第1. 2回バイオエシックス研修会講演録 (1)


********************バイオエシックスと看護 (2)********************
1983年2月13日 9:30〜12:00 AM
於:名古屋第二赤十字病院桑山講堂
講師:岡村 昭彦/木村 利人

木村; 今アメリカでいろんな形ではっきりした権利として出来てるのは看護婦さん達の職業の自立した在り方、つまり、independent profession としての立場に立った判断の主体としての看護婦さん。お医者さんの言うことをただうのみにするんじゃなくて、自らが判断の主体で、それがよければもちろん受け入れてやるのが当然の医療行為でありますし、お医者さんの判断をうのみにしないで、それが悪ければはっきり言う。それが駄目ならば看護部長に言い、それで駄目ならば院長に言う、それをその時点で言ったということが明らかにならない限りは裁判で看護婦さんの責任が問われる時代になってきた。それだけ、独立の判断の主体としての看護婦さんの重要性が増してきている。そんなことを言ったら医療はやりにくくなるのではないか、お医者さんが命令することによって医療は成り立っていたんではないかという考え方は誤りです。お医者さんはチームの中の medical responsibility をもった1人の人間として、平等に責任はあるけれども実際は医療の現場で患者と最も恒常的コンタクトをするのは看護婦さんなんですから、ますますそういう看護婦さんの責任が重くなり、看護婦さんの権利及び義務が積極的に評価される時代になってきている。これが今のアメリカの現実なわけです。
 おそらく日本もこれからそういうふうになっていく、ということははっきりとした方向としてあるわけです。歴史の方向として、医療というものを、やはりそういう一つの方向で考えるというのは、どういうことかと言いますと、医療は今までのように密室の中の profession 同士がお互いに支え合い、かばい合っていた時代が過ぎて、そして、それがますます一般の人達のサポートなしに、これからの医療は財政の面でも、倫理の面でも、それから、philosophy の面でも、患者や家族の意見を抜きにして論ずることは出来ない時代になっているんです。論理が、普通の人の論理と違う論理では、今の時代を切り抜いて行くことが出来ない時代になっているんです。
 ですから、つい数日前ですか、東北大学の附属病院の問題がありました。院長さんのテレビのインタビューを聞いてみると、だいたい保険の請求というのが薬を出すにしても何にしても2週間という法律の方が間違っている。それが4週間の方がこの辺鄙な東北の田舎に住んでいる患者さんのためには便利なので、今の保険法が間違いである。私達は悪い事はやっていない、と言うわけです。ですけど、ここには、悪質論理のすり変えがあるわけです。本当にそうならいいんですけど、請求をするために操作をして、中で診療代を1億5千万円詐取しているでしょう。まず第一に、東北のその地方の人々のサポートが本当にあるなら、法律を変えるという努力をいろんな形でアピールして、例えば、東北大学附属病院がアピールして、その地域でそういう声を上げて、県でもって、それが国会議員を動かしていろんな形で努力を積み重ねてきていて、それでなお且つ、そういう問題があったというようなプロセスがはっきりとしないと駄目なのです。アメリカでこういう法律違反の論理を展開したら、これは完全な犯罪を認めたことになります。ですから、保険医療機関取り扱いを停止すると厚生省は一応決定したんですが、宮城県側はそれはそうしない、という判断を下しているようです。
 まあ、これは public の税金を1億5千万円使い込んだのははっきりしてますから、不正な利益を取得したということになりますと取り消されるどころか、アメリカでは大変ですね、世論が騒いで、病院がつぶれることになりかねないくらいですね。そういう普通の市民の感覚があるわけです。確かに、そこで使われていることが患者さんのために、病院の入り口で TV のインタビューに答えて、私達はその方が便利ですものねと言っている患者さんの意識も変わらなくちゃいけないわけです。そうやって法律が実態と合わないものは変えようとする努力がない限り、そういうふうにいかに法律が間違っていると言っても、事態は改善されないし、またかえって物笑いになる。それだけの厳しい世論にさらされるという事はふまえなければならないわけです。

