■キリスト教学校教育 12 (月刊), 445号, キリスト教学校教育同盟, 2000年12月15日 (金), p. 2.

生命科学とキリスト教Prof. Rihito Kimura wearing a smile
第44回大学部会研究集会

講演要旨
いのちを操る科学者たち
- キリスト者とバイオエシックス -

木村利人 (早稲田大学人間科学部教授)


いのちの世紀の光と影

 二十世紀後半における、生命科学の飛躍的な進歩と発展は、次々に新しい発見と生命操作技術の開発をもたらしました。例えば、いのちの設計図ともいうべきDNAの構造の解明は、遺伝子の操作を可能にし、がんをはじめ殆どの病気の治療や予防、医薬品の開発などに遺伝子工学技術が使われはじめています。更に、脳死体からの臓器の移植、遺伝子組み替え作物・種子の生産、クローン羊や豚の誕生も実現し、ヒト胚の万能 (ES) 細胞を使用しての臓器や皮膚の再生医療も可能になるかも知れません。
 しかし、その一方で二十世紀が、極めて大きなスケールでいのちを滅ぼした「ジェノサイド (民族の集団虐殺) の世紀」でもありました。geno とは「種族の、遺伝子の」という意味で、cide というのは「殺す」という意味です。
 先月初旬、三十年ぶりでベトナムを再訪しました。熾烈なゲリラ戦の恐怖に怯えつつ国立サイゴン (現・ホーチミン) 大学で二年間教鞭をとっていたのが、まるでつい昨日のことのように思われました。今回、印象に残ったのは、戦争が既に「博物館」の中に入ってしまったということでした。特に「枯れ葉作戦」の犠牲となったガラス瓶の中の二人の奇形の胎児たちは悲惨でした。枯れ葉剤 (Agent Orange) の主成分は、猛毒のダイオキシンです。住民のDNAが損傷され、流産や出生障害が多発し、さらに、森林・農地などの生態系や動物が滅ぼされ、河川や近海や水の汚染による農作物、水産物は人々にがんや肝臓障害など多くの病気をもたらしました。

不正義との闘い - バイオエシックスへの出発点 -

 まさに今から三十年も前のサイゴンで、この「枯れ葉作戦」の悲惨な実態を語ってくれたのは私の教え子でした。当時サイゴンで入手して読んでいた『Biological Time Bomb』という本には既に「遺伝子戦争 (Gene Warfare)」という章があり、このベトナムでの「枯れ葉作戦」が、実は「ジェノサイド (遺伝子殺し)」作戦だと私は直感しました。
講演する木村利人教授
講演する木村利人教授
この学生との出会いが、私にとっていのちの尊厳と人権を守り科学技術の悪用や誤用という「不正義」と闘うための「バイオエシックス」を新しく構想する出発点となったのです。その後一九七二年にスイスのエキュメニカル研究所 (WCC) に赴任してから WHO と共同して生命科学と人権についての国際会議を開催したりしましたが、当時アメリカでもキリスト教倫理・神学者を中心にバイオエシックスが形成されつつありました。
 原子爆弾、遺伝子戦争によりいのちを操り、そのいのちの破壊へと何故多くの科学者たちは加担してしまったのでしょうか。それは、かけがえのない人間のいのちを保ち、支え、育てていくための本来あるべき人間としての豊かな「いのちと愛のイマジネーション」を失ってしまったからなのではないでしょうか。特に原子力や生物化学兵器、そして戦時下の医学人体実験など「不正義」の構造に組み込まれた科学技術者たちに由来する悲惨な出来事が世界各地で繰り返されました。国際的な紛争、戦争はもとより政治や経済や開発など、「不正義の構造」への挑戦が一九六〇年代からグローバルなスケールで展開されてきています。私たちが信頼して医師中心の価値観で行われてきた医療の領域にも、「患者に正しい情報を提供しない」などの「知る権利の侵害」その他大きな「不正義の構造」があることが明らかとなりました。それへの正面からの挑戦の中から新しく「患者の価値観」を中心にした「患者の権利運動」も展開されてきたのです。

いのちと愛のイマジネーション - 臓器移植とキリスト者 -

 かつて一九六八年に、札幌で行われた「和田・心臓移植事件」のように特定の病院など、密室の中での医療側の基準に沿って人々のいのちが操作され、結果的に臓器を摘出されることになってはなりません。
講演する木村利人教授2
講演する木村利人教授3
しかし、現在は厚生省の脳死判定の基準に基づき、臓器の移植に関する法の厳格な運用と、日本臓器移植ネットワークと連携しての特定の病院施設などの対応が、全面的に公開される時代になりました。個人があらかじめ生前に脳死判定を認めた上で、臓器の提供の意思表示をした人の善意を受けるシステムが日本で機能しています。国際的に見てもこれはなかなか慎重なシステムなのです。「臓器移植」が不可能で亡くなられるという非常に残念で悲しい日本の状況を、臓器提供者の善意によって少しでも変革しようとする方向は積極的に評価されるべきでしょう。
 一方、日本では、キリスト者のかなりの人々が移植に消極的であるのが、私には意外に思われます。世界の各国の殆どのキリスト教会や教団は「臓器移植」を極めて積極的に推進しています。それは、私たちのからだは神のものであり、一人ひとりのいのちの終わりの時に「自己決定」に基づいて他者のいのちを救う機会を表明することの重要な意義を認めるからなのです。ちょうど私たちの主イエス・キリストがそのからだと血により私たちを救ってくださったという私たちの信仰告白と重なり合うからなのです。欧米諸国の教会では、入り口にある机の上には臓器提供カードのパンフレットがあるところが多くあります。このような、いのちを支え合う愛のイマジネーションが作り出しつつあるネットワークに参加する教会者は飛躍的に増大しつつあります。
 主イエスの教えに基づいた「いのちと愛のイマジネーション」をゆたかに養うことがキリスト者の倫理の確立に向けての第一歩なのだと思います。

自分のいのちは自分で決める

 自分のいのちが操作されないために、最も重要なのは専門家からの「正しい情報」を手にして「自分が決断する」ことです。自分がなすべき「自分のいのち」についての価値判断を専門家としての医師や科学者や他人にゆだねてはなりません。医療の現場でも漸く最近になって「いのちを操作されない」ために、バイオエシックス (生命倫理) の考えに沿った「インフォームドコンセント」が患者の権利として認識され始めました。
 パウロが「世界も生も死も……一切はあなたがたのもの」としていることに注目すべきでしょう。それに続いての「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」という指摘は、私たちのものとしての生と死、現在と未来への「自己決定」が神に包まれてあることを大胆に教え示すのです。

 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。(コリントの信徒への手紙一第3章22〜23)


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