■星野一正 編著:1994. 4,『生命倫理と医療 -すこやかな生とやすらかな死』, 第3章「ターミナルケア・死の迎え方」, 丸善株式会社, 東京, pp. 124-128.
3.8 高齢化社会とバイオエシックス -成熟死をめぐって- |
木村利人
高齢化社会におけるバイオエシックスの問題として大きく三つの分野があげられます。
第一に高齢化社会におけるハイテク医科学技術の発展にともなう決定、例えば生命維持装置の使用などの積極的な医療による生命への徹底的介入の問題を始めとするバイオエシックスの問題です。第二には高齢者の「quality of life」の評価をめぐるバイオエシックスの問題があります。第三にはこれから益々増加の一途をたどる高齢者の「ケア」を社会としてどう方向付けるかと言うバイオエシックス公共政策の問題があげられます。
この章ではこれらの点をふまえながら「高齢化社会と成熟死」の問題を取りあげ、死の決定への判断のプロセスについて考えて見たいと思います。バイオエシックスの考え方では、「各個人の生存時における正常な判断能力に基づいた意思表示を反映させた生と死への選択」と言う「自己決定」に重きをおいてきました。
高齢化社会において私たちが生と死の主権者であることの自覚がますます大事になってきます。そのことの社会的背景を私なりに分析し、バイオエシックスの見方からの問題提起をしてみたいと考えます。
人生はたった一回限りのものです。その人生の最も大事な終わりの時を、私たちはあまりにも「医療化」し過ぎているのです。
過度の末期医療、偽りの希望の延命、患者の痛みへの無配慮、説明・同意の不十分さ、そして何よりも患者自身の人生観、価値観や生命の終わりを安らかに迎えたいと言う意向の無視といったことがしばしば起こります。この十数年来、いずれも私自身を巻き込みながら、私自身の家族・親族の身の上にもこのようなことが起こりました。
私の父は不治の肺ガンと告げられずに、老人性結核の治療をしているということになっていました。大変に激しい痛みと苦しみに「安楽死」をさせてくれ、早く安らかになりたいのだと訴えつつ今から丁度21年前に67才で世を去りました。義理の祖母は抗ガン剤の副作用としか思えない錯乱状態に陥りベットの縁に手足を縛り付けられ、呼吸困難による気管切開手術も家族の反対を押し切って行われ、生前の願いだった安らかな臨終とはほど遠いいのちの終わりを迎えたのでした。特に死の決定のプロセスに関して言えば欧米諸国では、1960年代からの約三十年間で極めて大きな変動が起こったのでした。
そのことの社会的背景として、1960年代からの様々な人間の尊厳の回復を求めての人権運動が医療の本質に根源的な変革をもたらしたと言うことをここではっきりと指摘しておきたいと思います。
高齢者への差別との闘いはグレイ・パンサーという戦闘的なグループによって展開され若者たちとの連帯のプロジェクトが社会を変革しつつあります。女性解放運動の展開は性差別、就職差別をなくす社会作りの実現に大きく貢献しつつあります。また、医療消費者としての患者の権利の主張とその保護、市民の情報の公開を求めての地域社会運動、環境保護政策なども立法などに具体化されてきました。このような自分たちの「いのちを守り育てる」ためのコミュニティ・ネットワークなどがやがて世界的な拡がりの中で平和を実現するためのベトナム反戦へと収斂していったなかから展開されてきたのです。
人々の世界観や価値観、人生観の根源的変革をもたらしたこの1960年代の正義の実現と充実したいのちを生きる権利を求めての人権運動や社会運動こそが実はバイオエシックスの最も重要なルーツの一つなのです。
今から十年以上もまえのことでした。ワシントンD.C.で開催された「死と死の過程」を考えるコミュニティ・セミナーに招かれて参加した時のことでしたが、開会の言葉に続いてのセッションで、美しいバロック音楽を背景にスライドで「死を考える」テーマでの情景が写しだされました。それらの死のありさまのカラースライドは、アフリカやアジアなど世界の各地での殆ど医療と関係ない状況の中での「未熟で貧困な死」、飢餓・栄養不良などによる死に加えて、第一・二次世界大戦、ベトナム戦争、中近東や南アフリカの紛争、犯罪や事故による死など人間が作り出してきた残酷な様々な死の状況も次から次へと写し出したのです。これによって、死を特定の個人の病気・病院・医療との関わりだけで考えがちな先進医療諸国での私たちの「贅沢な死」への問いかけがなされたのです。
開発途上国の人々のいのちの保障と充実、その生と死の問題に重ね合わせつつ私たち自身の生と死をどの様に把握すべきかをめぐって討論は果てし無く続きました。
私にとって関心をひいたのは、当然のことながら高齢化社会における「成熟死」(mature death) は受入れても「未熟死」(immature death) をおこさせないように国内・国際的に着実な政策を実現していこうと言うことでした。