岡村; ここでコメントさせていただきたいのですが。
 バイオエシックスというのをよく理解するために、なぜバイオエシックスというものが生まれてくるような時代になったのかという事をよく知る必要があります。まず、それを頭の中に入れ、大変日本人には分かりやすいのは、例えば、日本の看護婦さんは19世紀のナイチンゲールをいつまでもかついでいるのが好きなんですね。また、それは看護学校の先生の頭の古さによるわけだけれども、19世紀は19世紀で、20世紀は20世紀なんです。その違いを冷静に見つめることなしには社会を進歩させることは出来ないわけです。ところが、19世紀と20世紀を混同させて、こんがらかしてしまうような考え方を平気で持っているし、また新しい時代になったら新しい、例えば文章を例にとれば、新しい問題を表現しようと思ったら新しい文体を見い出さなければ表現できません。古い文章の文体で新しいことを書くというのは嘘を書く、だから、新しいものを生み出すためには大変な苦労があって、その文体を生み出さなければならない。それと同じように、バイオエシックスを生み出していくためには、それなりの新しい問題意識がなければいけないわけです。
 例えば、さっきの患者を中心とした patient's center という考え方は、どういう歴史の意味を持っているかというと、長い間、何千年という間、医療を支配してきたヒポクラテスの考え方を否定することを意味します。未だに私はバイオエシックスをやったんだけど、ヒポクラテスはヒポクラテス、これは困るわけですね。私の叔父貴の緒方とみおなんていうのは、いつまでもヒポクラテスをかついで歩いていて大変困った人です・・・。
 例えば、一昨年だったかな、アメリカの医師会で宣言を出したのは1980年、アメリカの医師会は患者の意見をまず尊重しようという声明を出して、ヒポクラテスの考え方を否定したことになります。つまり、患者を中心にして、お医者さんが患者さんのためを思って癌だという事を告げない。患者のためを思ってこうしてやる、そういう恩恵の問題ではない今の医療は、そういう時代ではなくなった・・・。しかし、そんな大切なことが日本の中には伝わらない。口で簡単に患者のためと、よく言うんですね。私達が去年の7月の末から、長野県の厚生連の安曇病院に行って、そしていろんな意識の改革の問題を話し合った時に、見てると面白いのは、お医者さんと看護婦さんが、いろいろ言い合うんだけれども、「患者のためを考えなければ」とドクターが言うと、「私だって看護をやるからにはちゃんと持っていますよ」と立派な事を言う。患者が不在であることには全然気が付かない。実にばかげた話をしていると思うんだけれども、本人達は一生懸命なんで、何千年もそれが続いているのだから、それが正しいと思い込んでいる。ところが、なかなか頭を改革しないから、古い頭が新しい事をやるなどと言い出すのです。
 ここにメンバーで栗本君という精神科の医者がいるわけだけれども、彼は大学紛争の時代で自分は非常にラディカルと思っている。ところが、開放病棟の中にステレオを入れようじゃないかという話になった、ステレオを患者が壊すんじゃないかと言い出す。ところが、ステレオを置いても、全然壊さないわけ。そうすると、今までそういうふうに考えていた医者というのは、もし何か起こすだろうと思って、何の意味もない薬を飲ませていたわけでしょう。そういうことを起こすだろうと思い込んでいたことは、患者をつくりだしていたわけです。そう考えると、もっと大変なことをしていたのだという意識がなかなか戻ってこないのですね。
 ある看護人は、テレビが置いてある部屋は冬になると寒いから障子をたてたらいいだろう。そんな事をしたら、その中で色情行為が行われたらどうしますか。色情行為なんて、変な言葉なんだけど、もし障子を開けた時に、生きた関係が見えたらどうしましょうかと言うんなら、まだ、(笑い)・・・色情行為、ところがそんな事は全く起きない。起きなかっただけって言うだけではすまされない。そんなばかげた事を自分が発想したっていうことをどのように考えるのか、これは、もしか私が病棟に入らなければいけないのではないだろうかと、こういう意識が起きなければいけないわけです。ところが、上から下へ何かしてやっているんだという考え方の中に反省は出てこないんですね。つまり、言い放しです。
