しい治療が必要なのか、毛が全部抜けていくのは何故なのか、どうして抜けていくのに心配しなくてもいいのか、そして、抜けても治療が終われば、また生えてくるのかとか、子どもたちは一生懸命、病気と闘っているのです。
アメリカでは、このようにして診断結果についての真実を告げる事、あるいは、共有する事については相当はっきりと割り切っているし、割り切る事によって、新しい局面が開けてきていると思います。ですから、そのテレビの中に出てきた女の子は、自分は癌だとお友達に言ったのですね。そしたら、癌だと言ったら、友達が、それじゃあなたは来学期はいないのかもしれないのねと言った。来学期に入ったら、つまり、癌ですから来学期、夏休み過ぎた来学期はもういないのね、と、これくらい自由にコミュニケーションしている訳です。だから、勿論、いたわりとかいうものは必要です。そして、癌のそれを真実告知と言っても、告げ方だって色々ある訳です。告げ方、タイミングの問題、人生で何事かで成功し、名を遂げた人なのか、あるいは、これからしようとしているまだ若い人なのか。
ほとんどの人が完全に知りたい訳ですから、大体の場合にはね、そういう事を言うんですね。しかし、知った段階でガタッときてあきらめる事はないのです。不思議な事に、そうかこれだけしか生きられないというふうに考え、よし、その間に何かやろう、それから、修士論文を書き上げたり、自分の一生を顧みたアルバムを作るとか、世界旅行に出かけるとか、それから、焼き物にこり始めたり、そして、やっているうちに治っちゃったり、とにかく、色んなケースがあるのですね。
患者さんの中にも色んな患者グループがありまして、そのグループは、例えば、癌の患者さん、特に乳癌の患者さんですけども、乳癌の患者さんが、実際、自分が治った患者さんがメンバーになっていて (乳癌は治る可能性もある癌の1つですね、非常に今は進歩しましたから)、そして、それを摘出して治っている患者さん達がボランティア・グループを作って、病院からも教育専門のスタッフの指示によって (病院の指示に応じて)、病院がそういう人たちをよこして欲しいと言った時に、自分は治りましたっていうボランティア (全部、癌の人たちですが)、病院に出かけて行って、その癌で只今入院して、これから切るとか、切って治ったという人の前に現れて希望を持つようなコミュニケーションをしたり、一緒に傍らにいてあげたりという事をしているグループもあります (Reach to Recovery)。
それから、キャンドル・ライターズというグループもあります。キャンドルはろうそく、ライターは灯ですね。"ろうそくの灯" グループというのは、主に子どもの白血病の両親、または、専門家のグループ、ボランティア、これは世界的に広がっていますので国際組織です。日本には、おそらくまだ支部はないという事を本部の人が言っておりました。資料を取り寄せますから、是非日本でもそういうグループを作ってもらえればいいんじゃないか、それはアメリカなんかとちょっと違うというのは、アメリカは子どもが知っている訳でしょう。親が知っている訳でしょう。周りの人が知っているところで、そういう所へ行っても全くフリーな所と、日本のようにあまり公にはしたくない、周りにも知らせたくない、子どもには勿論知らせないという所で、果して、このようなオープンな人間関係に基づいたグループ作りが可能かという問題もあります。
しかし、キャンドル・ライターズのようなボランティアのグループを作って、お互いが助け合って、ベビー・シッターをしたり、あちこちへレクリエーションに行ったりという相互連絡が横の助け合いをしている訳です。それがアメリカの場合は、自分の住んでいるコミュニティの中で行われている訳です。私の今住んでいるコミュニティの中で、私の家内はシールス・オン・フィールズという、自動車で食事運搬サービスをするという、在宅老人や病人に食事を運んでいくボランティアの仕事をしています。それは、病院の食事センターというのがあって、そこに何人か組になって車で行きます。そこに当日の訪問先を記した地図があって、配達する家が書いてあるのです。その家に毎日、食事を届けるという活動です。そして、1つ1つの家に特別の指示があって、例えば、この家に入るには玄関の足拭きの下に鍵がありますから、その鍵を取って扉を開けて入るとか、おじいさんは全く耳が聞こえませんから何も言わないで、ただ肩をたたいて、持って来たという事を知らせて、必要があれば筆談して帰ってくる事という、1人1人老人やそのお宅についてのメモがある訳です。ある家はものすごくいい家で、13階建ての8階で、ベランダのある明るいサロン風の家で、冷蔵庫にもいっぱい品物がつまっているような非常に金持ちの家がある。一方、ある家は、非常に狭く、陽が当たらない部屋に住んでいる方もあります。そういう点で、このようなボランティア活動は、1つの教育活動のプロセスでもある訳です。ボランティアでそういう事をやるっていうのは、何かしてあげるっていうのではなくって、そこで自分が本当に勉強する、5分なり、3分なりの話を通して、自分がそれをやる事によって得る事が本当に多いのです。アメリカの普通の私どもの学校や大学なんかに行ったりしているだけでは分からないものを結果的には学ぶ訳です。実際に、そういうボランティアというのは大体どういう人がやっていると皆さん、お思いですか。