もちろん人間にとっての死に成熟も未成熟も無いように考えられますが、現実にはそれぞれ「大往生」が前者にあたり、「不慮の死」が後者に当たると考えられます。そして、既にこの「mature 概念」を用いての死と死の過程をめぐる様々な教育が米国では幅広く行われており、このセミナーもその一環であったことに私は強烈な印象を受けました。
私たちの生が有限であることは誰もが知っているものの、高齢者であると無しとにかかわらずその終わりが何時やってくるのか、そしてそれが「成熟死」か「未熟死」かといったことも実のところは誰にも分かりません。しかし自分が、自分のいのちの主権者としての意識に目覚め、人間としての尊厳と人権をまもるためのさまざまな社会活動や運動が医療・保健の分野にも浸透し、それが数々の生と死をめぐるバイオエシックス公共政策や立法化へと進展していったと言う世界史的な事実の重みと拡がりを正しく受け止めなくてはなりません。
その変革の担い手たちの多くが高齢者でした。旧くからあった様々な価値観の変動は、特定の分野の専門家のイニシアティブというよりも、一般の人たちといろいろな分野の専門家との開かれたかたちでの協同作業の中から新しく展開され、生や死の問題をコミュニティの中で考え、実践する方向へと向かうことになったのでした。バイオエシックスの立場から患者の自己決定を尊重し「ホスピス・ケア」(これは施設のことではなく、在宅ケアを中心に主として高齢者の末期がん患者のための緩和医療と看護のコミュニティでのネット・ワークをいう) を行ったり、患者の権利擁護など医療・保健関連のガイドライン作りや公共政策・立法は殆どすべて国レベルではなく、はじめはコミュニティでの、自分たちの「いのちを守り育てる」運動としてスタートしていることに注目すべきでしょう。
死の決定へのプロセスを自分がいのちの主権者としてあらかじめ備えておこうとする発想が法的に認められたのは米国カリフォルニア州での「自然死法」(1976年) が最初のケースでした。つまり、救急医療の現場や癌の末期状態などにおける極度の不必要な痛みや苦しみのなかで患者にとって利益となるよりかはむしろ人間としての尊厳が失われかねない程の過剰な延命処置を拒否することによってある意味で自然な「成熟死」或いは充実したいのちの終わりを迎えたいとする一般の人々の「安らかな生の終わり」への願いが立法化されたわけなのです。
これは勿論いかなる理由付けによるにしても、患者の生命を薬物の注射などにより終わらせることを目的とする患者本人の同意の有無に関わりのない「積極的安楽死」とは異なります。また「消極的安楽死」(患者本人の意向に関わりなく医療が積極的な延命に介入せず自然に死を迎えさえる) とも異なると私は考えています。即ち、「尊厳死」とは本人の法的に保障された「治療拒否権」に基付く「死を選択する権利の行使」の結果として理解されるべきなのです。したがって、事前に「living will」などの定められた文書による指示を要件としますし「事前指示」(advance directives) をより明確にした「持続的委任状」(Durable Power of Attorney) によりヘルス・ケアについての決断を特定の個人に委任するという手続きも出来るのです。このことは、治療の拒否の権利を含めあらゆる医療上の価値判断の最終的決定者は正常な判断能力を持った成人、またはその法的代理人にあるとする英米法の原理の当然の帰結であるといえるのです。米国はいろいろな民族的・宗教的背景を持った多様な価値観の共存を許容する多民族国家であり、各個人の考え方や価値判断を最大限に尊重しようという公共政策が確立しているのです。
今、進みつつある高齢化社会の中でわたくしたちの「生」や「死」のありかたを医療、看護、行政、司法などの専門家の発想にだけ委ねることは止めたいものです。自分たち自身で、また家族との関わりの中で生と死の問題を把握し直そうではありませんか。
高齢化社会を迎えつつある世界の医療先進諸国では、コミュニティの中でのボランティアが在宅の末期患者の家族を訪問し、家族の人々の手伝いや話し相手、ショッピングなどを交代で行なったりしています。その他にも、病院のボランティア部の指示の下に、末期患者のケアにあたっているケースも多くあります。
私たちの生と死を「医療」の技術性と専門性の中にのみ閉じ込めることから解放し、真に人間的な末期ケアをするために、むしろ、医療、看護専門家でないボランティアによる支え合いのネットワークをつくることには大きな意義があると思います。
良き「成熟死」を自ら全うするために患者や家族が専門家に「生命操作」をされることなく、生命と人権を侵害されないように備えるべき時代に私たちは生きているのです。
「生」と「死」に直面している自分たち自身が「いのち」の主権者なのだというバイオエシックスの発想は、高齢化社会に生きる私たちのコミュニティの中でお互いに支え合って生きていくための「いのちの質」の充実への出発点なのです。
please send your E-mail torihito@human.waseda.ac.jp
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