 皆さん方が患者を中心として、という考え方になられると、自分が恩恵をほどこしているっていうのはどんなに尊大な事であるか、まして、そんな尊大な人間が閉鎖病棟で鍵なんか持ったりしたら、たまったものではないですね。常に朝から晩まで嘘をついて患者をだまして、それで給料をとっている状態です。開放病棟へ行きたい患者は閉鎖病棟の精神科の場合、ドアーの所でいつも患者さんと押し合いへし合いをやるわけであります。そのために、いつも言うのを聞いていると、「今日は我慢してちょうだいね」「今日は先生がいらっしゃらないから、明日先生がお見えになったら話を聞きましょうね」をとおして帰す。それで10年経っちゃった。1人の精神を10年奪うなんていう考え方にはならないわけです。それが患者を中心にという考え方になってくると、みにくい行為をしている自分にも反省が起こってくる。そして、人間として対等に話し合わなければならない。患者の権利をめぐってのいろんな試行錯誤をした10年間で、人類の進歩に貴重なレコードを残したという事です。そこのところが、日本では空白なんです。だから、急に患者の権利なんて、精神科の患者に権利をと言うと患者は何をするか分からない、とこう言うのです。それは上から下への考え方ですね、これは差別の構造です。いいですか。これは部落差別を起こしている差別と全く変わりないですよ。上から下へ、つまり、下を見なさい、といつも言って権力体制を維持してきたものと全く変わりない。倭羽さんとの対談を是非読み返していただきたいと思うのです。
 僕はしつこく言います。例えば、「かわいそう」という言葉について言っているわけだけども、「かわいそう」という言葉は、他人事です。倭羽さんに、そういう例を出したんだけれども、隣の家がうなぎを食っている。子供達は「お母さん、どうしてうちはうなぎが食べられないの?、どうしてうちはたくわんばっかり食べてるの?」と尋ねると、「そんな事言って、たくわんさえも食べられない人もいるんですよ」と教えるわけなんです。そうすると、その子は「良かったね、うちはたくわんが食べれて」と。なぜ、たくわんすらも食べれない家があるのか、まあひどいじゃないか、社会のしくみが間違っているんじゃないか、それを正さなきゃいけないじゃないか、と言うなら、そこに連帯が生まれる。だけど、人の苦しみなら100年も我慢してやろうっていうんじゃ、そこに差別の構造、言語っていうのは思想を規定していきますから、例えば「かわいそう」という言葉を看護婦さんの社会から追放しない限り、患者を中心とした医療なんていう言葉は出てこない。あの患者さんはかわいそうね、私、患者のためを思って言ってるのよ、そうとうな女ですよね、男でも言いますけど。そういう差別の構造に気がつかないと、実は患者を中心としたという考えは成り立たない。だから、木村さんがおっしゃる患者を中心としたっていう考え方は、そこには実はベトナム戦争をくぐり抜けて、アメリカの母親達が自分の子供達を戦場に送ってはいけない、つまり、自分の命を人に預けない、そして、それが患者が自分の命をお医者さんに預けない、看護婦にも預けない、自分の命は自分で守るという自論を作り出してゆくところに変わっていく。
 だから、アメリカの中で初めて医者と患者は平等になり、患者の権利宣言が生まれ、そして、精神病棟の中にも、特に心を病んだ人は自分の権利を忘れがちですから、「あなた方にはこういう権利があるんですよ」ということを知らせる。その知らせることができる人間でないと医療に携わることが出来ない。この日本で患者を中心とした医療の展開をなさる場合に、自分が人に何かしてやっているのだという事は差別なんだと。つまり、他人の不幸で私は食っているんだというふうに考える必要があると思います。

木村; お配りしてある バイオエシックスと医療8. バイオエシックスの思想と文化 その (1)ヒポクラテスへの訣別 (『病院』医学書院 11巻8号8月号) の真中のところに、1980年、医師会の倫理原則なんですけれども、宮城さん読んでいただけますか。
 "米国医師会の医の倫理原則 (1980年) <前文> 医業専門家集団は長い間にわたり、主として患者の利益のために展開されてきた倫理宣言の総体を承認してきた。この専門家集団の一員として、医師は患者に対する責任のみならず、また社会や他の保健職業専門家及び自己への責任を認めなければならない。米国医師会により採択された次の諸原則は法律ではなく、医師の名誉ある行動にとって本質的な事を定めている行動の基準である。"