こういうコミュニティのホスピス・ボランティアをアメリカでやっている人たちは、例えば、1週間1日の休みの夜の時間をとって、プロフェッションで忙しい人がやっているケースもあります。それから夜ですね、時間をさいて、夜ボランティアをしている人もいます。1週間のうち土曜か日曜にやるという人もいます。また、先ほど述べたシールス・オン・フィールズをやっている人たちは、ご老人の方々、退職された人や御婦人の方が多いのです。老人というのは、サービスされる側じゃないんです、老人というのは、自分がぎりぎり生きて、やれるところまでは自分の仲間のために仕事をするというのが当然という発想なのです。つまり、ボランティアというのは忙しい中で、余分の仕事として、嫌々ながらやるという発想ではなくて、人間として、この世の中に生きていくために、我々は自分の大事な時間をある程度捧げるというのは人生の基本であるという考え方なんです。人間として生きていく上で、唯々自分のために生きていく人生というのは、これは動物の一生と同じだという事です。最も忙しい連邦政府の公務員が、そういう時間をちゃんと取っている。
また、アメリカには色々なボランティアがあるのです。外国から色んな人がいっぱい来ている小学校に行って、英語の出来ない子ども達に英語を教えるというボランティアもあります。そういうボランティアの人は、家内の友人にもボランティアの人がいますけど、外国人のために英語を教える専門家で、1時間大体教えれば、子どもだろうが大人だろうが、とにかく英語を教えれば、プロフェッションとして6千円くらいは取る人が・・・。
それはさておいて、ボランティアで地域の小学校へ行って、新前のアメリカ人や外国人のために英語を教える時間というものをちゃんと作る訳です。そういう時間があったら教えると言って、当然、お金をもらった方がいいじゃないかと思いますが、そうじゃないのです。忙しい自分の人生の中で、ただ自分のプロフェッションを通して社会に貢献するという事で生きるだけではなくて、忙しい中で、自分は自分のプロフェッションとしての仕事の他に、忙しいからこそ貴重な時間を分かち合っていく。人生のその質の尊さというものを基本の人生のプログラムに入れちゃうという事です。ボランティア活動を余分のものじゃなくて、基本のものとして人生に組み込んでいくのです。これは、おそらくキリスト教の思想というものが背景にあって、神と人とを愛せよ、つまり、神を愛し、隣人を愛せよという事があるのかもしれません。いつも象徴的な十字架のように縦と横とつながっている訳です。人を愛するという事がなくて、神を愛せよと言ったって駄目だというのです。キリストの説くところでは、隣人を愛する、家族を愛する、友人を愛するといっても、その人間をこえた神とつながっていなくては意味がないのだと教えているのです。
このような縦と横とのつながりを大事にするコミュニティの中での、本質的、根源的な人間の在り方、その基本の在り方から出てくるのだと思います。コミュニティの中心にキリスト教の教会があって、ボランティア活動も、その教会を中心に行われています。私は、こういう事が日本の中にないと言うのではなくて、日本にも、そういう様な基本のコミュニティの考え方が、かつて色んな所にあった訳です。また、あるグループは、こういう活動をしている事も事実です。しかし、特に戦後は、価値観が変動し、極端な自己中心主義や、あるいは、とにかく自分が食べなくちゃいけないというところから、他者について考える事が出来ない時代があった訳です。日本国内の隣人は勿論、開発途上国の人々にも、あまり関心がないといった状況にあるのではないでしょうか。今、我々が新しい21世紀に向かって生きていく時に、自分が忙しい時間を他者のために捧げるかという事が、どんなにか大きい恩恵を受けるかという発想を持たないと、自分の人生の中に、そういう時間を組み入れる事、つまり、生き方それ自身を、それを組み込んでいかないと、私は新しい未来は展望出来ないのじゃないかと思います。
岡村さんとともに、80年、81年、82年に、医師会、大学、または、市民のグループ、研究所など、色んな所でバイオエシックスの展開を話し続けてきたのですが、去年の2月に、岡村さんがワシントンに来てから後の日本におけるバイオエシックスの展開としての、この名古屋の看護セミナーに加えさせていただく事は、今回が初めてで、大変に私としては有り難く思っております。日本におけるバイオエシックスは82年以降、一段と大きく展開をし始めていると思います。日本において、安曇病院の精神科が1つのバイオエシックスのフィールドといいますか、実践の場所として定着しつつあると考えられます。そういう日本でのバイオエシックス展開の実績をふまえ、その中に私自身も、今回一時帰国して参加する機会が与えられたというのが、今度、私にとっても一番大きい喜びでした。新しい未来を展望するために、人生の中に、Volunteer Spirit を組み入れて、明るい未来を私たち1人1人が作っていくという方向に、これからもいきたいと願っております。
日本におけるバイオエシックスの運動が、私たちの未来を切り開くものになると私は信じています。
どうも有り難うございました。
本章を最後まで読んでいただき、有り難うございました。ご感想をお寄せ下さい。 rihito@human.waseda.ac.jp
|
「バイオエシックス講義録 (1) 目次」に戻る。
|