 法律っていうふうにするとですね、守る事が原則になりますが、ここでは法律っていうふうなとらえ方じゃなくって、もっと法律よりも基本の一番重要な原理であって、No. 1 を定めてある。"1. 医師は人間の尊厳への同情と尊重の念をもって適切な医療を与える事に献身しなければならない。" これはとても大事な条項なんです。今までは病気の治療は人間の尊厳も何もかもそれを踏みにじっても当り前という事態を生み出してきたんです。あらゆる医療行為が全部病気の治療という名の下に正当化されてきたり、あるいは、将来の臨床行為に応用される可能性を持っているという臨床実験治療などによって、人間の尊厳が無視されてきたという事態がアメリカでは非常に多くあったのです。黒人の人体実験が行われてきましたし、ご存知のように19世紀の中端の1857年の最高裁の判例にありますが、奴隷というのは person (人) ではなしに property (もの) だというのです。黒人奴隷はアメリカ憲法に保障された人間のカテゴリーにはいらない。だから、黒人奴隷特定の財産としての取引の対象になっていたのです。奴隷を置いて、そして、そこで奴隷夫婦の間に子どもが生まれれば雇用主の property (財産) ですから、当然、その子どもを売って金をもうけてしまう。しかも、廃物利用といいますか、そういう考えもありますから、足を怪我したとか、手を折ったとかいう奴隷は使えなくなりますから、そうすると、医学実験の材料として売りに出して、また、それを買おうとするお医者さんがいっぱいいたのです。色んなバクテリアとか傷のあとを調べて、要するに実験材料として使うのです。
 日本は最近、細菌部隊として問題になった人体実験での例があります。そのような財産権の行使という論理を使ってきました。そしてまた、それは人種差別の深い深い根が法律の名によって平気で行われてきたという事であります。「医療の目的は、病気を治すことである」という大義名分によって、人体実験をしたり、人間の尊厳を踏みにじったりしていいという事になってはならないと思います。この第1条は、アメリカの看護協会 (American Nurses Association) による1976年の基準と重なっています。一番大事なポイント1は、英語で言いますから、簡単な英語ですから、よく聞いて下されば分かると思いますが、the nurses provide services、すなわち、nurse は、サービスを提供する。with respect for human dignity、人間への尊厳をもってサービスを提供する。病気を治してあげるから何を言っても、してもいい、人の心を踏みにじったって何をしても、今病気を治すのが先決だという発想はだめなんです。一人一人の人間を心から敬う精神をもってサービスを提供するというのが、看護婦さんの倫理綱領第1条第1項です。そういうセンスがないと、お医者さんの命令に従って、患者さんの気持ちや希望や良心を踏みにじるという事になりかねないのです。
 どちらかというと日本では患者さんは material (材料) で、病気の治療、あるいは、患者さんの病状、病気の症状にだけ関心があって、患者さんがどのような人間であるのか、この患者さんが社会、あるいは、家族のどのような環境の中にいるかという事に目がいかない傾向があるのです。その一つの例は去年、人工心臓が初めてアメリカで移植された時の報道のされ方によく表れています。つまり、人間に対する関心があまりない日本の社会の様子がよく分かります。私は、今日ここに切り抜きを持ってきました。記事としての取り上げ方や見出しなどがアメリカと日本とで余りにも違うものですから大変驚いています。
 例えば、日本の新聞記事を見てみましょう。日本の新聞記事のタイトルは、去年1982年12月3日の新聞を見てみますと「永久型人工心臓世界で初の移植」「圧縮空気で作動、数日がやま」、そして、こちらを見てみますと、これは読売新聞ですが、「人工心臓初の移植に成功、永久使用を目指す、61歳、米ユタ大学」、この場合の見出しの主語は人工心臓で、それから、世界初の人間への移植、それは永久型だという事がここに書かれています。アメリカの新聞の見出しを見てみましょう。アメリカの新聞は「plastic heart received patient」つまり、主語は「人工心臓を受けた患者さん」が元気である。それから、こちらの新聞を見ますと「heart patient」心臓病の患者さん、それから、こちらを見ますと「heart received」心臓を受けた患者さんは、もう一回手術を受ける。どの新聞を見ても、この見出しは「first patient」最初に人工心臓を受けた患者さん、とか「heart patient」です。あくまでも関心は、「heart patient」はどうなったかという事です。
 日本は人工心臓を初めて世界で移植した。この「人工心臓」は永久に可動か、止まる事はないかという、機械、つまり、人間に用いられる物体に対する関心が中心なのです。人工心臓の移植という事が、すなわち、機械の部品に関心が集中していて、患者さんのクラークさんがどういう人か、何故このクラークさんが61歳でありながら人工心臓の移植を受けたのか、臓器の移植の手術というのはある程度余命が確定していて体が頑丈な人、つまり、50歳以前の人にだけするというのがアメリカの public policy として成立しているわけなのに、何故61歳のクラークさんにこの手術が適用されたのか。この人工心臓手術をしたお医者さんはどのような人なのか。手術をした外科のお医者さんだけではなくして、その人工心臓それ自体を作った人は誰なのか。一体その人はどこで生まれてどうしたのか。何故、人工心臓を作ったのだろうか、等々の人間をめぐっての話題作りの紙面であり見出しなのです。そういうニュースをこの中に知っている人はいるでしょうか。日本の報道でそういう記事を一行でも読んだ人はいますか。アメリカではそういう記事がいっぱい出ましたから、おそらく日本でも誰が作って、この人がいくつ位の人で、外科手術をした人の年齢は何歳か知っている人もいると思いますが・・・誰もおられない。そういうニュースは日本には流れないのでしょうか。アメリカ医師会倫理基準の第1条第1項や、アメリカの看護協会倫理基準のポイント1. 人間への尊厳、人間への関心について、という事がそこでおさえられている事に表れているように、人間への関心、興味、そして、尊厳が大事なのです。そういう事に日本ではあまり興味がないようですが、そういう関心がないかもしれません。新聞で社会に報道する人にも、ですけど、アメリカでは、その人間・患者さんの問題が話題の焦点でした。
 クラークさんは、自分でユタ大学に行って、何回も人工心臓で生きている動物を眼のあたりに見て納得し、このユタ大学は20年以上の歴史をもっている人工心臓の研究・開発の世界一のセンターなのです。私もこの事について 『病院』12月号に書いておきましたけど、その中では、私のよく知っている北海道大学出身の Dr. 能瀬がクリーブランドクリニックという世界的な人工臓器の研究センターの部長さんをしていまして、その能瀬の最初についた先生が、今回のユタ大学での臓器移植を成功に導いたコルフというオランダ人の先生なのです。コルフ先生は第2次世界大戦中に腎臓の透析の機械を発明して、その後、世界で最初にこれをアメリカで完成させた人です。Dr. コルフ、オランダ系の人が最初にクリーブランドクリニックにいて、その人がユタ大学に移って、そうして、その下で育った若い世代のお医者さんが世界で初めてこれを成功させた。ド・ヴリースという外科の38歳の先生は、Dr. コルフというオランダ人の先生についたのでしたが、同じオランダ系の人なのです。
 アメリカにも色んな人脈があって、人間というのはどこにでも住みつくのではなくて、やはり、その個人の祖先の出身のとか、文化の背景とか同じような系統で結びついていくケースが多いのです。ド・ヴリースというオランダ系の人は、Dr. コルフに雇われて、そして、色んな技術を習得した訳です。この先生は、ロックンロールやジャズを聞きながら、外科の手術をするという評判のある腕の確かな、非常に有名な若い外科の先生です。人工心臓を作った人はどういう人なのでしょうか。この人は36歳です。Dr. ジャービックは36歳で人工心臓を作ったぐらいですから、大変優秀なお医者さんなんだろう。エリートに違いないと思うでしょう。秀才どころか、この人はお父さんはお医者さんだった訳ですが、お医者さんになるつもりは全くなく、歴史、哲学、美学が好きで、自分は彫刻に一生をかけるのだという事で、彫刻を一生懸命勉強していました。大学では、一応哲学科に入ったんです。けれども、お父さんが心臓のお医者さんで心臓の持病で亡くなられた時に、何とかして自分の持っている才能を活かして、お父さんのように苦しんでいる人たちを助けるような職業につきたいと思ったら、結局、お医者さんという事になりました。
 しかし、アメリカの医科大学には、入ろうと思っても、もう受け入れてくれる所がない。言うなれば落ちこぼれですね。それで、アメリカというところは面白い国で、落ちこぼれた医学生を教える所をちゃんと持っているんですが、イタリアのポロニア大学の医学部、英語で教育を受けられる医学部があるのです。そこを受けてやっと入って、そして、自分の持っている彫刻の才能を活かして、人工心臓の数々のモデルを作るんです。そのモデルの上から plastic の液をかけて何回も何回も重ね合わせて型を作るような方式、あるいは、布でもって型を作った上から plastic をかぶせるのです。元になる心臓は、自分で木型を彫って作んなくちゃいけないのです。従って、彫刻の腕が生きてくる訳です。そして、生きるとか死ぬとかという事を哲学をする事により考え抜いた人です。この後、ポロにア大学から直ちにニューヨークの大学の医学部へと戻って、medical technics の専門家としての教育を受けました。やがて、当時人工臓器の研究でトップを切っていた、Dr. コルフに電話をかけてユタ大学に雇って下さいと言って、週給100ドル、2万3千円位で雇われて、そして、その下で自分で作った木型の人工心臓の彫刻を開発して7番目に作ったのが自分の名前を付したジャービック7という、この間の人工心臓なのです。この人は、人工臓器の移植が成功したその日の成功の瞬間から、テレビに出続けでした。そして、どうしてこういう事をやり始めたか、何故、若い時にイタリアに行ったか、それから、クラークっていう人が一体どういう人なのか、という事について語り続けていました。専門家が平易な言葉で一般の人々に語りかけるという責任の取り方を眼のあたりにして感銘を受けました。
 ところが、このニュースについての日本の報道を見ますと、こういう事が出てくる。これは日経ですけども、見出しが「死亡覚悟の同意書、人工心臓のクラークさん危険、承知で実験台に」、そして、ある医学評論家はコメントで「死亡覚悟の同意書を書くという事は人体実験ではないか、これは困る」と語っています。これは、バイオエシックスの原則が生まれ育ちつつあるアメリカの実状を全く知らない日本的発想によるコメントです。アメリカでは1974年の段階で色んな医学実験については人権を守る立場から、あらゆる病院研究機関に、倫理委員会を設けることが法律で定まっているわけです。日本みたいに閉ざされた中でバラバラでお医者さんの独断だけで何かやるという時代ではないんです。そして、その倫理審査委員会は英語で、I.R.B. といいますけれども、これは連邦政府の基金を受けている研究、つまり、クラークさんのような研究は連邦政府の基金を受けていますから、そういう研究、ならびに、それに準ずる研究、連邦政府の基金を受けなくても細かく人体に関わりをもつ研究実験については、必ず、I.R.B. または、各研究施設や病院の倫理委員会 (H.E.C.) を通さなくてはいけないということが法律で定められているわけです。そこを通す条件としては、患者本人の意思の全面的な尊重です。クラークさんが誰かに強制されて、たまたま心臓、人工臓器移植プログラムがあって、丁度ここにいい人が来たから、これを使うというんじゃないのです。
 今から16年も前の我が国の和田博士による心臓移植事件のようなケースとは全く違います。あの場合は、決定に至る手続きが不明で、しかも、本人の意思が関与していませんでした。このアメリカの場合には、本人の意思を尊重して、他の方法では助かり得ない、つまり、薬剤の使用、他の手術では全く助からない。また、連邦政府による20年間の動物実験の実績、本人が、生きている山羊や小羊や、そういうものを実際に目で見て、自分でこれでいいと言った。それから、連邦政府がジャービック博士の人工心臓は人体に使うことを許可するという許可書を出しているという色んな条件からみて、倫理的な問題は充分検討した上での I.R.B. (医療専門家以外の人も入っている16人) の審議を経ての臨床処置なのです。しかし、日本で新聞記事を作ると、人体実験は問題であるという記事になってしまって、世界の大勢から全く遅れていた価値判断がなされている。アメリカでいえば、この時に一番大きい問題として取り上げられた2つの事は、皆さん方、おそらくは不思議に思われるかもしれないけれど次の2つでした。
 第1には、機械と一緒にいつも移動していかなければいけない、大型電気冷蔵庫くらいの大きさの機械がいつもそこにあって、2つパイプがつながっている状況で生活をしていくという、人間の生命と、生命の質というのは果して満足がいくものか、それに耐えられるのだろうか、という事だったのです。よく考えてみて下さい。それで一生を送っていく (60歳の人の一生というのは、あと何年か限られているでしょうけれども) 生活というのは、例えば、15歳くらいで心臓を全く入れ替えて、いつも機械と一緒で、一生生きていくというのと比べるとどうでしょうか。ときには耐えられないでしょう。むしろ、私は死んだ方がいい、と言う人もいるかもしれませんね。そうすると発作的に、その人が持っている key でもってスイッチを切るっていう事になりかねない。そうすると、key をあげない方がいいのではないか、あげた方がいいのではないか、という論議が大きく問題となって取り上げられる。
 また、倫理的な問題に関連して、第2の点は、大体最低見積もっても5万ドル (約1300万円くらい) は、どうしても経費がかかります。人工心臓が2万ドル、手術に最低3万ドル、その他で多ければ、約10万ドルくらいかかる手術を年間5万人の人にかけるお金というのは膨大なものです。その膨大なお金があったら、むしろ心臓の欠陥が起こらないようにするというような教育プログラム、つまり、飲み過ぎとか、煙草の吸い過ぎ、運動を定期的にするとか、色んな対策がありますね。そちらの方にエネルギーや金を費やしたりする方が最後の手段としての手術をするよりは、いいんじゃないか、という考え方もあります。国民総生産のうちで全体の医療費の割合には限界がありますから、そうすると特定のごく少人数としか思われない5万人の患者さんのためにするよりも何十万、何百万人のためのそういう大きなプロジェクトにお金を使った方がいいのではないか、そういう医療財源の配分の問題、この2つが大きい問題なのです。
 日本にはそこら辺がどういうわけか伝わらない。色んな事から考えてみますと、どうも日本では、人間に対する関心よりも、病人を治療する、それから、人間がそこで生きるかどうか、特に、機械がそこでいつも焦点をあびるのです。ですから、山羊への心臓移植で、人工心臓でもって270日生かしたっていう世界記録のケースがありますが、Dr. 能瀬に言わせると、そういう何日長く生かすという事はもはや問題ではないというのです。問題は「質の問題」になってきて、日本のように1日を競うという時代は過ぎている、という事をはっきりと言っておられましたけれども、そういう生命の質の問題に対する感覚が、日本では少ないと考えられます。その事は、医療、あるいは、日常生活の中で考えていかなければならない問題なのです。私たちの意識を変えていかなければなりません。大事なのは人間であり、人格であり、その人の尊厳を守るという事を基本に捉えた「患者を中心にした医療」というものを、これから考えていかなくてはならないと思います。

岡村; 今、木村さんが言った問題について、3つの重要な点があります。1つは、このセミナーのメンバーには繰り返し言っているのだけれども、生命がコントロールできる時代になったのだという予告を、アメリカの国民がライフという家庭向けの週刊誌で受けたのは1965年の事であります。そして、4週間続いたコントロール・オブ・ライフという大変グレートなストーリーによって、人間の身体というものは、これからは人工臓器に置き換えられる時代になったのだという予告を受けたのです。
 それから、もう1つは、臓器移植、今日の朝刊なんかを見ると、また人工心臓の移植が、手術が行われるため、日本でも学会で色々言われている話が出ている。皆さんご存知ですし、テレビでもご覧になったと思いますけれども。1965年の段階で、一体臓器を移植するという事は死の判定をどうするか、という問題を国民全体に知らせました。木村さんの持っているアメリカの運転免許証にはちゃんと、自分の脳がダメージを受けてどうにもならなくなった時には臓器を移植していいというサインと、それを承諾する証人のサインが記入できるようになっている訳です。そういう時代に入りましたよ、という事をはっきりと国民に知らせたのは1965年なんです。約20年経っている訳です。
 そして、その人工臓器を造る時代、足でも手でも何でも一番造りやすいのが心臓である。一番造りやすいという問題提起がされている訳です。つまり、そういう時代なんです。その時代の事をちゃんと国民として知らされていなくて、人工心臓なんていうのが出てくると、とんでもない新しいものが今始まったような錯覚を持ってしまう。これは後進国の1つの例なんですね、情報をちゃんと与えられていないという事のために起こる現象で、実は、この人工心臓の移植だけで起こる問題ではないのです。皆さんが受けている1日24時間の情報提供がそういう大変質の悪い、質の低い情報提供を受けている。例えて言えば、スペースシャトルが宇宙空間へ行くのには、もう日本人は興味は持たないという。それは何故かというと、報道は必ず sensationalism なんです。一度あおり立てると、あとはすぐ飽きちゃうんです。
 だけど、スペースシャトルというのは100回のプログラムが組まれていて、それから始まった仕事ですから、アメリカ国民にすれば、そのプログラムを1つずつ成就してゆく事に非常に興味を持つ。3回目の時にアメリカに私はいて、木村さんの家、ワシントンにいたんだけれども、その時の世界での関心はどういう事かというと、ソビエトは、アメリカが打ち上げる衛星というのは軍事衛星であって、軍事衛星を打ち落とすための資料を空中へ持って行って、宇宙ステーションを作って、軍事衛星を打ち落とすことだという事を言い出した。
 となると、今は国民にそれを討論してどちらが正しいのか知らせなければならないというのがアメリカ・マスコミの考え方ですから、ワーッと打ち上げるのは皆、興味がある、打ち上がって空間に上がっちゃうと皆、興味がなくなっちゃう。その途端に、アメリカのテレビがモスクワを呼び出したんです。モスクワの科学者が出てくるわけです。するとスタジオから、あなたは、このスペースシャトルをどう思うかと問うと、それは軍事衛星を打ち落とすための軍事目的を持ったものではないと言うのですよ、と途端にスタジオから NASA (アメリカ宇宙局) を呼び出すのです。その責任者を呼び出す。今見ろ、ソビエトが言っている事と、お前が言っている事は違うじゃないか、これは一体どうしてくれるんだと、これに対してアメリカの担当官は、アメリカ国民に分かるように説明しなければならない。私は、ライフ (対象がアメリカ人ですね) という雑誌で報道していた。だから、私はその意味はよく分かるんだけども、そんな面白い番組を日本で中継したらどういう事になったろうかと、同時中継したのだろうかと思って日本に帰ると、それをしていないのです。打ち上げるところだけ、そして、帰ってくるところだけ。そうすると毎回同じだから、どうしようもないから誰も見ませんよ。だけど、毎回100回積み立てることによって、1992年には月と地球を底辺とする二等辺三角形の頂点に2万人の宇宙空間都市を造って、そこに2万人を移動させるという事を実現させるための1つのプログラムが進んでいます。だから、1回毎にそれが、実現に近づいていくわけですね。
 つまり、我々はどんな時代に生きていて、これから21世紀へ向かってどう生きようか、そして、どんな事が行われて、その資料をなるべく多くの国民に提供して、この未来、こんな人類が体験した事はないバイオテクノロジーだとか、宇宙空間に人間が住むとか、それから、人工臓器で人間が生きるようになるとか、そういう時代に特定の人、特定の権力を握った人に決定させるのではなしに、多くの人々 (市民) が決定に参加する。だから、医療っていうのは、特定の人が恩恵を与えるというのではなくて、市民がすべて決定に参加する。そういう社会体制を目指そうではないか、もし、そのために間違ったとしても、それは皆で間違ったという事を分かるようにしていこうじゃないか、という人間の生き方として、バイオエシックスというのが重要な役割を果たしている。その中で、患者を中心にした医療、そういう考え方が生まれてくる。バイオエシックス、患者の権利にしぼって考えても、日本はよほど遅れた国の話です。遅れているという事が、日本にいるとよく分からない。情報が沢山あって、日本はものすごく進んでいると思っているかぎり。


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